中越地震ボランティア体験記

menu

はじめに

新潟県中越地震の発生後、日本バプテスト連盟の北関東地方連合では、翌週末には第一次奉仕団を小千谷市に派遣しました。千葉バプテスト教会からこの奉仕団に参加したメンバーから10月31日の礼拝で報告があり、それをきっかけに第二次奉仕団に参加したので、その経緯などをここに書いておきます。

かなり冗長な文章になっていますが、日記のつもりもあって書いているのでご容赦ください。
また、クリスチャンでない方がこのページを読んだ場合、「なぜそういう発想になるの?」というところがあるかもしれません。クリスチャンである坂井は、こういう考え方が当たり前のことになっているので、そうでない方には説明不足なところがあるかもしれませんが、ご了承ください。

参加

10月31日(日) 第一次奉仕団の報告

母教会が遠いために出席させていただいている千葉バプテスト教会は、日本バプテスト連盟に参加しているのだけど、この連盟は新潟県中越地震への対応が早かった(あとで聞いた話しでは、阪神大震災のときに動きが遅かった反省があったとのこと)
北関東地方連合では震災翌週の金曜から昨夜にかけて、第一次奉仕団を派遣。その中には千葉教会からも牧師が1名遣わされました。

今日の礼拝ではその報告と証しがあって、同時に連盟からのペーパーが配布され、そこには祈りと献金の呼びかけとともに、今週末に第二次奉仕団、来週末には第三次奉仕団を派遣するとの内容がありました。

ところで朝、教会についたとき、中越地震の支援のための献金を入れるようにと、玄関にツボが置いてあったのだけど、これが半端でない大きさ(大人の膝くらいの高さの)。これが一杯になるようなら相当の額になるだろう。これは教会員(他教会員であるうちの家族のような者も含めて)へのチャレンジ?
帰宅後、とりあえず来週持っていくための小銭貯金を用意。小銭のままだと受け取る方も数えたり両替したりで大変だとは思うのだけど。

11月1日(月) 役に立つかな

昨日の被災地奉仕の報告の中で、「避難生活が長期化し、これからは話し相手や遊び相手のボランティアが求められる」という報告もあった。

Webで公言するのもはばかられるのだけど、坂井は奉仕が苦手だ。奉仕者が求められると、まず「え~?めんどくさいなぁ」と反応し、どうにも仕方なくなると渋々参加するのがいつものパターン。始まってしまえばわりとノリ気になるくせに、始めるまでがとにかく腰が重い。というわけで自分から手を挙げることは、まず滅多に毛頭ほとんど皆目アリエナイ。

「だけど『遊び相手のボランティア』なら」と思った。坂井には得意(と本人は思っているがかなり稚拙な)芸のマジックバルーンがあるのだけど、これ、避難所でテレビゲームもできない子供相手なら、ウケる、もとい、喜んでもらえるんじゃないか? と仕事中に(←これがイカンのだけどね)思い立ち、とりあえずくだんの第一次奉仕団に参加した牧師に「こんなことできるんだけど、役に立ちますかね」とメールしてみた。

同時に嫁さんにもメール。そしたら、バルーンだけでなく面倒臭いこともやってきてとの快諾。さすが、坂井が遊びにだけ行きそうなのを察したらしい。

仕事の方も金曜は休みを取れるように調整した。

11月2日(火) 参加表明

牧師からは、男性は教会の補修作業に当たるようだが時間があれば子供たちと遊べたらいいですねとの返信。
というわけでさっそく、奉仕団の事務局に参加表明のメールを送った。

ところで、今は日本バプテスト連盟の教会に出席しているわけだけど、実は坂井も嫁さんも日本同盟キリスト教団の信徒。筋から言えば本当は、バプテスト連盟の奉仕団よりも、同盟教団の奉仕団があるのならそちらに参加するべきだと思う。けれど奉仕団を送る以外の方法がとられているのか、どうもWEBでは同盟教団の情報を得られない。まあ、教会か教団本部に電話すればよかったのだろうけれど、それよりもWEBでバプテスト連盟の動きがどんどん入手できるものだから、結局こちらに参加する意思を固めてしまった。
というわけで、事務局へのメールは「千葉教会の坂井」ではなく「千葉教会に出席している坂井」と書いた。実は、半分は千葉教会のメンバーとして、半分は同盟教団代表として参加する、という感じだったわけ。いずれにしても、イエス・キリストの名において隣人のために奉仕にあたるということに違いはないし。

