靖国訴訟

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千葉地裁は、小泉首相の靖国神社参拝について、千葉県内の戦没者遺族や牧師ら63人の賠償請求を棄却した。2001年8月13日に、公用車で靖国神社に参拝し、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、私費で献花料3万円を支払った件だ。

訴えでは、小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反しており、原告が精神的苦痛を受けた慰謝料として1人当たり10万円の損害賠償を求めていた。

判決は安藤裕子裁判長。
公式参拝かどうかについては、「『私人』であると発言したことはなく、記帳や献花にあえて『内閣総理大臣』の肩書を記載した」ことから、首相の職務に参拝が関連してなされた公式参拝であると認定
憲法20条で保証された「信教の自由」の侵害であるという原告主張に対しては、小泉首相の参拝が「特定宗教を強要したり、原告の信仰する宗教を妨げてはいない」として退けた。

「公式参拝の是非の憲法判断を避ける」と法曹が逃げたかのような報道がされたが、訴えは原告の権利を侵害したことに対する損害賠償なのだから、原告の権利を侵害していない以上は「判断する必要はない」という論理だ。もし原告の権利を侵害していないと言っておきながらさらに憲法判断を行うなら、それは司法の行き過ぎだ。

憲法判断を避けるために、公式参拝が原告の権利を侵害していないという判決にしたという解釈もできそうだけど、私も首相の公式参拝で原告の権利が侵害されたとは考えにくい。
原告団は「不当判決」の紙をかかげて裁判所から出てきたが(ということは「不当判決」が出ることを期待してたんじゃないの?)、判決は不当ではないと思う。不当な部分があるとしたら、具体的な損害がないと訴えられないというシステムが不当なんじゃないか?
福岡の原告団は、福岡地裁が違憲判決を出したら、賠償請求が棄却されても控訴しなかった。つまり訴訟は首相に靖国神社参拝をやめさせたいための訴訟であって、賠償請求したいわけではなかったということだ。
おそらく千葉の原告団も、小泉首相の靖国神社参拝が「信教の自由を侵害した」というよりも、「将来的に、信教の自由を侵害する可能性がある。あるいはそのための布石・前例となりうる」ということを問題視したのではないかと思う。それであれば同意できる。けれど少なくとも今回の首相の神社参拝がただちに「信教の自由を侵害している」と考えるのは無理があると思う。

以下、当サイト管理人は小泉政権発足当初からの現政権不支持で、擁護するつもりはカケラもない前提で書く。

小泉氏は首相になる前から靖国神社に参拝していた。日本国民の一人が、首相になったとたんに信教の自由を奪われるのはおかしいと思う。それではクリスチャンが首相になったとたんに、教会の礼拝に出席できなくなる。
公人か私人かなんてのもナンセンス。首相が私人として行動している間は日本は「ただいま首相は留守にしております」になるの?
公用車を使ったのが問題だというのもおかしい。首相になったとたんに、自費で防弾車を買うべきだというのだろうか。それだけの財力のある人しか首相になれない?
秘書官を同行させたのが問題ってのもおかしい。なんのために同行させたのかはしらないけど、えひめ丸事件の時に森首相(当時)がゴルフを続けてたのが問題だとか言っておいて、首相が私人として参拝中なら、単独行動にさせて連絡取れなくなってよいと?

というわけで当サイト管理人としては、首相が靖国神社でも伊勢神宮でも、キリスト教会でも、イスラムのモスクでも、エホバの証人の王国会館でも、好きなところに行って宗教行為を行ってまったく問題ないと思う。

ただし、国民全員が特定の宗教(靖国神社だろうとキリスト教会だろうと)に参拝しろとか、税金から特定の宗教に拠出(神社への玉串料だろうとキリスト教会への献金だろうと)するぞというのには断固反対する。宮城遥拝だって、進んで敬意を払うことはあっても命じられてやりたくはない。
しかし小泉首相の靖国神社参拝で、誰が神道を強制されただろうか。誰が自分の宗教を妨害されただろうか。もちろん、今回のことが本当に信教の自由を侵害するような事態への道を開かないように監視して行くことは必要だ。けれどそのことと、現段階で実際に信教の自由がおびやかされているかというのは、別の問題だ。

とはいってもね。法的にも宗教的にも問題がない行動でも、それで傷つく人がいる場合もある。

たとえば、(あまり想像したくないけど)今後戦争でもあって日本に徴兵制が布かれたとする。で、クリスチャンである筆者が戦死して靖国神社に祀られたとする。祀られるころには筆者は天国でキリストのそばにいるので、他人が勝手にカミサマ扱いしようとまったくどうってことない。天国から靖国神社あたりを眺めて「そこには俺はいないぞぉ」と滑稽がっているくらいなものだろう。少なくともキリスト教は、信者の死後に生者にどのように扱われるかによって、信者の信仰が左右されるという宗教ではない(信者の死後に戒名をつければ仏教徒だったことにしてもらえる仏教とは異なる)。
けれど筆者の遺族でクリスチャンである者は、クリスチャンである身内が死後にそういう扱いをされれば精神的苦痛を感じるかもしれない。

そう考えると、原告団の中には、政教分離とかの理屈と関係なく、身内をお上が勝手に扱うことに精神的苦痛を感じる人がいるのかもしれない。
けれど今の司法制度は、「違法でも違憲でもないこと」によって傷ついた者を救えるシステムになっていない。というかそれは司法ではなく立法や行政の扱うべきことなのかもしれない。

作成:2004年11月25日

布忠.com