ばあさまのこと

その1

(2003年7月17日の日記ページを再編集)

2003年4月11日のこと

この日、2時間あまりの通勤時間のすえにオフィスにつくと、妻から携帯にメールが入った。ばあさまがくも膜下出血で倒れて、今日手術だという。いつ病院に呼ばれてもいいようにとのことで仕事を続けたが、落ち着かないので午後少しして病院に向かった。行く途中で妹から「手術成功」のメールが入った。集中治療室で面会したばあさまは、まだ麻酔が効いていた。

ばあさまと同居していた伯母の話しでは、倒れたのは昨夜だったそうだ。「知らせればみんな駆けつけるかもしれない。けれど仕事を放り出して集まったりしたら、ばあさまは怒るだろう」と考えたそうだ。

意識は戻らないまま、ばあさまの病院生活が始まった。又聞きの又聞きだが、おそらくインフォームドコンセントでの説明だろう。このケースでは、即死する確率が1/3、手術できないか手術中に亡くなる確率が1/3、残りの1/3のうち社会復帰できる確率はさらに1/5だそうだ。ということは1/15か。でもばあさまはすでに1/3の中に入ったことになる。あとは次の1/5に入れるかどうかだ。

藤の季節のこと

幸いというか、ばあさまの病院は私の現在のオフィスから遠くはない(近くもないけど)。それでたまに定時退社して見舞いに行った。妹はほぼ日参、伯母は面会時間ごとにばあさまの傍らにいた。
手術後始めて私が見舞いに行った日、ばあさまは唸るような声を出していた。どうも私が来たことに反応したらしい。初孫の特権だろうか。手を握ると、そこそこの力で握り返してきた。

私は花にはまったく詳しくないが、このくらいの季節の青系の花、藤や紫陽花、桔梗や朝顔がわりと好きだ。(なぜか菖蒲はあまり好きではない)
ある日見舞いに行くと、伯母の手元には、ばあさまの俳句仲間からのハガキがあった。ちょうど藤が盛りに入ろうとしていたので、「今目を覚ましたら、藤で一句どう?」と声をかけたりしていた。

集中治療室暮らしも長引いてきた。この病院は集中治療室が13床あった。西洋人なら縁起悪いといいそうな数字だが、これが多いのか少ないのかは私は知らない。とりあえず「いつまでも占領してたら、急病人があったら迷惑だよ。早く一般病室に移りなよ」と声をかけたりしていた。
実際には、ゴールデンウィークあけにやっと大部屋に移ることができた。倒れた時は覚悟したが、ここまで来ると「万が一」なんてことは全然考えなくなっていた。意識は戻らないままだったが、「これから長期戦になるぞ」という覚悟だけになっていた。けれどあとから考えれば、最初の頃に比べると声をかけてもずいぶん反応が弱くなっていたように思う。寝たきりが長くなってきたから筋力が衰えただけと思っていたのだけど。

紫陽花が咲き始めた頃

大部屋に移ってからはじめて見舞いに行った日。ばあさまはTVの方を向いて横になっていた。東北で大きな地震があったというニュースだったが、もしかしたら関東大震災のことを思い出していたのだろうか。伯母が「ぶぅ(私のあだ名)が来たよ」と行ってTVを消したら、眉を思いっきり八の字にして子供のようにしょんぼりしたので、思わず吹き出してしまった。「意識がない」というのはどういう状態を定義するのかわからない。とにかく外からの刺激に反応はしている。元気になる日も近いのかもしれない。

などと思ったのは希望的観測にすぎなかったわけで。


その2

(2003年7月22日の日記ページを再編集)

5月31日のこと

土曜日なのに出勤して昼休みに愛妻弁当を食べていたら、携帯が鳴った。私物の携帯は本来持ち込み禁止というオフィスなので昼間はめったに電話してこない妻からだった。瞬間、いやな予感はした。案の定「おばあちゃん、亡くなったって」とのことだった。