11月3日(水) 仕入れ

祝日。チビたちが退屈してきたので、トイザラスに連れて行く。この店にはいつもチビたちを遊ばせてもらってありがたく思っている。店にしたらいい迷惑だろうけど、そのお詫びというだけでなく、バルーンはいつもここで購入している。

しかしバルーンはどれくらいあれば足りるのだろう。前に人前でやったのは、千葉教会の去年のクリスマス会だった。あの時は30人弱の子供たちが集まって、オーバーフロー状態だった。今回はどれくらい集まるのだろう。
ストックは40本ほどあったのだけど、とりあえず160本入りのお徳用パックを購入。合計200本。ついでに、250枚入りのお徳用折り紙も購入。

帰りに公園に寄って、チビたちを遊ばせながら自分はバルーンの練習。と思ったのだけど、チビたちが公園にいた子供たちを集めてしまって、練習どころではなくなった。練習ではなく演習になった感じで、リクエストに答えて動物など作り、持ちネタの復習ばかりで新ネタの練習はできず。
しかも比較的簡単な、刀とかピストルばかりになってしまった。うーむ。

11月4日(木) CS準備

予定では土曜の深夜か日曜の未明に、拠点となる浦和キリスト教会に帰着する。ということは、日曜のCS(教会学校)の準備は出発前にやらなくちゃ。今度の日曜のCSは牧師が主担当だけど、毎週作っている暗誦聖句カードなどは坂井が作っておかないと。

事務局からのメールに「奉仕団の予定は現地の状況を見ながら直前に決定するので、詳細は追って連絡します」とあったのを待ちながらCSの準備をしているうちに、早めに寝ようと思っていたのがいつの間にやらいつもの時刻に(坂井はいつもかなり夜更かしである)。
急いで準備を終え、あわてて布団へ。車酔いに弱いことだし、とにかく睡眠をとっておかないといけなかったんだ。

11月5日(金) 集合、そして小千谷市へ

集合・出発

事務局が立てこんでいるのか、結局「追って連絡」は昨夜のうちには来なかった。事務局の担当者の携帯番号は知らされていたのだけど、状況を推察するにたぶん多忙なのでしょう。「金曜午後に出発する先遣隊に入ってもらうかも」とは言われていたので、11時頃に浦和キリスト教会(最寄はJR北浦和駅)に着くように出発。(直後に事務局から携帯に電話があったので、到着予定時刻を連絡)

電車内でも十分に睡眠をとって北浦和に到着。荷物の積み込み等はほぼ完了していたので、現地までのルートの確認を頼まれた。
といっても車の免許がないこともあって、どういうルートがよいのかの見当もつかない。とりあえず朝のニュースでよく聞く「道路交通情報センター」で検索し、関越道は小千谷ICの手前の小出ICから先は閉鎖中だとかの情報を見ているうちに、国土交通省のサイトで中越地方の道路状況を適時更新していることがわかった。
国交省のページを開いて驚いた。なんじゃこりゃ。道路地図が「×」で埋まっている。ひどいな。
小出ICから17号を使って小千谷市に入るルートがあるけど、行ってみなきゃ実際に通れるかはわからない。

昼食をごちそうになったのちロヂャースでさらに支援物資やテントを購入して、14:40頃に出発。目的地は小千谷中学校。所沢ICから関越道に入った。
が、17時頃にP.A.で早めの食事をしていると、TVで「関越道は16時に全通」との報道。神に感謝、不休で復旧作業にあたった一人一人に感謝。

しかし全通とはいっても一車線のみ。それも50km制限だ。50km制限の意味は、小出ICを過ぎてすぐにわかった。応急措置がされたとは言っても、山道なみのデコボコで、とてもじゃないが50km出すのだって怖いくらいだ。使われていない車線では復旧工事が続けられているが、ひどい有様。

