管理人はクリスチャン

二代目はクリスチャン、なんて映画がありましたが、五代目布屋忠次郎こと坂井信生もお宗旨はキリスト教です。

クリスチャンでないお客様に、少しでもわかりやすく説明するとしたら、
世界史的には、宗教改革の絡みでいう新教(プロテスタント)のほうです。洗礼名がないほうというか、お祈りするときに十字を切らないほうというか、神父さんじゃなくて牧師さんがいるほうというか。

「イェスはキリストで、キリストは神で、それを知る手がかりは聖書」ということを信じています、と要約すれば、世界史では旧教と呼ばれるカトリックも同じだし、ローマのカトリックと別れたビザンチンの東方教会(なんとか正教)も同じなんですけどね。

クリスチャンや、キリスト教に詳しい方向けに自己紹介すると、プロテスタントの中でも福音派と呼ばれるところの、日本同盟キリスト教団に参加している教会で信仰を持ちました。日本バプテスト連盟の教会にもお世話になっています。


信仰告白

もっと具体的に言うと、信仰告白のページに書いたようなスタイルです。

キリスト教の諸宗派のWEBサイトなどのぞくと、多くのところで「信仰告白」とか「信仰宣言」といったものをアップしています。「私たちはこういう信仰を持つ宗派です」という表明ですね。
日本同盟キリスト教団(同盟教団)のサイトでも信仰告白を公開しています。でも正直なところ、普通に教会員(まあ、檀家みたいなものです)やってると、あまり教団というものを意識することもなく、教団の信仰告白というものもほとんど意識したことがありませんでした。
日本バプテスト連盟(以下、バプ連)のサイトでも「信仰宣言」を公開しているのですが、これを読んでおもしろかったのは、バプ連は「各個教会主義」というのが強くて、信仰宣言も教会ごとにあって、バプ連の信仰宣言は教会ごとの信仰宣言を前提としているんですね。で、さらにバプテストの特徴というものの中に「個人の主体的な信仰」というものが謳われているのです。
もちろん同盟教団だって教会ごとに主体性があるし、信徒にも主体的な信仰があるわけですが、と考えていくとこれって当たり前じゃないかと言う気がしてきて、じゃあ私、坂井信生の信仰とはどんなものだったのだろうと整理してみたのが信仰告白のページというわけです。

もともとこのサイトでも自己紹介のページは公開していましたが、キリスト教について扱っているだけに「ひとくちにキリスト教って言っても、どんな考え方のやつがやってるサイトなんだろう」ということこそ出すべきじゃないか、とも思いました。


言いたかったこと

とは言っても、文章にまとめようとすると意外と難しかったです。全部を盛り込むことはできないし、さりとて取捨選択も容易ではないし。ということで「使徒信条」「同盟教団の信仰告白」「バプ連の信仰宣言」をベースにしつつ考えてみました。

が、考えてみると意外とピッタリとはこないもんですね。同盟教団の教会でバプテスマ(洗礼)を受けるときにその信仰告白には同意していたはずだし、バプ連の教会に客員教会員として受け入れていただくにあたってもバプ連の信仰宣言は見ていたし、何より使徒信条については私これ大好きなんですよ。けれど。うーん。

考えたあげくに、2007年7月版として次のように構成してみました。

まず、何よりもイエスへの信仰を最初に言いたかった。実は同盟教団もバプ連も、聖書についての言及を冒頭に近いところに持ってきています。たぶん「まず聖書、そして聖書が伝えるもの」という構成なのだろうと思うのですが、私は「まずイエス、そしてイエスを伝える聖書」としたものです。こうすることで、「なぜ聖書なのか」を出したかった。

