元号について

今年は西暦2004年であると同時に、日本では平成16年です。
この「平成○○年」っという年の表し方の「平成」の部分を元号というのだけど、このページではこの元号について考えてみます。


元号とは

西暦や皇紀など、ある時点を「紀元」として、そこからの連続した年数を連続的に数える数え方を紀元年数といい、紀元年数で年を表すことを紀年法という。
西暦で「紀元前」というのは正しくは「キリスト紀元前」で、皇紀(神武天皇即位紀元)でも、北朝鮮の主体紀元でも、紀元年より前は「紀元前」ということになる。

さて、紀年法とは別に、東洋には元号(年号とも)というものがある。「号」という字は、たとえば俳句をたしなむ人のペンネームを「雅号(がごう)」と言うほか、称号とか記号という言葉もあるように、「名前」を表す字で、元号(年号)というのは「年につける名前(称号)」のこと。ローマ帝国では「○○皇帝の即位第○年」と年を数えていたけど、東洋ではたとえば漢の武帝が即位した年そのものに建元という号をつけ、「武帝即位第○年」と言う代わりに「建元○年」というふうに年を表した。日本でも、天皇のの即位があったときだけでなく、祥瑞(めでたいできごと)があった年にも号がつけられたし、大きな天災や戦乱があったときにも縁起のよさそうな元号に改元したりしてきた。

日本の元号の制度はシナ(当サイトでは現代の中国や漢や清などを総称してシナと表記しています)に倣(なら)ったものだけど、日本の最初の元号が何だか知っているだろうか。歴史の授業をちゃんと聞いていれば、絶対に知っているはずだ。「645年、大化の改新」って習っただろ?あの「大化」が最初の元号だといわれている。日本の元号の歴史はもっと古いという説もあるそうだけど、とりあえずは西暦645年、つまり孝徳天皇元年を「大化」と号したのが日本の元号のはじめだ。
(余計なことだけど、筆者が小学生のときは、645年を「ムジコの世作り『大化の改新』」なんて語呂合せで覚えた。でも考えてみると、クーデターを起こして女性天皇の目の前で人の首を切り落とした大化の改新のどこが「無事故」だったのだろう。)
その後、縁起がよいとされる白い雉子(鳥のキジ)が献上されたので、白雉(はくち)という元号に改元された。めでたくて珍しい事件というのは、天子(国家元首のこと)の善政を天が認めた証拠だと考えられていたからだ。
また、過去の歴史から「この年には革命が起きる」と考えられていた年にも改元するのが通例であるなど、言って見ればしょっちゅう改元していた結果、大化から平成までで実に247個もの元号がある。


どう考えても西暦のほうが便利

西暦1989年1月。その前年から病床に伏しておられた昭和天皇が亡くなられた。そして昭和の時代が終わり、平成の時代になった。
昭和天皇の崩御(位の高い人が死ぬこと)は日本にいろいろな意味の衝撃を与えたのだけど、元号が変わったということだけでも、日本の社会や経済に大きな影響があった。何しろ、昭和は64年まで続いたということは、元号が大正から昭和に変わってから64年ぶりに元号が変わったわけだ。
日本では公的な文書の日付は元号で書かれることが多い。ことに役所関係の書類はすべて元号だ。それをすべて、昭和から平成に変更しなければならなかった。昭和の64年間のうちに世の中はすごく変わったけど、一番おおきく変わったのは、いろいろなところにコンピュータが導入されたことだろう。たとえば書類などもコンピュータから自動的に印刷させることが多くなっていたけど、それをかたっぱしからプログラムを直さなければならなくなったわけ。筆者もコンピュータプログラムを仕事にしているけれど、職場の先輩の話では、天皇陛下の崩御を悼んで泣く人々とは別に、多くのプログラマーも仕事のことで泣きたくなったのだとか。
そんなこんなで、昭和天皇の崩御を悼む気持ちとは別に、元号に関して日本のあちこちで「この際、元号を廃止して、西暦に統一したらどうか」という声が上がったのは、当然といえば当然かもしれない。

