Bless Israel!

イスラエル国旗

私なりに聖書に親しんできて、「キリスト教徒である自分はイスラエルとどうむきあうべきなのだろうか」ということを考えるようになりました。

ある牧師からは「クリスチャンだからといって、私はイスラエルに特別な関心はもたない」と言われました。
でも一方で、教会ではよく「愛」の反対は「無関心」であるとも聞きます。それが正しいなら、「私はイスラエルに特別な関心はもたない」というのは、(中立ですよと言っているようでいて実は)「世界中でイスラエルに対してだけは愛を持たない」ということです。イスラエルに無関心というのは、反ユダヤ主義とイコールなのです。イスラエルに対する姿勢に限らず、無関心、傍観、無視は、それが中立という衣をまとっていたとしても、「反対」と同じことです。
イエスは確かに「明確に敵でない者は味方なんだ」と教えましたが、神に対して敵でも味方でもないという姿勢がありえないのであれば、神がみずから選んだ「神の民」に対して敵でも味方でもないという姿勢もまたありえないはずです。
実際、ユダヤ人とカトリックのあいだにある大きな溝の一つは、ドイツがユダヤ人を迫害している間に教皇ピウスが何もしなかった(個人的には力を尽くしたとしても教皇として公式には何もしなかった)こと、そんなピウスをカトリックが列聖しようとしたことにあります。

「神の民」の側につくか、それに反対する側につくか、どちらかしかないのであれば、どちらをとるべきなのだろう、ということを私は考えています。

もうひとつ、教会によっては、明らかにイスラエルに対してだけ反感を持つ人たちがいます。
たとえばキリスト教のある宗派は、2008年末から2009年はじめにかけてのイスラエルのガザ地区攻撃の際に、イスラエル政府に対する反対声明を出しています。もちろんクリスチャンは「平和をつくりだすもの」でなければなりませんから、あらゆる戦争に対してノーと言い続けるならわかります。ところがこの教会は、ハマスに対しては、何の声明も出していません。ハマスが一方的にイスラエルを攻撃していた間も何もしませんでした。イスラエルが撤退した後もハマスはガザからイスラエルを砲撃し続けていますが、それに対してもこの教会は無視しています。また、中国のチベット迫害やウィグル迫害についても何も言おうとはしません。明らかに「平和を乱す行為」への反対ではなく「誰がそれをしているか」によって判断しています。「それ」がイスラエルなら反対するけれど、「それ」がイスラエル以外なら気にもとめない、というのは反ユダヤ主義としか言いようがないと思うのです。

私は物心つかないうちから教会にかよわせてもらっていましたが、その中で「聖書の中でイスラエルに対して神から恵みや祝福が約束されているのは、現在ではイスラエルのことではなく教会のことなんだ」ということをしばしば教えられてきました。でもそんなことは、聖書には一言も書いてありません。聖書に書いてあるのはただ「神の賜物と招きとは取り消されない」(ローマ11章29)という宣言と、私たち異邦人クリスチャンや異邦人教会は「神とイスラエルとの契約」におけるイスラエル側に加えられただけだということです。聖書の「イスラエル」を「クリスチャン」あるいは「キリスト教の教会」に置き換えて読むと、多くの場合に文脈がおかしくなり「無理な、あるいはこじつけた解釈」が必要になってしまいます。

浅学な私にとって、先達たちが積み重ねてきた神学もまた大切な手がかりです。それでも、「聖書」を読むのか、それとも聖書についての「人の言い伝え」を読むのか、どちらをとるべきなのだろうということを私は考えています。
また、イスラエルは私の希望でもあるのです。つまり「何のいさおしもないままに神から選ばれ、あれほど神にそむき続けながらも決して神の招きが取り消されていないイスラエル」があるからこそ、「何のいさおしもないままに神から選ばれ、救われてなお罪を犯し続ける私」の希望ということです。「イスラエルはそむきのために神から捨てられ、祝福は教会に与えられた」という考え方が成り立つのであれば、教会もまた捨てられうることになりますし、むしろ自然に生えた枝であるイスラエルを容赦されなかったとすれば、接木に過ぎない教会などはさらに容赦されないことになります。

たぶん私にとって一番大きな契機となったのは、ここ数年、日本バプテスト連盟の教会に出席するようになったことだと思います。日本バプテスト連盟は社会問題について強く取り組んでいますが、特に日本の戦争責任というものについては熱心に取り組まれています。そうしたことに触れているうちに「日本によってアジアの国々が被害を受けてきたというが、それとは比較にならないほど教会によって世界の国々が被害を受けてきたことはどう考えるべきか」と思うようになっていきました。日本による侵略は、明治時代から昭和20年。明治維新直後から対外戦争を始めたわけではないですが長く見ても1867年から1945年。一方、キリスト教徒による異教徒攻撃あるいはキリスト教徒同士の戦いは、20世紀をとおして盛んでしたし21世紀になっても続いています。奴隷貿易、植民地支配、帝国主義など、日本が100年にも満たない期間にやったことがセコく見えるほどのことを、キリスト教徒は続けてきたし、現在も続けています。
中でも特に、神みずから「わたしの民」と呼んだユダヤ人に対する、キリスト教文化圏の国々の差別行為。第二次大戦中、個人レベルではシンドラーなどの行動もありましたが、国として「ユダヤ人を他の国と差別せず」という方針を出し、実行していたのは、キリスト教国ではない日本だけでした。

「わたしたちキリスト教徒」がしてきたことの責任告白はせずに、「わたしたち日本人」がしてきたことの責任告白はする、というのがわからないのです。「私たちはキリスト教徒である前に日本人です」ということになるのでしょうか。
まず神が私を愛してくださって、その神が私を日本人として創造された、ということから考えるようにしたいと思うのです。

そういったことを考えていくために、イスラエルのためのページをアップすることにしました。
聖書に繰り返されている、神の民イスラエルを祝福する者は神から祝福されるという約束から、このページのタイトルは「Bless Israel!」としました。


目次