小千谷市への緊急支援隊である旨を、車の前後左右に張り紙していた。おかげで走行中やパーキングでは注目を集めていたのだけど、料金所対策が目的のひとつ。実は震災地域への緊急援助車両は高速料金を免除されることになっている。
小千谷ICの料金所では張り紙を見て係員が来て、市役所に持っていくと料金の還付を受けられる書類をくれた。(事前に手続きしていれば、料金所をそのまま通過できる)

ICを出ると、町の状況がさらにわかってきた。阪神大震災のときのように住宅密集地というわけではなく大火災もなかったことから(阪神の教訓から、ただちにガス等が止まるようになったそうだ)、思ったほど壊滅的というわけではない。けれどそこかしこで電柱が傾き、道路は崩れマンホールは飛び出している。そして何より、町が暗い。18時くらいだったけどすでに夜。なのに、電気は復旧しているにもかかわらず、避難してしまって家に人がいないということらしい。ゴーストタウンの一歩手前という感じ。

到着

小千谷福音キリスト教会に到着後、目の前の小千谷中学校の校庭に車を入れる。幸い、車に酔うことはなかった。避難所になっていて、車とテントの列ができているその片隅に、テントを設営。
がしかし、ロヂャースで買ってきたそれはテントではなくタープ、つまり底がなかった。箱にTARPと書いてあったのに、誰も気づかなかったとは!仕方なくタープの中は地面にブルーシートを敷いた。他に小テントを4張り設置、ここでは深夜に到着する本隊が仮眠を取ることになる。それにしても車のライトだけが頼りのテント設営には難儀した。

その後、翌日に炊き出しをする予定地の下見。ボラセン(ボランティアセンター)の話しでは車で30分ほどとのことだった。確かにそれくらいかかった。けど道路状態がまともなら10分くらいの距離だと思う。段差や亀裂でスピードが出せないので、30分かかるというわけだ。

現場の避難所は建築関係の会社だった。その会社に近隣の人が避難しているけど、規模のためか公式には避難所として認められていないとのことで、仮設トイレも社有品が一基あるだけ、物資もなかなか来ないとのこと。行政からは大きな避難所に移るようにすすめられているものの、寝たきりの高齢者もあり、歩いて40分の距離を移動することができないでいるそうだ。
そういえば阪神大震災の報道でも、小さな公園の小さなテント村が取り残されているように見えたっけ。

物資は、あるところにはある。しかし被災地全体を俯瞰して分配できるシステムがないため、ある避難所にはコレはあるがアレがない、別の避難所にはアレはあるがコレがない、ということらしい。そして公式には避難所ではないこの現場には、ないものがさらに多いようだ。

うどんの炊き出しをさせてもらうことを挨拶すると、近隣のみなさんにも声をかけてくださるとのこと。
小千谷中学校に戻り、就寝。エアベッドの用意もあったが、本隊のためのテントに分散して置いたため、私たち先発隊のテントでは数が足りない。詰めれば全員がエアベッドに乗れそうだけど、窮屈なのも何なので坂井はブルーシートの上で寝袋に入る。
とりあえず、寝袋のおかげで寒さは問題にはならなかったけど、寝袋からはみ出している頭はブルーシートの上で、ブルーシートは地面の上。そして地面が冷たい!後頭部が冷える! じきに慣れてすぐに眠りに落ちたけど、第三次奉仕団が派遣される際には毛布ぐらい敷くように伝えたほうがいいかも。

夜中に余震あり。震度3くらいかと思ったが、震度4と報道されたらしい。しかし震度3以上ともなれば余震とは呼ばなくていいよ、地震と呼べよ。
それにしても、普通に地震慣れしている普通の日本人としては「お、地震か」で済んだけど(ある団員は、地震があったことにも気づかず熟睡してたし)、被災者の方は揺れるたびに気が休まらないことだろうと思う。

本隊到着

予定通り深夜に後発の本隊が到着したので、ぬくい寝袋から抜け出してお迎え。
しかし周囲はテント暮らしのみなさん。テントというのは、防音もないし遮光もないし、地面からの振動も防げないだろう。校庭に入ってすぐにエンジンを切ったのは配慮だけど、アスファルトが崩れた砂利道のような道路を多数の車が近づき、ライトを照らすというのは、もう少し配慮のしようがあったかも。