そして「なぜイエスか」というところについては、実は考えすぎたかなというくらいの極論に走っています。
まず、使徒信条でいうところの「聖霊によりて」「処女マリアから生まれ」というのはあえて入れませんでした。それは「イエスの神性」を証言するものではあるけれど、イエスが坂井信生の罪を肩代わりするために死んでくれたということに比べたら些事だと思ったからです。
さらに「十字架につけられ」もはぶきました。彼が木にかけられたことは旧約聖書の成就ではあるけれど、焦点は彼が私のために死んだことであって、たとえば祭壇の上で殺されたのでも、絞首刑や電気椅子だったとしてもかまわないからです。
もっと言えば、イエスが十字架で死ななかったとしても問題はない。焦点は「罪なき者が神の前で罪ある者とされ、神から捨てられ断絶された」というところにあると思うからです。事実、イエスは自分が生き返ることを知っていたのだから、死ぬこと自体のためにゲツセマネで苦しんだわけじゃないと思う。死という状態そのものではなくて、死が意味する「罪のゆえに神から断絶される」ということのゆえだったのでしょう。

さらにあえて言えば、イエスが神でなかったと仮定してもいい。あくまでも説明のための仮定ですが。
私なんかのために、会ったこともない、彼が世に現われてから2000年近くもたってから生まれてくるような私なんかのために、文字通りの意味で何の罪もなかった彼が神の前で罪ある者とされ、神から捨てられるという尋常でない苦痛を味わった。そんなイエスにこそ、私の『誠実』をささげようと思う。
ところがそのイエスが実はキリストであり神だった、というのが私の『信仰』なんです。
(これは「こう考えたから信仰に入った」というのではなく、信仰しているうちに至った「ことばで私の信仰を説明するならこういうこと」というものです。)

ところでこの『誠実』も『信仰』も、英語だと同じ単語、faithで表されます。そこで本文でも「私のfaithをささげる」と表現しようと思ったのですが、ちょっと文章がつながらないので断念しました。

次にようやく、このイエスを伝える聖書についてですが、ここも悩みました。同盟教団でもバプ連でも、聖書を唯一の規範と謳っている点です。
私も聖書の唯一性を堅持する者ではあるのだけど、ここでいう「聖書」がもし「聖書に書かれている言葉」だけをダイレクトに指すものだとすると、私みたいに浅学な者は困ってしまうのです。聖書の全部を独力でわかるなんて、私にはできない。となると、まず聖書に取り組んできた先達が積み上げてきたもの(神学と呼ばれるもの)は必要だし、自分の周囲にいる信仰の先輩たちの生き様も手本です。先輩に限らず、教会に来ている子供たちの何気ない一言からも学ぶことが多いですし。それに聖書って「どうとでも取れる」ところが多く、つまり「自分が読みたいように読める」ところが多いわけで、異端的な読み方をしないとも限らない。こうなるともう、聖霊の導きを期待して読むしかない。ところが「それがたしかに聖霊の導きなのか」というのはやはり聖書によって吟味しなければならないわけで。
というわけで、「聖書のみ」という中に「聖書そのものと、聖書にもとづく教会や人々と、聖霊の導き」を含めました。


こだわり

以上だけでも私の信仰告白となるのですが、ここまでに書いた「どんな信仰」を指針として、「どのように信仰」というところまで宣言しています。
ここに、キリスト信者である坂井信生がこだわり続けたいと思っていることを宣言しました。

その第一は、神を礼拝することです。これは義務でも習慣でもなく私の特権であることを、十戒の第一、第二戒を軸に宣言しました。
同盟教団もバプ連も戦争責任の告白についての声明を出しているのですが、どうも「自分たちの戦争責任を告白」というよりは「日本の戦争責任」を追及する方に気が行っているような文章に思えてしかたないのです。と言っても、「戦争中のクリスチャン」の当事者でもない私は当時の教会を裁く立場にもありませんし、そもそも戦争責任を反省する立場にもないので、あえて「これまで」ではなく「これから」について謳ったものです。