歴史の教科書なども、事件の起きた時期についてはほとんどすべて西暦で書かれている。西暦とは「西洋の暦(こよみ=カレンダー)」ということだけど、日本史も西暦で書かれている。というのは、通史つまり連続したひとつの流れとして歴史をとらえるときに、元号ではどうしても不便だからだ。
たとえば明治維新が今から何年前かを元号で数えようとしたら「明治が45年まで、大正が15年まで、昭和は64年までで、今が平成1X年だから、全部足して。。。あ、昭和64年と平成1年は同じ年だから、えーとぉ?」とややこしい。これが西暦だったら「明治元年は西暦1867年、今年は西暦200X年だから、」と一発だ。

どっちが便利かというなら、やっぱり西暦のほうが便利だろう。

実は日本には、「平成○年」という年の表し方のほかに、冒頭でも触れた「皇紀○年」という紀年法もある。たぶん公立学校の義務教育では習わないと思うけど、初代の天皇とされる神武天皇の即位を元年とするカレンダーで、平成16年(西暦2004年)は「皇紀2664年」にあたる。
これなら、西暦と同じくらい長いものさしだから、十分便利に使えそうだ。実際、明治時代には、詔勅(しょうちょく=天皇の署名で出される法律)や国書(外交文書など、国が出す書類)は、元号と皇紀が併用されていたそうだ。

しかしこの皇紀という紀年法は、実在の天皇ではないとも考えられている神武天皇の、それもあとから考えられた即位年を基準にしているなど、科学的ではないという問題が指摘されている。科学的でないというなら、あとで述べるように西暦だってずいぶんいい加減なのだけど、とりあえず日本国内でしか通用しない皇紀よりは、やっぱり西暦のほうが便利そうだ。

ではなぜ、今も日本では元号が使われているのだろうか。


天皇の在位とはそれほど関係がない

「元号は天皇の在位をあらわすもので、第二次大戦後に主権が天皇から国民に移った(主権在民)のだから、もう元号を使うべきではない」という意見がある。でもこれは正しくない。

確かに、「大正」は、大正天皇の即位から崩御まで使われた元号、「昭和」は昭和天皇の即位から崩御まで使われた元号、そして「平成」は今上天皇(現在の天皇)の即位から使われている元号だ。
でも「昭和天皇が即位したから、今年から元号は昭和だ」というわけではない。そもそも昭和天皇が昭和天皇になったのは、平成になってからなんだ。

よくわからないかな?

「現在の天皇」は、単に「天皇陛下」とか「今上(きんじょう)陛下」と呼ばれる。そして天皇が崩御なされて、次の天皇が即位したあと、前の天皇に「諡(おくりな)」といって、名前を贈ることをする。ちなみに崩御してから諡されるまでのあいだは「大行天皇」(たいこうてんのう)とお呼びする。
で、次の表に整理するように、昭和天皇が「昭和天皇」になったのは、昭和天皇が崩御され、元号が「平成」になったあとなんだ。それまでは、現在「昭和天皇」と呼ばれている人物は「今上天皇」と呼ばれていて、「昭和天皇」という人物はどこにもいなかったわけだ。

表:改元と諡号
1989年1月7日 午前6時34分天皇裕仁(ひろひと)陛下が崩御。裕仁陛下は「今上天皇」から「大行天皇」になった。
同日午前10時1分皇太子明仁(あきひと)殿下が「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)」という践祚(せんそ:皇位を継承すること)の儀式をおこなって、天皇に即位(「今上天皇」になったのであって「平成天皇」になったわけではない)。
同日14時36分故・小渕氏(当時の官房長官、後に内閣総理大臣)が、新元号「平成」を記者発表。翌日の1月8日から平成時代となる。
1989年1月13日裕仁陛下に「昭和天皇」という諡号(しごう)が諡(おくりな)される。このときまで「昭和天皇」という天皇は存在しない。