各車からリーダーが降り、簡単に打ち合わせ。その後、本隊も仮眠となったけど、寝袋の数が圧倒的に足りなかったので車中で仮眠した人が大半で、せっかく苦心惨憺して設営したテントはあまり使われなかった。

11月6日(土) 炊き出し、その1

車で移動中に眠れるようにと持参した(けど車中では使わなかった)耳栓とアイマスクのおかげで、起床時刻までたっぷり熟睡。7:00に起床し、集合、そして打ち合わせ。
せっかく来た以上は力仕事も辞さないつもりではいたけど、昨夜の下見の際にメンバーが「風船とかも持ってきていますから」と話したこともあり、坂井は炊き出し隊に参加。

各自で朝食。校庭でおかゆを提供しているグループがあったけど、「支援しに来たのに支援されるのもなぁ」と、教会で「緑のたぬき」をいただく。
が、おかゆをいただいてきたメンバーの話しでは、とてもおいしかったとのこと。被災者ではないのだけどと言ったが勧められたそうだ。支援しに来たグループ同士で協力していくのも大事。

参加しているメーリングリストに祈りの支援を頼んでいたたことと、昨夜の余震のことが報道されていたことで、昨夜から今朝にかけて何通かのメールが携帯に届いていた。
このメーリングリストのみんなは、坂井が皇室を敬愛していて、クリスチャンにしては少しばかり右寄りっぽいことを知っている。で、土曜日に天皇皇后両陛下が新潟の被災地にお見舞いに訪れることを知らせて「もしかして坂井さんの奉仕している所に行くかもしれませんね。もしあって話しかけられてもあがらないようにしてください」なんてメールもあった。
敬愛していると言う割に両陛下にお目に掛かったことがないのだけど、たぶんあの建設会社の小さな避難所は訪問先に入っていないだろうな。

現地へ

朝食後、例の建設会社へ。昼間見ると、途中の道はさらにひどい状況だった。塀は倒れまくり、石垣は崩れまくり、電柱は傾きまくりだ。第一次奉仕団のときには、行きに傾いていた電柱が帰りには倒れていたということもあったそうだ。
そして家は壊れまくりで、中にはペシャンコのところもあった。そうかと思うと、古そうな木造家屋が遠目には無事に建っていたりして、少しの位置の差で被害がまったく違ったことがわかる。もちろんそういう家も近くで見れば、被害を免れてはいないのだろうけど。

避難所となっている建設会社に到着。昨夜はわからなかったが、道路をはさんだ向かいの山は見事に崩れている。一番上に高圧電線の鉄塔があるのだけど、その手前から切り取ったようにガケ崩れになっていた。なんというか、室温に置いておいたマーガリンを暖めたナイフで切ったみたいだ。
たぶん鉄塔の基礎がよほど深くしっかりしているのだろう。この鉄塔がなかったらもっと崩れていたに違いないと思う。とはいっても、今にも鉄塔が落ちてきそうに見えて恐い。
崩れたその下は田んぼだったらしい。この時期に苗が植わっているのは、二毛作の麦か何かだろうか。けれど半分は土砂で埋まり、半分は川になっていた。

準備とバルーン

さて、さっそく機材や机と椅子などを車からおろし、運動会の本部席のようなテントを二張り設営。その中にプロパンボンベやらガスコンロやら大鍋やらを設置していき、湯を沸かし始める。まるで学園祭の模擬店のようだ。

機材をおろした車は、物資調達班を乗せて他の避難所へ。ここの避難所で必要な物資が他の避難所にないか探しに行ったのだ。ちなみに、教会とその周辺ではさらに別働隊が教会の修繕や近所の手伝いに当たるなど、都合31人の第二次奉仕団は4班に分かれて活動。
物資調達班は少しあとで、いくらかの物資を集めて戻ってきた。