第二のこだわりは、「自分が日本人である」ということが「神に計画されたことだ」という確信です。ついでに言うと、私はクリスチャン家庭に生まれ、自分でキリスト教を選んだという前にキリスト教の中にいました。そういう意味では「神を愛する前に、神から愛された」ということを自分の人生で経験している幸せ者でもあるということです。もちろんバプテスマを受けるにあたってはよくよく考えたつもりですが、あえて言えば「生まれながらのクリスチャン」なんですね。
だもので、「なぜ神は私を日本人として創造したのか」ということにこだわろうと思っています。そして現在のところの答えは「とことん日本人になろう」というところにあります。
私にとって、日の丸も君が代も皇室も、福音と敵対するものではありません。いえ、以前にはそう考えていた時期もありましたが、よくよく考えれば考えるほど、敵対するものではなく、従って「自分がクリスチャンだから」ということでこれらを排除するのではなく、むしろこれらをあがなうのが日本人クリスチャンの役割なんじゃないかと思うようになってきました。クリスチャンのはしくれとして「あがなう」という言葉の使い方には慎重でありたいと思っていますが、今いっている意味は、司法が「宗教ではなく習俗」と呼ぶものを、排除するのではなく福音によって完成させるということです。

第三のこだわりは、再臨への期待です。
別に「三番目にこだわっている」という意味ではありません。むしろ一番こだわっていることだと言ってもいい。キリストがふたたび来るという約束の上に、すべてが乗っかっているのですから。
私は日本にリバイバルが起きることをリアルに待望する者でもあるけれど、それだからこそ日本人であることにこだわっているとも言えます。キリストは「ユダヤ人の王」であると同時に「王の王」です。正確には「諸王の王」つまり「王たちの上に立つ王」として再臨されます。「ユダヤ人の王であるイエスが、地上の王たちの上に立つ神」ということであると理解しています。地上の権威を滅ぼすというよりは、地上の権威の上に立つということだと理解しています。
ヘブライ語ではどうなのか知らないのですが、ギリシャ語では「国」とは「領土」を指す言葉であると同時に「統治という行為」を指す言葉でもあると聞きます。「神の国」の実現とは、地上の国とその権威の上に、諸王の王である神の統治が及ぶということなのではないかと考えているのです(新天新地との整合性については考え中です)。
というわけで、「キリストが世界の王となるのだから、国境など廃止されるべきだ」という考え方には今のところ同意していません。むしろ再臨前に世界統一を進めるのは、つまりキリストによらずに世界政府をつくるような考えは、反キリスト待望論ではないかと思います。それはともかく、再臨にこだわりがあり、そのゆえに先ほどの「日本人であることのこだわり」と、次にあげる「ユダヤ人のためのこだわり」とを私は持っているわけです。

第四のこだわりは、自分が異邦人キリスト者であるという点です。このこだわりのためにも第二点の「日本人だ」というこだわりがあると言えるのですが。
つまり「私は異邦人なのに救われた」ということの中に「それがユダヤ人の救いの完成のさきがけである」という意味を見ていこうとしているということです。もちろん、神は「御子を信じるものが一人も滅びない」ことを望んでおられることは知っていますが、それと「神がユダヤ人に(一方的に)与えた特別な意味」とは矛盾するものではないと考えています。むしろ「なんの武勲【いさおし】もないままに神に選ばれ愛されて神の民となったユダヤ人」という存在自体が、「何の武勲もない私ごときも神に愛され救われた」ということに現実味を与えてくれるのです。
このサイトでたびたび書いていることですが、「二つのJ」(JesusとJapan)を愛すると言った信仰の先輩がいますが、私はこれにユダヤ(Jews)と、神がその名を置くために選んだ都エルサレム(Jerusalem)を加えた「四つのJ」を愛する者でいたいと思うのです。