諡(おくりな)とか諡号(しごう)って言葉が出てきたけど、高貴な人に、生前の業績に基づいて贈られる名前を「諡号」という。歴史上いろいろな変遷があって、現在では天皇と皇后だけが諡されることになっている。

ついでにいうと現在、元号というのは、天皇でも皇室でもなく、国民の代表である政府が決める。その決め方については元号法(昭和54年法律第43号)という法律で「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。」と決められている。
「天皇が崩御され、皇太子殿下が皇位を継承して即位した。だから法律にもとづいて元号を改めなければならない。ではどういう元号にしようか」ということを、学者に相談したりして政府内で検討した結果、「平成」に決まったんだ。
だから「昭和天皇が即位したから昭和時代になった」のではなく、「昭和時代に天皇だったから昭和天皇とお呼びする」という順序になっているわけ。

ちなみに、どういう諡号にするかの決まりは法律にないので、現在の皇太子殿下が次の天皇になられた場合、現在の天皇陛下が「平成天皇」になると決まっているわけではない。たぶん「平成天皇」になるのだろうと思うけど。
だとしてもその時までは、間違っても今上天皇を「平成天皇」と呼んではいけない。天皇をおくりなで呼ぶのは皇位継承があったあとなのだから、「平成天皇」と呼ぶことは今上陛下を亡くなられたことにするという、とても失礼なことなんだ。天皇に限らず、生きている人をすでに亡くなったかのように言うのは失礼なことだろ?たとえばお寺では、なくなった人に戒名(かいみょう)という名前を贈るけれど、生きてるうちから戒名で呼ぶことは、現代では普通はしない。同じように、今の天皇を諡号で呼ぶことはしないんだ。
上の表を見て「裕仁陛下の崩御からたった8時間で、新しい元号をどうするか話し合って決めたの?」と思ったかもしれない。もちろん以前から検討はされていたはずで、そういったことの研究書も何冊もある(このページの最後のほうにも参考文献を挙げてある)。ただ、現在の天皇がご存命なのに「亡くなったあとのための準備をしています」というのは失礼だから、検討しているのを伏せていたのだと思う。
(余談だけど、お葬式の時に仏式だと香典というものを参列者は遺族に届けるけど、これにいれる紙幣はピン札はいけないというのが常識。なぜかというと、ピン札を香典にするということは「もう死ぬだろうと思って、香典の準備をしておいた」という意味になってしまうからなんだ。裕仁陛下の生前から「次の元号の準備をしてました」などと言えなかったというのも同じことで、人の死というものに対してあまり手回しをよくするのはタブーということ。)

ただ、長い皇室の歴史の中では例外もあって、後醍醐天皇は生前から自分で「後醍醐」と名乗っていたそうだ。ただこれは「醍醐天皇の時のような世の中にしたい」という意味でそうしていたもの。後醍醐天皇やその時代はとてもおもしろいので、よかったら自分で調べてみてほしい。

さて、元号と天皇についての話に戻ろう。
元号法ができて「皇位の継承があった場合だけ元号を変える」となったのは昭和54年だ(6月12日に制定、即日施行)。つまり「一人の天皇の間は元号を変えない」となったのは、元号の歴史から見れば、ついこのあいだのことなんだ。
といっても、実際には明治と大正も、一人の天皇の間だけの元号だった。というのは元号法ができるより前、慶応4年を明治元年に改元したときに、一世一元(天皇ひとりのあいだは元号もひとつ)ということも決められたんだ。これは法律ではなく詔勅(しょうちょく)、つまり天皇の命令というか宣言として出されたことだったのだけど、当時は詔勅は法律と同じ(あるいは法律よりも重要な)意味を持っていた。
けれど明治時代より前は、皇位の継承がなくても先に書いた通り「祥瑞があったから」とか「最近、大飢饉など良くないことが続くから」などという調子でどんどん改元していたんだ。