うどんの準備が終わったところで、しばし休憩。
ここで持参したバルーンの登場。一本ふくらましたとたんに、さっそく小さい子供が寄ってきた。最初は長い風船をふくらましているだけで喜んで見ていたのが、ウサギやサル、クマなどを作り始めると興味深々、そして小学生くらいの子は「教えて教えて」。
初歩的なもの(動物の基本形。馬というべきか。首と脚を長くすればキリン、胴を長くすればダックスフントになる)を教えると、そこからは自分でいろいろ作り始めた。楽しんでくれているらしい。
大人たちも興味津々で、避難所の方も「こういうのはいいね」と言ってくださった。別の支援グループの人などは「少し分けてもらっていいかな、次の避難所に持っていくから」とまで興味を持ってくれた。数には余裕があったので否やはない。口でふくらますのは無理なので自転車の空気入れとかを使うように伝えて、控えめに持っていこうとしたところを一掴みお渡しした。

ガスのありがたさ

昼前に、リハーサルがてら支援者の昼食分としてうどんを作り始める。具はあげ玉、カマボコ、ねぎ、わかめ。坂井は麺上げを担当したけど、いい具合っぽい。
少しすると被災者の方々が集まり始めたので、昼にはまだ早かったけど炊き出しをスタート。小さい避難所なので長蛇の列ということにはならなかったけど、鍋を持って家族分などお求めになる方がかなり多い。

電気は復旧していて水道も復旧しつつあるとは聞いていた。けどガスがまだまだなので、煮炊きができないとのこと。皆さん、うどんなんて被災して以来なのだそうだ。
ダイエット中につき炭水化物カット中とはいえ、もとは麺類大好き人間の坂井。ガスがなくて、ということはうどんも蕎麦もラーメンもパスタも食べられない生活というのはかなり大変だろう。隠れ肥満などという贅沢病で食べられないのではなく、食べたくても食べようにも作れないのだから。
このあたりは農家が多くて米と野菜はあるとのことだけど、電気が来てるから炊飯器は使えても、ガスが使えなければ野菜の調理方法も限られてくると思う。電気のホットプレートで炒めるくらいはできても、茹でるも煮るもできないのでは。

スタートが早かったせいか、予定していたより早くお客さんの列はとだえた。その後はまたバルーンで遊ぶ。中学生や高校生は、バルーンの作り方の本を見ながら自分でいろいろ挑戦している。避難所の大人が「小さい子よりあんたたちのほうが夢中じゃないの」と言うくらいだ。あまり子供が多すぎるとこちらの手が回らなくなるのだけど、ちょうどいいくらいの人数が入れ替わり立ち代りだった。テーブルの上はバルーンが山のようになってしまった。

そのうち、もう一人千葉教会から参加したご婦人が、図書館から借りて持ってきた紙芝居を始めた。たかが紙芝居、しかも珍しくもない「みにくいアヒルの子」なのだけど、それでも子供たちはじっと聞き入っている。それくらい、遊んでくれる人を求めているということなのだろうか。

15時頃、撤収開始。代わって、教会付近で活動していた「ホットドック班」が到着し、準備に入る。
そういえば折り紙も持ってきたのだけど、バルーンと紙芝居でとても楽しんでくれたようで使わなかった。坂井としては、やっぱり参加して良かったという感じ。

炊き出し、その2

建設会社さんのとこの避難所を出発した炊き出し班は、小千谷福音キリスト教会のメンバー宅の近くの駐車場で、2回目の炊き出しの準備にかかった。
確か16:00頃だったと思うが、まだ十分に陽があるものの、かなり涼しくなってきている。やはり土地柄、気温が下がるのが早いらしい。

準備がひと段落したところでノドが乾いた。荷物にペットボトルを入れていたけど、車の鍵の持ち主がちょっと見当たらない。少し離れたところに自販機があったので、動いていたら見っけものと思って行ってみると、まともに動いてた。すごい。
こんなことをすごいと思ってしまう。だって、壊れていなくて、電気が来ていて、品が補充されているんですよ。そんな当たり前のことに驚きを感じてしまうのは、その自販機が置いてある店のショーウインドウが大きく割れて「ガラス危険」と張り紙されていて、もちろん無人であるということもあったと思う。

