礼拝とは?

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とある日曜日、とある教会で、礼拝に出席していて、牧師の説教中に思わず外に飛び出したくなった。「聞くに堪えない説教」というのを始めて経験してしまったのだが、こういう場合どうしたらいいのだろう。

礼拝の説教というのは、聖書に込められた神の言葉を説き明かす(解き明かす)ものだ。そういう意味で説教とは、語っているのは人間である説教者だが、実は説教者を通して神が語りかけているものだ。時には深く感銘を受けたり、「そういう意味だったのかぁっ!」と開眼させられたりすることもあり、そういうときには「今日の礼拝では神様からとても恵まれた」という気になる。
ところがその日の説教では、自衛隊のイラク派遣にからんで、牧師の政治思想が滔滔と語られた。
正直、席を立とうと思った。こんな説教が語られる礼拝は、すでに礼拝ではないと思った。自分は神に礼拝を捧げるためにここへ来たのだが、礼拝をよそおった礼拝ならぬものなら、出席するのは私の信仰が許さない。自分は神の言葉を聞こうと思って説教者の前にいるのに、説教をよそおって説教者が自説を披露するなら、それを聞くのは私の信仰が許さない。

しかし一方で、説教は聖書の解説ではない。聞く者の日常や生活や、聞く者が生きていく社会への適用がセットにならないなら、生きた言葉ではない。また祖国のため、あるいは為政者のためにとりなすとき、政治にふれないわけにはいかないだろう。線引きの難しい問題ではある。

それにしても、礼拝とは何なのか。説教とは何なのか。とどまって正しかったのか、席を立つほうが正しかったのか。

礼拝が「神から恵まれるもの」であるなら、がまんしてまでとどまりたいとは思えない。しかし礼拝が「神にささげるもの」であるなら、我慢してでもとどまらなければならない。礼拝は信仰者にとって最高最大の「神への奉仕」だからだ。
今までこのふたつは「神へ礼拝をささげることで、神から恵まれる」というように両立していた。しかし今回はじめて、「神へ礼拝をささげるためにそこにいるのに、苦痛しか受けない」ということを経験してしまった。

語る説教者と、聞く坂井とが、聖書の解釈があわないことはしょっちゅうある。坂井は坂井なりに聖書を学んでいて素人なりの考えを持っていたりするし、説教者は説教者で専門的な学びと研究を踏まえている。一方、説教者には「神に任命された者」として神から与えられた知恵と力がある。たとえばヤハウェがイスラエルをエジプトから救おうとしてモーセを遣わしたとき、ヤハウェはどれほどの知恵と力をモーセに与えただろうか。神は役目だけ背負わせてほったらかすような方ではないだろうから、神が彼に期待する働きに応じたタラントンが与えられているはずだ。
だから説教者と坂井の解釈が違ったときは、まず説教者(に神が与えた知恵と言葉)の前に謙虚であるべきと思う。そしてそれを咀嚼する段階で、あらためて自分はこう考えるのだがということを聖書にぶつければよいと思う。
しかし説教者の政治思想はどうなのだろうか。これも神から出ている言葉なのだろうか。あるいは、礼拝の説教として語られた言葉には(問答無用で)神の権威を認めなければならないのだろうか。

作成:2004年2月21日

布忠.com