明治時代の前は江戸時代だから、慶応4年が明治元年になったということは、慶応は江戸時代の最後の元号ということだね。なんていうとずいぶん昔のことだと思うかもしれない。でもそれほどでもないんだ。
平成16年つまり西暦2004年に、昭和天皇の弟の奥さんだった、高松宮喜久子という方が亡くなったことがニュースになったのだけど、この人は徳川幕府の最後の将軍だった徳川慶喜のお孫さんだったんだ。今は100歳を過ぎて元気なお年よりも多いから、「私のおじいさんは江戸時代の生まれ」というお年寄りとか、けっこういるかもしれない。そう思うと、そんなに昔でもないと思わない?

「元号が天皇を記念する紀年法」というのは、法律的には昭和54年以後だけを、詔勅までさかのぼっても明治以来の1世紀ちょっとだけを、247個の元号のうちたった4個だけのことを言っているんだってことは、これでわかっただろうか。
先に言ったとおり、645年の大化から2004年現在の平成までの約1360年間で、元号は247個。平均すれば5年半に1回くらいのペースで元号が変わってきたわけ。昭和のように64年も続いた元号もあるから、5年半より短命だった元号もいっぱいあるだろうね。


西暦とは?

元号の話しを進める前にここで、「西暦とはそもそもどういうものなのだろう」ということを整理しておこう。それには「復活節」というキリスト教の祝日の話からはじめなければならない。

復活節というのはキリスト教の三大祝祭のひとつで、十字架で殺されたイエスが三日目に復活したことを記念する日だ。(ちなみにあとの二つは「降誕節(クリスマス)」と「聖霊降臨節(ペンテコステ)」)。
この復活節は、西暦325年に開かれたニケア会議というキリスト教の会議で、「春分の日のあとの初めての満月のあとに来る日曜日」と決められた。つまり太陰暦なのだけど、太陰暦というのは365日で数えるとだんだんズレが出てくる。
(復活節はキリスト教の初期からおこなわれていたけど、当時はユダヤ暦ニサンの月14日、あるいはニサンの月14日の直後の日曜日だった。太陰暦が不便という理由のほかに、これは邪推なのだけど、ユダヤ人を差別し続けてきたキリスト教としてはユダヤ暦を基準にするのはプライドにかかわる、という感情もあったんじゃないかと思う。)
(「春分の日のあと」といっても春分の日は年によってかわるのだけど、ここでは天文学から求められるカレンダー上の春分ではなくて、常に3月21日のこと。)
そこで525年に考案されたのが「復活祭の書:復活祭表」で、考案したのはディオニューシウス・エクシグウスという修道士だった。この暦法は西暦664年にウィットビ宗教会議という会議で採用され、イングランドの教会で使われはじめ、10世紀後半にはそれまで「ローマ教皇だれそれの在位○年」という書き方をしていた教皇庁文書にもキリスト紀元が登場するようになった。

さて、エクシグウスはローマ建国紀元754年がキリスト降誕の年(西暦1年)だと割り出したのだけど、なぜそう算出したかがはっきりしない。
イエスが三日目に復活したのが日曜日なので(正確には、イエスが復活した日を記念して、弟子たちが仕事を休んで集まり礼拝するようになった)、「復活祭が日曜日にあたる日」を年代的に探し、キリストの年齢の定説を差し引いて定めたのだろうとは推測できる。けれどエクシグウスの計算の過程も根拠も明らかになっていない。たぶん、歴史的考古学的な研究の成果によるというより、キリスト教界で言い伝えられていたキリストの復活年や年齢を根拠にしたんじゃないかと思われる。