「これから長期戦になるぞ」という覚悟はしていたが、「ばあさまが死ぬかもしれない」という覚悟はまったくしていなかった。青天の霹靂だった。とにかく伯母のところに駆けつけなければと病院に向かった。着いてみると、先に叔父が到着していて、伯母が一人でないことにホッとした。

それからの数時間は、妙に時間がゆっくり流れた。

集中治療室に入ってみると、看護婦さんがばあさまの遺体にお化粧をしてくれているところだった。入院中はずしていた入れ歯も上だけ入れてもらって(下は死後硬直が始まっていれられなかったそうだ)、入院中よりもいい顔になっていた。
思わず頬に触れたとき、あまりの冷たさに驚いた。心臓が止まれば冷たくなるのは当たり前だが、ものすごく冷たい。冷静に考えれば室温より冷たいはずはないのだけど。

ばあさまの頬にキスしてから、病院の地下の控え室に行き、そのあと案内されて霊安室でばあさまを待った。しばらくしてばあさまが、顔に白い布をかけられて入ってきた。このとき伯母はいなかったように思う。検体することになっていたので、そのことで病院側と話していたのだと思う。
しばらく、叔父と二人でばあさまのかたわらにいた。叔父は病気を抱えていることもあって「逆縁だけはしたくないと思ってた。それだけが親孝行できた」と繰り返しながら、仏式の祭壇の前でチーンとやっていた。坂井の家は浄土真宗だが、「修行による自力救済ではなく阿弥陀様の本願で救っていただく」という真宗の他力救済と、「神の一方的な愛のゆえに、キリストの犠牲によって救っていただく」という福音は、(表面的には)けっこう似ているんだよという話しをしていた。

しばらくして伯母が霊安室に来た。少しすごしたあと、葬儀屋の車の手配の話しがすんだので、迎える準備のためということで伯母は一足先に帰った。そのあとうちの両親と妹が到着した。
やがて葬儀屋の車が来たので、ばあさまを車に乗せた。遺族が一人だけ同乗できるということなので、道案内もかねて私が同乗することになった。席はストレッチャーの横で、別に遺体が転げ落ちる心配もなかったのだけど、家に着くまでずっと手を握っていた。胸の上で組まれたばあさまの手は、手ではない何かの物体のように固くて、シーツごしにも冷たかった。

大雨の中、ばあさまは家に着き、少し前に叔父が手入れをしておいたという1階の部屋に横たえられた。正直、この部屋がこんなにきれいになっているとは思わなかった。ただそれは、遺体を迎えるためではなく、ばあさまのリハビリのために準備したはずの部屋だったのだけれど。

それから、葬式をやることになった。親父が聖書と賛美歌と式文を持ってきた。叔父が線香の台や鐘を持ってきた。伯母が「線香はキリスト教式でやったあとがいいかな」と言ったが、私は「聖書にも神の前に香を焚く習慣があるし」と言って、線香に火をともした。
(このとき、親父がどんな顔をしていたかは覚えていない。今になって考えると、葬儀という『礼拝』で、仏式という異教の香を焚いたことは、ナダブとアビフの罪に倣うものと言われてしまうかもしれない。レビ記10:1-2に記録されているが、この二人の祭司は、戒律に反した炭火によって香をささげたため、ヤハウェに焼き殺された。
私は、「焼き尽す献げ物」においては香りと煙を上らせることで「いと高き」にまします方へささげると理解していて、この時の香は筆者にとってその単純な適用だった)

親父が式文にそって、聖書朗読と祈り。賛美歌は、ばあさまが好きだったものや、伯母がおぼえていたものを、いくつも歌った。伯母は自由学園の出身で、一番のお気に入りは百合の歌の賛美だそうだ。親父いわく、よみがえりが主題であるこの賛美歌は、故人を送るのにふさわしいかもしれない。
ばあさまは12月24日が誕生日で、中野教会のキャロリング隊が毎年立ち寄っては、クリスマス賛美歌とともにハッピーバースデーも歌ってくれた。そんなわけで、季節ハズレもいい梅雨どきに、この日この家ではクリスマス賛美歌も歌われた。