準備があらかた整ったところで、新たな事実が判明。なんとすぐ近くで別のグループが同じうどんの炊き出しをしているとのこと。たぶんあちらは、ボラセンの割り振りにもとづいてここでやっているのだろう。一方こちらは、教会のメンバーの提案で勝手にやっている。
客の奪い合いだということならこちらが立場が悪いけど、準備してしまったものはしかたない。もっと早く気づいていれば、至近に集中するよりも手薄なところで支援活動した方がいいに決まっているのだけど、別に客を奪って営業妨害しようってわけじゃないし。

やがてサーブ開始。ここではほとんどが、鍋持参の方々だった。やはりガスが復旧していない状況で暖かいうどんを家族でつつけることが貴重なようだ。いつまでこの奉仕団派遣が続けられるのかはわからない。現在のところ決まっているのは次週の第三次までなのだけど、せめてガスが復旧するまでは炊き出しを続けられないかと思う。

ところで、第一次奉仕団のときにはうどんの具があまってしまったこともあって、今回は少し奮発気味だった。ところがここへ来て、まずあげ玉が、続いてカマボコが、わかめが、ついにネギも品切れになってしまった。いわゆる「素うどん」だ。七味だけは残ってるけど。

いくらなんでもこれではかえって申し訳ない。すぐそばで別のグループがうどんをサーブしているのだから、そちらに行っていただいたほうがいいのでは。
と話していたら突然、あるご婦人がダンボール箱を持ってやってきた。なんと40食分のおでんの差し入れ! 応対した団員の話しでは、その方のところにツテで2千食分のおでんが届いたのだという。支援しにきたのに、支援されてしまった。
奉仕団のみなさんでどうぞとのことだったのだけど、これはやはり神様が与えてくださったものと考えるべきだろう。さっそく空いている鍋に40食分のおでんを温め、それからは被災者の方に「素うどんorおでん」とお好みの方を選んでいただくことができた。(うどんの具がなくなってからおでんが届くまでに来られた方には申し訳なかった)

やがて陽も落ちて客足も途絶え、団員の夕飯も含めて、おでんも素うどんも完売。

撤収、そして帰着

撤収

炊き出し班の片付けの最中、ポリタンクひとつ分の水が残っていた。もう帰るだけなのだからと、そばにいた人が排水溝に捨てる。すると、近くにいた団員が集まってきて、排水溝に流すその水で手を洗い始めた。もちろん坂井も手を洗った。

先の建設会社さんのところにも給水車が回ってきたけど、「今は十分あります。またお願いします」という状況だった。それとは別に飲用のペットボトルが求められたので、それは物資調達班が集めてきたのだけど、生活用の水はかなりよい状況になってきているのだろう。
にもかかわらず、水で手を洗えるということがとても貴重な気がした。うどんをサーブする際はもちろん清潔と衛生には気をつけたけど、片付けや遊びなどの最中には、手を洗うなんて事に水を使うのがなぜか贅沢な気がした。

荷物を積み終え、小千谷福音キリスト教会に向かう。途中、目抜き通りにあたるのか、アーケードのある通りを通った。それまでの暗い町並みに慣れた目にはまぶしいほど、煌々としていて驚いた。ただし、店舗のシャッターはほとんどが閉まっていた。

帰着

各班とも小千谷福音キリスト教会に集合。来週の第三次でも使う物を教会に保管していただき、自治体から借りたテントなどは車に積みこむ。予定より時間は早いけど、すでに真っ暗で今日できることはもうあまりない。

祈りののち、第三次が来るまで駐在する神学生と、月曜まで奉仕するチームを残し、各車ごとに帰路についた。そういえば結局、両陛下にお目に掛かることはできなかった。

途中で立ち寄ったS.Aで夕食。TVでは、今年多かった天災の特集をやっていた。
苦しんでいるのは震災にあった中越の方々だけではない。台風の被害が多かった今年、どこかで大きな水害があったと報じられた被災地は、次の水害の被災地に報道と注目が移って人々の意識から薄れ、さらに次の被災地に注目が移り、そして今は中越地震の被災地に報道と注目と支援が移っている。けれど水害にあった各地がすでに立ち直ったわけではない。
別に「いいことをした」などといい気分になっていたわけではないけれど(バルーンで子供たちと楽しくやっていただけだし)、こうしてあらためて特集されると、落ち込むなぁ。あちらでもこちらでも困っている人たちがいるのに、あちらもこちらも支援することはできないのだなぁ。