Wikipedia「西暦」には、次のようにして割り出したと書かれている。

ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した。そこで、ここから復活祭(過越の祭りと同日)の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、イエスの復活した年を求め、その時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、更に31年遡った年がイエスの生誕年に当たるとした。これにより「ディオクレティアヌス紀元248年=キリスト紀元532年」として復活祭暦表に記載した。

ただし。
「ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致する」とした根拠はもう少し調べてみないとと思う。
復活祭の日付が532年で一巡するというというのは、太陽暦と太陰暦の最小公倍数がほぼ532年ということ。これは紀元前433年に発見されたメトン周期というものから導けるのだけど、ディオニュシウスの計算方法をメトン周期で説明できるとしたのは少し後のベーダという人で、ディオニュシウス自身は自分の計算方法が532年周期だということには気づいていなかったとしているサイトもある。
というわけで、上記の引用をそのまま信じていいものかは疑問。wikipediaはちょっとした調べごとには役立つけど、誰でも編集できるものだからいつでも常に正確とは限らない。これはインターネット全般に言えることだけどね。(だからこのページも鵜呑みにしないほうがいいかも? 情報はできるだけ出典を明示するようにしてるけど、それ以外のところはこのページをつくった個人が勝手にそう考えていることだからね。)

とにかくエクシグウスは、現在わかっている学問的成果を知らなかったわけだ。
たとえば、聖書の「マタイ福音書」の2章によれば、イエス生誕年(エクシグウスが西暦1年とした年)には、ヘロデ大王がユダヤを治めていたことが記録されている。ところが、ヘロデ大王の没年は紀元前4年であることが世界史の分野では確定されている。つまりイエス生誕年は紀元前4年かそれよりも昔ということで、エクシグウスの計算は少なくとも4年も間違っているわけだ。
他にもいろいろな根拠が提示されていて、現在はイエスの生誕年は紀元前7頃〜紀元前4年のどこかだろうとする説が有力なようだ。世間がノストラダムスの大予言で騒いでいた1999年には、世紀末はとっくに過ぎていたわけだ。仮にイエス生誕年が紀元前4年なら、今年2004年は2008年になる。

これらのことをエクシグウスは知らなくて、そしてこれらのことがわかってきた頃には、エクシグウスの紀年法は普及してしまっていて訂正しようがなかった。それでやむなく、エクシグウスが「abu incarnatione Domini(直訳すれば「主の体現から」だけど、意味としては「神である主(キリスト)が人間の体をもって現れた年から」ということ)」という意図で紀元後を表していた「AD」を、「Anno Domini(主の年に)」に変更してお茶を濁したわけだ。
(蛇足だけど、ADはラテン語の略なのに、紀元前を表す「BC」は英語の「Before Christ(キリスト以前)」の略。この使い分けは英語の習慣によるもの。)

どうだろう。けっこうテキトーだと思わないか?西暦は「キリスト紀元」といいながら、実はキリストを起源とする紀元になっていない。むしろ、紀元前4年以前に世に降臨したキリストを、今さら訂正できないという理由で西暦1年に生まれたことにしてしまっているというのは、「宗教的にそれでいいの?」という気さえする。

でも、便利かどうかというのは、宗教的にどうだとか科学的にどうだというのは関係ない。紀年法というのは、ある年を基準とするということが共有できていればそれでいいのだから。ただし、「皇紀は科学的に根拠がない」という人は、「西暦も科学的に誤り」と言わなければならなくなる。イスラエルで使われているユダヤ暦(計算で割り出した天地創造の年が元年)とか、ミャンマーやスリランカ等で使われている仏暦(ブッダの没年を基準にしているけど、歴史上の没年ではなく宗教の伝承上の没年を基準にしている)とか、タイで使われているタイ仏暦、韓国の檀君紀元などにも「誤りだ」と言わなきゃならなくなる。キリスト紀元の「西暦」以外のカレンダーがあるのは日本だけじゃないんだ。