葬儀らしい葬儀ではなかったが、今まで見たなかでは一番いい葬儀だった。


その3

(2003年8月7日の日記ページを再編集)

ちょっと野暮用があって、久しぶりに親父に電話した。話しているうちにふと親父が「ばあさまのこと書いたページ読んだよ、なかなかよくできてる」と言ってくれた。親としてクリスチャンとして尊敬している親父からこう言われると、さすがにちょっとうれしい。
けどそれ以上にホッとした。私にとっては「祖母が死んだ」だけど、親父たちにとっては「母が死んだ」なんだよな。父の記憶もろくにないだろう親父たちにとっての大切な「母」の死を、なんかダシに使ってるような気がしていたから。

少しあいだがあいたけど、ばあさまのことについてまた書く。

6月1日のこと

日曜日、筆者の家族は、五人家族になってはじめて全員で中野教会の礼拝に出席した。午後にばあさまの家に向かうためというのもあったが、とくに次男をはじめて中野教会のみんなに会わせることができてよかった。ただ、ばあさまが亡くなったことはしばらく伏せておくつもりだったので口止めしておいたにもかかわらず(それとも「内緒だよ」と言ったせいかもしれないけど)、長男が「ばあちゃんが死んじゃった」と大騒ぎしたのには閉口した。

礼拝後、ばあさまに会いに行った。
ばあさまの入院中にうちの家族をお見舞いに連れて行けなかったのが残念だった。集中治療室にいるあいだは子供は連れて行けなかった。一般病室に移って「まあ、これから長くなるだろうし、そのうちみんなを連れて行くか」と思ってるうちに、逝ってしまったのだ。
そういえば、ばあさまは宮城県の松島に一度行きたいと言っていた。山と旅行が好きで日本中にいったばあさまだったが、松島だけは行きそびれていた。私は学生時代を仙台で過ごしたが、「ぶぅ(私のこと)が仙台にいる間に行けば良かった」といつも言っていた。そのうち連れて行ってあげようと思ってるうちに、もう叶わないことになってしまった。
軽い「そのうち」が、取り返しのつかないことになってしまった。ばあさまにイエス様のことを伝えるという大切なことさえも。

この日は叔父の家族も来ていて、伯母も交えてみんなで食事に行った。親戚が少ない上に親戚付き合いしていないので、「坂井さん」が10人以上も集まるのを見たのは始めてだった。みんな、ばあさまが好きだった。ばあさまがみんなを集めてくれた。これからもときどきみんなで集まろう、という話しになった。

叔父の一家と入れ違いで、うちの親たちが来た。
確かこの日に、筆者の弟も来た。仕事のために入院中一度も見舞いに行けなかったことを、家族の中で一番情が深い弟はとても悔しがっていた。

6月2日のこと

翌、月曜日。ばあさまの遺体は検体のため大学病院に運ばれる予定となっていたが、仲介の団体(確か白菊会という名だったかな)の車が来るのは午後の早いころになる予定だった。遺体の保存のためにばあさまの布団に入れていたドライアイスがちょうど溶けきる頃合だった。(このドライアイスについてはまたエピソードがあるのだが、インターネットに書いてしまうと、せっかく好意で動いてくださった関係者にあるいは迷惑をかけてしまうかもしれないため、伏せておきます)

祖母の寝顔は相変わらずきれいなままだったけど、悔しいことにさすがにこの日にもなると、小バエが寄ってくるようになった。追い払おうとした拍子に、ばあさまを叩いてしまった。ごめん。