祈り

構成として「信仰」「信仰にもとづく宣言」に続けて最後に「祈り」を置きました。
ここまで本当にエラソーなことを書いてきましたが、実際のところ正直いってこんなの無理なんです。特に「日本を愛する」については、場合によっては「右傾化日本によってクリスチャンが迫害される時代」の再来にもつながりかねない。もちろん、キリストの再臨の前には迫害の時代があるのですから(坂井は艱難前掲挙説ではありません)、迫害が来たら喜びたいというのがタテマエなのですが、自分がどれだけ根性無しかというのもよくわかっています。
というわけで、ここに書いた信仰と、それにもとづく宣言とのためには、聖霊の助けがなければ無理なのです。そのための祈りを最後におきました。


信仰宣言に関連する聖書箇所

主を礼拝すること

次の聖書箇所によります。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」(マタイによる福音書22章37,38)

主以外のものを私に礼拝させることは…できません。

次のとおり聖書に命じられているからです。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20章3)

隣人を主にあって愛します

次のとおり聖書に命じられているからです。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。(マタイによる福音書22章39)

主が前もって準備してくださった善い業のために

まんま、次の聖書箇所によります。
わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソの信徒への手紙2章10)

ヤコブがファラオを祝福したように

ヘブル書7章7に「下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。」とあるものの、創世記47章7には[ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。]と記されています。異教徒、それも神の化身であるファラオに対してさえ、一介の遊牧民が祝福したのです。

ヨセフが神の言葉に従ってエジプトを災厄から守ったように

創世記41章でヨセフは、異教国エジプトを異教国であるままで、神からの知恵によって7年の大飢饉から守りました。彼は決して「エジプトがヤハウェに帰依することが条件」などという付帯条項を必要としませんでした。そしてただ彼の働きによって、ファラオとエジプト人は「ヨセフの神」をほめたたえたのです。
それに比べられるような何か具体的な行動を私が日本のためにできるとも思えません。ただ、エフェソ4章14,15に基づいて、歴史をどんどん捻じ曲げる「風のように変わりやすい教え」には与せずに、日本を愛して歴史の事実という真理を語る者でありたいと思います。

日本人として

パウロの次の二つの発言は、別に矛盾するものではないと思います。
わたしたちの国籍は天にある。(フィリピの信徒への手紙3章20 口語訳)
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。(コリントの信徒への手紙一9章29)

どうも私の知る教会の多くは、「わたしたちの国籍は天」だけ見て「上から目線」で日本を裁き、日本を攻撃しているように思えます。パウロのような、宣教対象に対する謙遜(妥協とは違います)が感じにくいのです。上から目線で「汝らは誤っている」と大上段に聖書を振りかざしながら「なんで1%」はないと思うので。

迫害の時代について

私は次の御言葉のゆえに、艱難前けいきょ説には立ちません。
これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。(ルカによる福音書21章12)

迫害は再臨の前兆だと聖書にあるのだから、迫害をあらかじめ防ごうとするのは再臨を防ごうとする反キリストでしょう。

(最高法院は)使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のためにはずかしめを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。(使徒言行録5章40~42)
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(ローマの信徒への手紙12章14)
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイ5章10~12)

臆病

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(テモテへの手紙二1章7)
むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソの信徒への手紙5章18,19)

イスラエルのための祈り

日本人である私が救われたのは、置換神学的にイスラエルへの約束を異邦人教会が取り上げるためではなかったと、次の聖句から考えます。
一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。(ローマの信徒への手紙11章25,26)
彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。(ローマの信徒への手紙11章12)
わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレム(列王記上11章36)
エルサレムの平和を求めよう。(詩篇122編6)

むしろ、アブラハムの子孫が回復された時こそ、日本があがなわれるときだと信じます。
地上の諸国民はすべて、あなた(アブラハム)の子孫によって祝福を得る。(創世記22章18)

弱さの自覚のゆえに

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。』(マタイによる福音書25章21)

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマの信徒への手紙8章26)

作成:2007年7月10日
更新:2013年3月31日

布忠.com