独自のカレンダーは独立国の証拠

かつて日本はシナと日清戦争で戦った。そして世界中が驚いたことには、鎖国をやめて開国したばかりでまだ後進国と思われていた日本が、「眠れる獅子」と呼ばれていたシナに勝ってしまった。
この戦争の結果、コリアはシナから独立した(李氏朝鮮、大韓帝国、大韓民国などまとめてコリアと書く)。それまでコリアには李王朝という、500年の歴史を誇る政府があったのだけど、それはシナの属国、つまり国としての主権がない政府だったんだ。と言ってもこれはシナがコリアを征服していたという意味ではない。属国というのは「他国の主権の下に属する国」という意味で、コリアはシナとは別の国だったけれど、シナの強い影響力の下にあったという意味だ。
どういう影響かというと、たとえばコリアはシナに貢物をおさめなければならなかった。
コリアの王位につくためには、(たとえ先代の王の王子だったとしても)シナ皇帝の承認が必要だった。明治維新後、日本が天皇の名でコリアに国書(国としての外交文書)を送ろうとしたとき、コリアは「皇という字を使っていいのはシナの皇帝だけだ」という理由で、日本の国書を受け取ろうとしなかったほどだ。
シナの国教ともいえる儒教をコリアも国教としていた。

さらにもうひとつ、コリアはシナの元号を使っていた。前置きが長くなったけど、逆にいえば、独自の元号、独自のカレンダーを持っていることが、自立している独立国の証拠ともいえるわけだ。
たとえば古代のローマ帝国では、「皇帝アウグストスの在位第○年」というような紀年法だった。ローマ帝国はどこの国の支配も受けていない独立国だったからだ。一方、キリスト生誕時のユダヤはローマ帝国の属国だったため、福音書を書いたルカはキリストの誕生年を「ローマ皇帝がアウグストゥスで、クィリーニウスがシリアの総督だったとき」とローマを基準に記している)
西欧諸国が西暦と言う紀年法を共有しているのも、おおざっぱに言えば西欧諸国はみんなローマ帝国の末裔なわけで、だからローマのカレンダーの後継ともいえる西暦を共有しているにすぎない。アジアやアフリカや南アメリカの国で西暦を採用しているのは、西暦を使っていた国に植民地にされていた歴史があるからだ。

ではもともと英国の植民地だった米国も西暦だけかと思うと、ほかに「アメリカ合衆国建国○○年」という紀年法がある。どれくらい一般的に使用されているかはわからないけど、たとえば東北楽天ゴールデンイーグルスの初代GMであるマーティ・キーナート氏は、自分が持っている大学卒業証書についてこう書いている。

「西暦1968年、アメリカ合衆国建国192年、大学創立77年の6月16日にカリフォルニア州のスタンフォード大学で」学士号を授与されたと、しっかり記されている。
(中略)
私が大学を卒業したのは22歳のとき。1891年創立の大学は77歳、祖国は独立から192歳、そして、世界は(イエス・キリストの誕生から数えて)1968歳だった。

(以前にhttp://news.msn.co.jp/478999.armxで公開されていた氏のコラムからの引用。現在はこのページにはアクセスできない。)

これなどもやはり、米国が独立国である証拠としての紀年法といえるだろう。
日本も同じように、どこの支配も受けていない独立国だ。第二次大戦に負けたときも、幸運にも植民地にならずにすんでいる。だから自前の紀年法があるというわけ。

世界の国々とつきあっていくために、世界で一番通用している紀年法である西暦を採用するのは便利なことだと思う。
でも、独立国としての歴史があるから、たとえ実用的でなくても、自前の元号というものもそれはそれで大切にするべきだと、私は思う。きみはどう思うかな?