坂井には、天災をどうとらえたらいいのかまだよくわからない。
戦争だとか原発施設の事故だとか薬害だとか、あるいは水害でも無理な開発が誘発したものだとか、そういった人災で「なぜ神はこんなことをするのか」というのは持っていく先が違う。それは神がどうこうしたというのではなく人間の愚かさによるものなのだから。
だったら台風の水害は?もしかしたら、異常気象は人間の愚かさによる地球環境(というか人間の住む環境)への悪影響によるものなのだろうか。
なら、地震は?

坂井にはわからない。
ただ、私たち人間が痛むとき、主もまた痛みを感じておられるのだと思う。神が私たちを創造されたのだから。子の痛みを見て何も感じない親などいないのだから。いや、今どきはもしかしたらそんなバカ親もいるかもしれないけれど、神はどんな人間の親よりも愛情深いのだから。
そしてこれらの災害の中で、イエス・キリストの名で私たちが奉仕にあたったことは、神の栄光が表されるためでもある。

だけど、これらの災害で亡くなった方もいる。身内を亡くして悲しんでいる方もいる。その悲しみも、神の栄光のためなのだろうか。わからない。
もしかしたらルカ福音書13章冒頭がヒントになるのかもしれないとは思うのだけど、この箇所も難しいし。

などということばかり帰りの車中で考えてたわけでもないのだけど。サッカー好きの団員が「赤城高原」を「あかぎたかはら」と本気で読んだりして、楽しい道中だった。
ただ、やはり疲れがあったのか、少しだけ車酔いになっていた。

おわりに

帰宅

今回、泥ベタになったりビショ濡れになったりしても奉仕活動を続けられるように、着替えを一揃いと換えの運動靴まで持っていったという、かなりの大荷物(大きめのザック+紙袋)を持ちこんでいた。結局それらは使われることはなかった。車であとから千葉に帰る牧師たちに紙袋をあずけて、南浦和駅まで送ってもらって京浜東北線の車中となった。
正直、浦和キリスト教会に帰ってきたときに、どっと疲れが出た。現地にいる間はあまり疲れたと思わなかったけど、キャパぎりぎりまで行っていてそれが帰りの車でキャパを超えたのかもしれない。東京駅で乗りかえるつもりが目が醒めたら有楽町で、あわてて一駅ひきかえして、最終の内房線に接続する最後の総武快速に乗ることができた。

家に着いたのは午前0:30頃。それからしばらくボーッとして、結局いつもと同じくらいに布団に入った。

11月7日(日)

朝になってから、実は出発した直後に千葉教会からFAXが届いていたことを知った。出発前に読むことはなかったけど、教会の皆の祈りが背後にあったから奉仕してくることができたのだと思う。
現地でも団長が、私たちは自分たちだけでここにいるのではなく、準備をしてくれた人たち、祈っている人たち、ささげてくれた人たちによってここにいるのだということを何度も繰り返していた。

礼拝の中で、証しと報告の時間を与えられた。飾っても仕方ないので、ヒンシュクを買うのを覚悟で、正直な感想を話した。ヒンシュクを買うのを覚悟でというのは、、、実は坂井はずっと楽しかったということ。
行きも帰りも車の中はとても楽しかった。闇の中でのテント設営やその中での一夜も、まるでキャンプのようだった。炊き出しなんて、学園祭のようだった。そしてバルーンで子供たちと楽しんでいた。確かに道路や建物の被害は目を覆うばかりだったけど、それでも感想としては「楽しかった」と思ってしまった。この長文をここまで読んでくださった方には「なんか楽しんでるだけで、被災者たちの大変さとかは書いてないの?」と思われたかも。
けれど、と思う。自分は奉仕団に参加している間だけ被災地にいて「楽しかった」で済んだだけに、かえって、私たちが引き上げたあとも被災者の生活は日々続いていくということが迫ってくる。

