聖書を読まない

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しばらく以前から、礼拝中に聖書を読まない。司会者の朗読にあわせて聖書を黙読したりはしないで、ただ聞くことにしている。といっても別に手を抜いているわけではない。
もともと活字好きで(といっても最近では活字は使わないことがほとんどだろうけど)、その日の礼拝があるページのある1行だけを扱ったとしても、続きをどんどん読み始めていつのまにかメッセージを聞いていない、ということがよくあったからというのも理由の一つだけど、きっかけは他にいくつかある。

まず、メッセージ中に「では○○書○章を開いてください」と、やたらと聖書をあちこち開かせるメッセージにときどき出くわすのだけど、これに違和感を感じること。会衆も忙しくなるし、会衆が聖書を開くまでメッセージが中断してしまう。そもそも「○○書○章にこう書いていますが」とメッセンジャーが読んでしまったとしても、別に「そんなこと書いてあったか?」と疑ったりはしないのだけど。

それから、もともと聖書は「読む」ものではなく「聞く」ものだったということ。聖書は会堂で朗読され、会衆はそれを聞いた。ルカ4:16以下でも、イエス様はまず聖書を朗読しようとして立ちあがられた。イエス様自身の教えも言葉で語られ、弟子たちや群集はそれを聞いた。パウロたちが書簡を書くようになっても、もちろんコピーして全員配布などというのではなく、近隣教会で朗読され、会衆はそれを聞いた。
旧約時代もそうだ。モーセや預言者たちが神からダイレクトに言葉を受けて、それを民に語り、民はそれを聞いていた。ほとんどは文盲だっただろうからメモさえ取らなかっただろう。ただ聞いて、それを頭に叩き込み、心に刻み込んだ。

他の理由としては、文語訳を読破したことが挙げられるかもしれない。文語訳聖書の日本語は難しいけれど美しく、そしてその美しさは黙読するものじゃなく聞くものだと感じた。

ともかく、能動的に「読む」よりも、受動的に「聞く」ほうが、「御言葉を受ける」にふさわしいような気がする。これはある牧師が言ったことなのだけど、昔は「人が、聖書の読まれるところへ行った」のに対して、今は「聖書が、人のところへ持ってこられる」という状態になっている。それがよいことか、よくないことなのかはわからないけど、「大事にする仕方」は変化している。

グーテンベルク以後、聖書を所有し、読むことができるようになってきた。自分の聖書を持ち、いつでも神の言葉を読むことができるというのは、とても大きな天恵だ。今も少なくない国で、聖書を所有しているだけでも危険があることを考えても、自由に聖書を読めるというのはすばらしいことだと思う。けれど。
どう考えたらいいのかは、まだよくわからない。もちろん「聖書を所有するのが問題だ」なんて言うわけじゃない。ただ、個人的にもう少し「聞く」ことを大事にしてみようかと思っている。

ちなみに、どうも輪読が苦手だ。「えーと、次の次が自分の番か」なんてことに神経を使いながら聖書を読むなんて、どうにも理解しがたい。これが1節ずつとか、一段落ずつならまだいいけど、読む箇所の長さと人数の関係で「では一人3節ずつ」なんて言われた日には、「御言葉に聞くこと」よりも「失敗しないで読むこと」のほうに気が行ってしまう。
交読は好きだし、みんなで一緒に音読するのも悪くない。持ってる聖書が周囲の人と訳が違ったりすると少し困るけど(そういうときはこれ幸いとばかりに「聞く」ほうに回ったりする)。しかし輪読は、あれはいったいどういう意味があるのだろう。

作成:2004年9月12日

布忠.com