午後、件の団体の車が来て、さすがにお別れムードになってきた。この世で顔を見るのはこれが最後かと思うと、思わずまたばあさまの頬にキスしてしまった。妹が「ばあちゃんは、伯母ちゃんと兄貴にキスされまくりだね」と言った。
それから棺が運び込まれ、団体の方がばあさまを棺に移した。お別れをしてフタをし、運び出す際に私と弟が棺を持った。こういうときの作法は知らないのだけど、親父がばあさまの長男なんだから親父に棺の頭のほうを持たせるべきなんじゃないかと思った。それでゆずろうと思ったのだけど、なぜか(立ち位置がよくなかったのかタイミングの問題か)うまくいかず、私が頭のほうを持った。
ばあさまを乗せた車が去ったあと、弟がそとで泣いていた。やさしすぎる弟にとって、祖母の死というのはかなりキツイだろう。ところが泣いているうちに弟は親父のことを怒り出した。「親父は冷たい。なんで棺を持たなかったんだ」と。私はさっきはあまり考える余裕もなかったのだけど、考えてみれば親父も自分が長男としてどう行動するべきかくらいは考えただろう。その上で棺に近づくこともできなかったのだとしたら。
このときの親父の顔はおぼえていないのだけど、親が逝くっていうのは。。。


その4

(2004年4月19日の日記ページを再編集)

先にも書いたが、坂井が好きな花は青系のものが多い。紫陽花や朝顔も赤とかより青のほうが好きだし、藤とか桔梗もいいね。花のことは詳しくないし、そもそも花なんて似合わない野暮天だけど、桜が終わって藤棚がいい具合になる頃から梅雨時の紫陽花の季節くらいまでを「青い花の季節」と勝手に呼んでいる。梅桃桜がはなやかな季節と、ヒマワリが威勢よく輝く季節のあいだにあって、青い花が静かに咲くこの季節は町を歩くのも少し気持ちいい。日本に紫陽花がなかったら梅雨のうっとうしさは耐えられないと思う。

そんなお気に入りの「青い花の季節」だけど、今年はやっぱ少し違うかな。
去年、4月11日にばあさまが倒れて、5月31日に亡くなった。「そろそろ藤がいい具合だよ。はやく目をさましなよ」と言っているあいだに季節が流れ、ぼちぼち紫陽花が、という頃に息をひきとった。倒れてからもう一年も経つんだ。
それでこの季節がつらくなった、というのではなくむしろ、大好きな季節にばあさまの記憶が結び付けられて、より印象的な季節になったように思う。

7月のとある日曜日

ばあさまはクリスチャンではなかったけれど、中野教会にはよくしていただいたし、近所ということもあって気に掛けていただいていた。けれど教会の人が大挙して来たりするとしんどいだろうということで、ばあさまが倒れたことは教会には伏せていて、亡くなった事も伝えていなかった。
しかしいつまでも隠しておくことでもないし、よくしていただいたのに義理を欠くのもどうかということで、親父の代わりに私があいさつに行った。たぶん7月のある日曜日のことだったと思う。その日の朝に牧師に電話して、礼拝後にあいさつさせていただく時間をお願いした。

あいさつの内容は、以前に書いたものと重複する。
ばあさまはクリスチャンではなかったから、クリスチャンが亡くなったときに使われる「召天」つまり天国に召されたという言葉を使うことは聖書に反する。ばあさまは陰府にいるのだろう。
けれど、「うちにはヤソの気はなかったのにねぇ」と曾祖母が言ったような浄土真宗の家から、親父がクリスチャンになり、クリスチャンであるお袋と結婚して、筆者たち兄弟全員もクリスチャンになったのは、もとはといえばばあさまが親父たちを教会に遊ばせに行ったりキリスト教主義の学校に通わせたりしたからだろう。ばあさま自身はクリスチャンでなくても、神様はばあさまを「ひとつぶの麦」として、坂井の家を祝福してくださったからだと思う。
そんなばあさまを、陰府に床を設けてもそこにおられるという神様にゆだねて、陰府にいるばあさまが救われるように終わりの日の裁きのときまでとりなしを祈っていきたい。
そんなことをあいさつ代わりに述べさせていただいた。

人の死後のことは聖書にはほとんど書かれていないけれど、ひとつぶの麦なばあさまは、陰府できっと「アブラハムのふところ」にいるだろうと思いたい。もしかしたらそこで、同じようにクリスチャンにならないで戦死したじいさまと再会しているかもしれない。

作成:2004年4月19日

布忠.com