小千谷中学校の校庭にいるあいだずっと、斜めになった電柱が視界にあった。電柱というのはまっすぐ立っているはずのもので、斜めになっているわけがないという認識がどこかにある。そういう認識があるままで斜めになった電柱を見ていると、本当はこちらの感覚がどうかしてしまったんじゃないかという気がしてくる。
非日常的な光景が日常化すると、正常なはずの神経が正常でなくなってくるのかもしれない。そんなところで被災者は毎日をすごしている。いや、短時間だけ滞在した坂井には考えられないほどの「日常化してしまった非日常」の中にいる。

北関東地方連合の奉仕団は、来週の第三次の派遣までは決定している。その後も継続するかは、会議で検討されるそうだ。
すべてが復旧するまで支援を続けるなんて事は、民間団体である連合には難しいことだろう。けれど、現場を見てしまった者としては、なんとか派遣を継続してほしいと思う。少なくとも、ガスが復旧するまでは炊き出しを続けられないだろうか。その後も、毎週車一台だけの人員でもいいから、話し相手・遊び相手に行けないだろうか。
これまでは、力仕事や炊き出しなど「大人の参加」が求められてきたわけだけど、教会学校の子供たちが参加して現地の子供たちと遊ぶということができないだろうか。余震が続く現地に子供たちをお預かりして引率するのは難しいかな。
あるいはたとえば「小千谷市民クリスマス」なんてことができないものだろうか。

千葉教会の玄関に置いてあった義捐金を募るツボは、今日で締め切ってささげられるそうだ。先週用意していた小銭貯金を持ってくることは、すっかり忘れていた。というか、小銭貯金を用意していたときは、自分が奉仕団に参加するなんて思ってもいなかった。
まあ、奉仕団に持参したバルーンを買った小遣いと、現地や往復での飲食に使った小遣いが、義捐金だったことにしてもらおう。

11月8日(月)

昨夜は子供と一緒に20時頃には寝てしまった。それでも今朝は寝坊したのだから、やっぱ疲れてたのだろう。
昨日、教会から帰ってから、土曜日にチビたちと遊べなかった分、公園で遊んだせいもあるかもしれない。小学一年の長女は(今だけのことかもしれないけど)とーちゃんベッタリで、土曜日にとーちゃんがいなくて新潟に行ってしまうと聞いてすごくがっかりしていた。今回の坂井の奉仕団参加で、一番犠牲を払ったのは長女なのかも。本当は一緒に行きたいと言っていたのだけど、奉仕団に参加できるのは中学生以上となっていた。

年長組の長男には出発前に、神様がとーちゃんを守ってくださるようにとお祈りしてもらった。

そして、休みのはずの土曜日に子供を一人で面倒見てまで坂井を送り出してくれた嫁さん。

幼稚園にも上がっていない次男は、、、たぶんよくわかってなかったかな。

第一ペトロ4章11節

これは帰ってから思ったことで、奉仕団に参加している間はもちろん、礼拝で証ししているときも思いもしなかったのだけど(もし思いついていたら、もう少しカッコつけた証しができたのに)、ペトロは「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」と書いている。

たかが風船。たかが趣味。それも稚拙でレパートリーも少ない。けど、自分がこれをできるということ、今までの時間の中で身につけていたということは、やはり神の計画の中での事なわけで。だとするとこれは、私に「神がお与えになった力」なのだろう。
子供たちに喜んでもらえたことは、「力に応じて奉仕」することができたということなのかもしれない。あまり「キリスト教の奉仕団ですっ!」と強調はしなかったけど、でもこの奉仕団によって「イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けに」なったはずと思う。

坂井が自分から「その奉仕やります」なんて言い出すのはめったにないのに、なんで今回に限って自分が手を挙げたのか、わかったような気がする。
カッコつけて言えば「聖霊のうながしによって」と言いたいところだけど、つまりは自分から手を挙げた数少ない過去のケースと同様、神様にしてやられたということだ。


追記。
何を間違ったか、翌週の第三次奉仕団にも参加してしまいました。そのときのことは体験記その2としてアップしています。

作成:2004年11月9日
更新:2004年11月10日

布忠.com