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第1章 ひとつの国・日本

昭和憲法では、前文に続く第1章は天皇についてでしたが、「坂井案」でも第1章は「国の中心」ということについて考えることにします。その前にまず、重要な3っつのポイントについて、「坂井案」のスタンスを明確にしておきます。


国家という枠組みは解体されるべきか

「このボーダーレスの時代に、国家がどうのというのは右翼的な国粋主義。国境という垣根を越え、国家という枠を打ち破って、"人類みな兄弟"だ」という人がいるが、これは二つの意味でどうかと思います。

第一に、かつて日本は、八紘一宇(はっこういちう:天下をひとつの家とすること)というスローガンをかかげて、白人がすべてを支配するべきという主張と戦ったわけですが、だいたいにおいて「ボーダーレス」がどうのという人たちは、八紘一宇という考え方を否定しているようです。「天下をひとつの家に」には反対「人類みな兄弟」には賛成って、どういうこと?
まあ、気持ちはわからなくもありません。かつて日本が"八紘一宇"という目的をかかげたとき、その実現のための手段として選んだのは軍隊でしたから(あるいは軍事力の行使の正当化のために八紘一宇をスローガンとして利用したとも言えます)。ですがそれは手段が間違っていたとしても、目的が間違っていたことにはならないはずです。
それ以前に、帝国主義が"常識"であった時代に他にどういう方法で、欧米の植民地主義・帝国主義・白人優位主義に対して抵抗する方法があったというなら、それを教えてほしいですね。日本が国際連盟に人種差別撤廃条項を提案したとき、過半数が賛成したにもかかわらず廃案にしたのは、議長国アメリカでした。そのために米国内の黒人たちが暴動をおこしたくらいです。

第二に、国という枠を越えるどころか、いくつもの国の内部で民族という枠さえ超えられずに殺しあっているという現在、どうやって国家という枠を越えるというのでしょうか。
人がそれぞれ違うように、民族もそれぞれ違うし、国もそれぞれ違う。考え方、歴史、価値観、宗教などなど、地球にはひとつにできない(むしろひとつにするべきでない)"違い"があふれている。そこに求められるのは、違い(個性)を押さえ込んでひとつにすることではなく、違いを認め合って共存することじゃないだろうか。

EU(ヨーロッパ連合)を例に、国という単位はなくなっていくと言う人もいるようですが、たとえば"欧州議会"などの組織をつくったことからもわかるように、EUは国が集まってより大きなひとつの国として生き延びようとするもので、決して国であることをやめようとしているのではありません。


"象徴天皇"の存在意義は終わっていくのか

「日本の民主主義が成熟していくにしたがって、天皇制はその役割を終えていく」という意見がありますが、もし天皇が日本の主権者(つまり専制君主制)だったら、民主主義が進むに連れて君主の役割は終わっていくでしょう。(徐々に終えていくよりは、革命というかたちで君主と民主がはげしく衝突することになるかも)。
ですが主権在民の昭和憲法下の天皇は、君主ではなく国民の統合の象徴です。立憲君主制の明治憲法下でも天皇は象徴だったという見方もできます。民主主義の成熟と、国の象徴とは関係ないし、むしろ民主主義の成熟によって価値が多様化していくにつれて、日本人が日本人であることの根っことして"統合の象徴"の必要はむしろ強くなるんじゃないでしょうか。

もちろん、「日本」が解散するというなら話は別です。あるいは仮に韓国のように兵役があれば、"象徴○○"などの存在がなくても、ひとつの国民としてまとまることができるかもしれませんが、兵役があったほうがいいですか?


国旗・国歌

なぜ坂井が、日本に天皇が必要でありつづけると考えるかの理由のひとつが、現在この国は国旗も国歌も"統合の象徴"としての役割を十分に与えられていないと感じるから。
他国に占領されていて、祖国の国旗をあげると占領国に罰されるとか、占領国の国旗をあげると同胞から裏切り者呼ばわりされるというケースを除けば、「自分の国の国旗を掲揚したり国歌を歌ったりすると問題視される」などという国はたぶんどこにもないでしょう。はっきりいって、異常です。

以前ある県で、就任した知事が役人に名刺を渡したら、役人が名刺を二つに折ったということが、全国的なニュースになったことがあります。誰がどう考えても、相手の名刺を折り曲げるなどとはかなり非常識で無礼でしょう。「顔に泥を塗る」というやつです。国際社会においては、国旗と国歌は、国そのものを表しているという意味で名刺と同じです。相手の国旗と国歌に敬意を払わないのはそれだけで、非常識で無礼なことです。だから、オリンピックの表彰式では他国の国旗に対しても帽子を取って敬意を表すものだし、逆に抗議の意味で相手の国の国旗を燃やしたりもするのです。
自分の名刺、自分の家の表札や家紋を大事にするように、自分の国の国旗と国歌を大事にするのは、無政府主義者をのぞけば、当たり前のことなのです。

「国旗と国歌の必要性はわかるが、日の丸と君が代は軍国主義的で反対だ」という意見があることは承知していますが、まったく賛成できません。たとえば米国の国歌と君が代の歌詞をならべて、どちらが戦闘的だと思いますか?日の丸については、朝日新聞だって社旗に日の丸のデザインを使うくらい"平和"のものです。
だいたい、日の丸や君が代か鉄砲かついで戦争したのではなく、日本国そして日本人が戦争をしたのです。日の丸や君が代を問題視する人は、その前に「日本国」「日本人」という呼称の変更を提案するのが筋です。また、「近隣諸国」の感情がどうのという向きもありますが、中国のように世界有数の兵力を持つ国や、韓国のように兵役のある国の感情は考慮する必要を感じません。


以上のスタンスにから「坂井案」では、天皇と国旗と国歌を、日本人が日本人としてひとつであるためのマスト(必須)として謳うことにします。