飲酒について~杜甫とパウロ

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ぶっちゃけ、坂井は酒が好きだ。強いかというとかなり弱いほうなのだけど、飲むのは好きだ。
聖書でも、酒を飲むこと自体は禁じていない。ただ、酒に酔ってはならないと戒められているし、教会で責任ある立場の人は「大酒を好む者ではダメ」とも書いてある。つまるところ、酒に酔うとは、一時的にせよ酒の支配下におかれる、つまり酒の奴隷となることで、キリスト者は主の所有だから、酒に所有される状態になってはいけないわけだ。また、「すべてのことは、してもよい」と書いてある一方で、「すべてのことが益になるわけではない」とも書いてある。それで宗派によっては、飲酒を禁じているところもある。

これは難題だ。飲んでもいいが、酔ってはならないとは。飲む意味がないじゃないか、と思っていた。

ヒントは思わぬところからきた。昨日のNHKの漢詩のラジオ講座のテキストに、杜甫の「可惜(おしむべし)」があった。杜甫が50歳、当時でいえばもう老境という頃の作品だそうだが、以下はその一部。

可惜歓娯地  惜しむべし歓娯の地、
都非少壮時  すべて少壮の時にあらず。
寛心応是酒  心をくつろがせるはまさにこれ酒、
遣興莫詩過  興を遣るは詩に過ぎるなし。
(読み下し文はテキストのものではなく坂井の我流)

坂井なりに解釈すれば、「少壮の時(若い頃)は歓楽や娯楽を求めたが、もういい年だ。くつろぐために酒をたしなみながら詩作を楽しもう」ということだろう。
坂井はいつまでも少壮のつもりで、歓娯のためという飲み方をしていたから、「飲んでもいいが酔うな」というのが謎になっていたんだな。

酔うためとか、はしゃいだり大騒ぎしたりするために酒を飲むことを「大酒を好むな」「酒に酔うな」といましめられているとすれば、「心をくつろがせるは酒」という飲み方は「胃のために少量の酒を」というパウロに通じるような気さえする。
自分を酒に渡すような、酒が自分の主人になるような飲み方ではない。
酒にお供をさせるような、自分が酒の主人になるようなたしなみ方だ。
「酒でくつろぎながら詩作に興じる」というには詩作の才はないが、「興をやるに芸術に過ぎるものなし」と適用して、たとえばブランデーの香りを楽しみながらバッハに興じる。そんな時間のすごし方もいいんじゃないか?

念のためだが、こういってクリスチャンに飲酒をすすめるつもりはない。これはあくまで坂井の結論。

作成:2004年4月12日

布忠.com