国を愛するということ

「愛国者」という言葉は、今の日本人にとってずいぶん遠いものになってしまった。だいたい、「国を愛する」ってどういうことなんだろう。その前に、そもそも「愛」って何なんだろう。そのあたりが、よくわからなくなってるんじゃないだろうか。

愛って何?

キリスト教の聖書では、愛というものをこのように定義している。キリスト教式の結婚式でも神父さんが朗読したりするから、もしかしたら知ってる人もいるかもしれない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、うらみを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。
(新約聖書・コリントの信徒への手紙一13章4-8より引用)

さだまさしという歌手はこのように歌っている。

相手に求めつづけていくものが恋。奪うのが恋。
与えつづけていくものが愛。変わらぬ愛
だから、ありったけの想いをあなたに投げつづけられたら、それだけでいい。
(さだまさし「恋愛症候群」より引用)

究極の愛とは?

これも聖書の言葉だけど、イエス・キリストは弟子たちにこう教えている。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
(新約聖書・ヨハネによる福音書15章12-13より引用)

国を愛するということ

昔のアメリカの大統領は、演説でこう言った。

国家があなたに何をしてくれるかを考える前に、国家にあなたが何をできるかを考えよう。

そして実際、そういう考え方をできる人がアメリカには多いようだ。だからアメリカは強い。その強さが正しいかどうかはともかく。

東京都知事の石原慎太郎は、よく「国家が自分の中にある」という言い方をしている。これをぼく流に考えると、次のようになる。

国というものを「俺たち」というふうに考えていたら、国のことは自分のこと、自分のことは国のことだ。日本が外国から馬鹿にされるのは「俺たちが馬鹿にされること」だし、日本が外国の信用をなくすことは「俺たちが信用されなくなること」だし、日本が損するということは「俺たちが損する」ということだ。
そして日本が外国から頼りにされるということは「俺たちが頼りにされている」ということだし、日本が困っている国を助けるのは「俺たちが力を貸す」ということだし、日本が弱い国や弱い外国人を守るのは「俺たちにまかせておけ」っていうことだ。
ついでにいえば、サッカーやオリンピックで日本代表が勝つということは「俺たちの誇り」だ。選手が「日本のために」と思うか「自分のために」と思うかとは関係なく、代表というのはそういうものなんだ。

実際、どこへ行ってもいつの時代でも、国というのは人間の集まりで、人間と無関係に国があるということは(ロボットだけの国なんてSFなことにならない限り)ありえない。
でも、国というものを自分とは関係ないと考えるとどうなるだろう。日本が外国から馬鹿にされたり、信用をなくしたり、損をしたりしても「関係ないね」と言うのは、どういうことなのだろう。
ひとつの家があるとしよう。そこにひとりの男がいて「この家の家族とは自分は何の関係もない他人なんだ」という状態だったら、どうだろう。たとえば家が火事になっても、「だって関係ないから」といって、消そうともせず消防署に連絡もしないで、どうしようもないなとなったら自分だけ逃げて、今度はとなりの家にでも入り込む。
「なんでそんな奴が家の中にいるんだ?そんなやつはさっさと追い出せ」と思わないか

昔、キケロという人がこういうことを書いている。

あらゆる人間愛の中でも、最も重要で最も大きな喜びを与えてくれるのは、祖国に対する愛である。父母への愛の大切さは言うもまたないくらいに当然であり、息子や娘たち、親族兄弟、そして友人たちへの愛も、親愛の情を恵んでくれることで、人間にとって大切な愛であることは誰でも知っている。
だが、これらすべての愛ですらも、祖国への愛にふくみこまれるものなのだ。祖国が必要とするならば、そしてそのためにきみに起(た)ってほしいと求めるならば、祖国に一命を捧げることに迷う市民はいないであろう。
(キケロ著「義務について」より。(塩野七生著「ローマ人の物語」第5巻からの引用))

キケロの時代、都市国家といって都市と国がとても近い意味だったので、ここで市民といっているのは国民と理解していい。たとえば「アテネ市民」とは「アテネ国民」とほとんどイコールだった。
つまり、「国のために、君に命をかけてほしい」と言われた時、それが本当に国のために必要だと思えたなら、迷わずに命をかけられる、それが市民というものだというのだ。(逆に、それが本当に国のためにならないと思ったら、正すために命をかけられるのが市民といえるのだろう)
たとえば古代ローマである戦争の時、百人隊のある隊長が将軍に「今日は、たとえ私が生き残ろうと死のうと、あなたが私に感謝しないわけにはいかないような活躍をしてみせましょう」と言ったそうだ。そしてこの隊長は実際に戦死してしまったそうだが、こういう心を「無私」という。これは蛮勇(ばんゆう:あとさき考えないただ勢いだけの勇気)とは違う。

幸せなことに今の日本では、日本のために死んでくれと君が言われるような場面というのは、そうそうはないだろう。でも、命がけになれるほどの気持ち、言い換えれば気概(きがい)というものを持っているのといないのとでは、全然違う。スポーツでも恋愛でも、本気になるから意味があるんじゃないか。勉強や仕事だってそうだ。そして"日本人でいる"ということも同じなんだよ。


クリスチャン読者への追記

坂井と同じキリスト教の人は、このページを読むと、違和感があるかもしれません。
しかし、見えるものを中心に一つになることを知らないで、どうして見えない方を中心に兄弟姉妹となれるだろうと思うのです。地上の権威の意味を知らない者が、どうして天上の権威を受け入れられるだろうと思うのです。目に見える権威に忠実(faith)でない者が、どうして目に見えない方を信仰(faith)できるだろうと思うのです。
百人隊長がイエスに誉められるほどの信仰を持てたのは、ローマ皇帝の権威とそれへの忠誠を知っていたからではなかったでしょうか。