結論めいたことを言うとすれば

それぞれの国、それぞれの民族に、それぞれの歴史がある。歴史とはその国、その民族があゆんできた時間で、だからその国、その民族による数え方(紀年法)があって当然だと思う。

この国際化時代、固有の歴史を持つ者どうしが付き合って行くためには、共通のものさし(カレンダー)が必要だ。そのために西暦が便利に使われていい。ただ、自分たちの歴史を誇り、相手の歴史を尊重することも、国際化時代だからこそ必要だとは思わないか?国際化というのは違いを認め合うことであって、違いを塗りつぶすことではないはずだと、私は思う。


関連リンク

このページを読んだ方とのメールのやりとりを以下にアップしています。元号そのものの話しではありませんが。
読者との意見交換:コリアは属国か?

このページをまとめるにあたって参考にさせていただいたページを紹介します。

紀年法について考えるページ
主催者は「元号廃止」を主張している方で筆者とは意見を異にするのですが、それはさておき紀年法についてとても参考になるページです。

平成を作った男 山本達郎
平成最初の日
どちらも「平成」という元号が提案された経緯についての紹介です。


参考図書

暦(こよみ)入門 暦のすべて
渡邊敏夫・著、雄山閣出版、平成6年4月5日発行、ISBN4-639-01219-5

アジアの暦
岡田芳朗・著、大修館書店あじあブックス、2002年12月10日初版、ISBN4-469-23190-8


クリスチャン読者へ

筆者自身、「元号は天皇を記念するものであり、クリスチャンなのだから、キリストを基準とする西暦を使うべきだ」と長いこと考えていました。

しかしこのページに書いたように、元号は天皇を記念するわけではないこと、西暦も確たるものではないこと、しかも元号が日本の国柄にとって重要であることを考えると、現在は「日本人クリスチャンなのだから元号を使うべきだ」という考えになっています。(これは筆者個人の考えであって、すべての日本人クリスチャンにそうしろと言っているわけではありません)

また、このサイトでは一部で皇紀も表記しています。これは「天皇が神々の子孫である」と筆者が考えているというわけではなく、(歴史書の編纂者による改竄の可能性も含めて)神話もまた民族の歴史であると考えているものです。
同様に、天地創造を紀元とするユダヤ暦を使うユダヤ人の歴史観にも敬意を払います。檀君神話により「半万年」の歴史があるとする韓国人の歴史観にも敬意を払います(朝鮮人がユーラシア大陸を征服していたとか、英語アルファベットの起源はハングルだとかいうトンデモ史観は別として)。
金日成の誕生年を元年とする主体紀元には、感情的には敬意を払いにくいところはありますが、もし北朝鮮が真に「朝鮮の民主主義な人民の共和国」になってそれでもその紀年法を使うなら、北朝鮮国民のその歴史観は尊重されるべきだと思います。

「今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ13:1)
「王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。」(コロサイ1:16)
ヒトラーの例を出すまでもなく、これらの言葉は捻じ曲げられて使われる危険の高いものです。しかしだからといって、聖書の言葉が真理であることに変わりはないはずです。神によって立てられた権威を人間が誤って運用することはあっても、それは人間の罪であって、神の言葉は不変です。
だから筆者は、この言葉において、どの国の権威も、そしてその変遷(歴史)も、本来は神に祝福されていると思っています。

福音を知らなかった時代の日本が多神教的な歴史を歩んできたからといって、「だからその歴史は否定されるべきである」というなら、上のパウロの言葉は「聖書にもとづいた統治が行われている国なら」と条件付きで読まなければならないことになります。
そんな国が歴史上、現在も含めて存在しているか疑問ですが。それに上の聖句を条件付で読むなら、「聖書のどの言葉も条件つきで読んでよい」ということになります。

ところでまったく余談ですが、上述の元号法は、キリスト教徒であった大平正芳氏が内閣総理大臣として公布・施行したものです。


このページの内容には、筆者がかなり以前にメモしていた内容もありますが、現在そのメモの出典を確認しきれていないものもあります。このため、筆者の記憶に頼って書いている部分もあることをご承知願います。誤りが確認された場合はただちに修正します。