大槻教授の非科学性

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vsノストラダムス教信者

1999年7月に地球が滅びるというノストラダムス信者に対する大槻教授の攻撃は、実に論理的だった。もともと「ノストラダムスの大予言」の日本語版が誤訳だらけだったってのに、それを信じ込んでしまった人々こそかわいそうというか。実際にはノストラダムスが言っていないこと、あるいは他の意味で言ったことを「ノストラダムスが予言した」と思い込んでしまっていただけなのだから、大槻教授でなくたって、原意原文に忠実な訳さえあればビートたけしでもノストラダムス教の信者をやりこめられたと思う。

ところが、1999年7月滅亡論者が「ノストラダムス教」の信者だったのと同様に、大槻教授も「現代科学教」の信者でしかないのだから、おもしろい。

vs透視能力者

以前、「目を閉じていても、目が開いているのと同じように見える」という超能力者(?)と、大槻教授が対決(?)したことがあった。教授の繰り出した攻撃は「頭から肩まで覆う銅板製のかぶりものをかぶっても、見えるのか」「赤い照明のみの部屋で、赤いペンで書いた文字でも、見えるのか」というものだった。つまり「目隠しなどしても、隙間から見えているのではないか」という疑問からだ。

結果はというと、銅仮面の方は部分的に読めた。赤い照明のほうはまったく読めなかった。

これに対する教授の結論は、銅仮面は「やはり隙間から見えたから部分的に読めたのだ。その証拠に、赤い照明の下で赤い文字という、肉眼でも文字が読めない状況では、まったく読めなかったではないか」というもの。

さて、教授のこの結論の、非論理性にお気づきだろうか。

教授は「これをかぶれば絶対に見えない」と言って銅仮面を持ってきたわけ。にもかかわらず部分的にも読めたということは、論理的・実証的には「やはり読めるんだ」という結論になるはずでしょ。「やはり隙間から見えたのだろう」と言いたいなら、銅仮面を作り直して出直して来いっての。
つまり大槻教授は、実験が自分の思うとおりの結果を出さなかったので、根拠なしに、結果とは合致しない結論を出すという、非科学的なこと(というか、ただ単にミョーなこと)をしているわけ。(ボソッと「いんちきに決まってる」とまで言っていたし。)

では赤い照明の方はどうかというと、ここでこの実験の目的をもう一度確認したい。超能力者くんは「目を閉じていても、目が開いているのと同じように見える」という力があると主張している。だったら、目が開いていても見えない状況なら、彼にも見えなくて当然というのが、論理的な結論だと思いませんか?
つまり大槻教授は、自分の結論に都合のよいように話題を変えちゃったわけ。たとえるなら「雨の後には虹が出る」と言う人に対して、夜中に実験して「雨の後に虹が出ることなどありえない」と言っているのと同じなのだ。

vsスプーン曲げ

実は、自分の都合のいいように話しをすりかえるというのは、大槻教授の常套手段。たとえば、いわゆるスプーン曲げの超能力者(?)と対決したとき、彼は、術者にもっとも近いところで観察し、術者が腕力によらずにスプーンを曲げるのを見た。すると彼はポケットから南京錠を取り出し、「スプーンより堅いこいつを曲げてみろ」と挑戦した!

たとえば、指二本で硬貨をはさんで曲げられる力持ちがいたとして、「このダイヤモンドを指二本ではさんで砕いてみろ」とふっかけて、それができないと「やつは力持ちでもなんでもない」というのと同じ。
くだんの超能力者は、スプーンやフォーク(の程度の堅さの金属)を、腕力によらずに曲げることができると主張したのに、大槻教授は話しを変えてしまう。

冷静にみれば大槻教授は、「この超能力者と名乗る人の力は、スプーンは曲げられるが南京錠を曲げられるほどではない」という測定しかしていない。要するに大槻教授は、超能力を肯定しているわけだ。

vsガリレオ

「それでも地球は回っている」で有名なガリレオ・ガリレイが地動説を主張したとき、当時の学会はこれを非科学的だといって否定して、宗教裁判にかけてしまった、というのは教科書にも載っているくらい有名なお話し。
これを「宗教が科学の進歩を阻害した」となんていう人もあるけど、実はガリレオは熱心なカトリック教徒だった。彼は、天動説による非合理的な天体運行図を見て「神がこんなぶさいくな宇宙を創造するのか?神が創造した天体なら、もっと美しく整然と運行するんじゃないか?」というところからスタートしたわけ。ところが学会は彼の新説を受け入れられなくて、宗教裁判という手段にうったえた、というのが本当のところだったりする。(脱線だけど、科学が進むほど、聖書の記述が事実であることが証明されているというのも事実。一方、科学が進むほど進化論のでたらめさが明らかになってきている)

大槻教授が真に学術的な立場に立つなら、「インチキなのか、それとも超能力は存在するのか」という究明をやるべきで、「どうせインチキに決まってる」という結論が先にあってそれに都合のよいように話を持っていくなんてことをするべきじゃない(仮説を設定するのはもちろんアリだけど)。
その結果「超能力はやはり存在しない」という結論が出れば、それまでの話。でも将来もしかしたら「目がふさがれていても見る力が人間にはある」ということが科学的に証明されてしまう可能性だって、ある。そしたらたとえば、事故や病気で眼球を失った人でも(透視というかたちで)視力を回復できるようになるかもしれない。そんな時代になったら「オーツキとかいう自称学者が非科学的なことを言わなければ、もっと早くこの治療法が実現していた。やつは、ガリレオのころの学会と同じだ」と言われてしまうんだろうね。

正直に言えば、「透視なんてできっこないだろ」とは私も思う。でも科学は「どう思うか」で解を決めるんじゃなくて、実証で解を求めるものなんじゃないだろうか。そして、なにかが「ない」ということを証明するのは一般にかなりむずかしい(火星に生命の痕跡が、なんてことになる時代だし)。超能力が存在しないかどうかは「まだわかっていない」というのが「科学的に正しい」姿勢。いつの時代も「われわれの科学はすでに万能である」と思いたがるのが人間だけど、「われわれにはまだわかっていないことの方が多い」くらい思ってたほうがいいんじゃないかな。

大槻教授が得意なのは「科学的な話」ではなく、話術で相手を自分の土俵に引っ張りこむこと。お題が文系的だった「vsノストラダムス教信者」で負けなかったのは、話術という土俵だったからなのだろう。

作成:2000年10月10日

布忠.com