2008年の目標聖句

menu

イザヤ書40章1

例年、「今年はこの聖句(聖書の言葉)を特に意識して心がけよう」という一句を選んで年頭にかかげてきました。
結果は、まあ惨敗です。いえ、勝ち負けの話しじゃないんですが。どの言葉を選んでも所詮は「いたりませんでした」となるのもわかりきったことですが、「実践できました」なんて言えっこないです。しかも正直なところ、年のはじめのうちは意識できていてもその後はなんとなく意識から薄れて、年の瀬が迫ってきた頃に思い出して「あ~あ」と嘆息するという繰り返しです。

だからというわけでは決してなく、2008年は「心がけのテーマ」ではなく「祈りのテーマ」としてイザヤ書40章1を選びました。
この「選んだ」というのはやや語弊があるもので、自分で選んだというよりはピピッと示されたというものです。クリスチャンでよく「この御言葉(みことば)が与えられた」という表現をする人がいますが、私は与えられたというのはまだよくわからないのだけ、いつの間にかなぜか意識が向けられていた聖句という感じです。

イザヤ書40章1
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。

「心がけのテーマ」ではなく「祈りのテーマ」というのは、まずこの聖句によってイスラエルのために祈っていこうと思っているということです。その中で、あるいはその先で、何か示されるところがあれば、行動のための心がけのテーマとなっていくかもしれません。

日本人だから、クリスチャンだから

信仰宣言のページにも書きましたが、私は、私が日本人として創造された上で信仰に入れられたことは神の計画によるものと信じます。私は異邦人として創造され、異邦人のまま救われました。

私が考えるに、すべての非ユダヤ人キリスト者と同じく、私が異邦人として創造され異邦人のまま救われたことの意味は明らかです。それはユダヤ人の救いの先駆けとなることです。
彼らユダヤ人の罪によって異邦人である私に救いがもたらされる結果となったのです。(ローマ11章11)
彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が私に「キリストの計り知れない富」をもたらしたのです。(ローマ11章12、エフェソ3章8)
私は接ぎ木された枝であって、根が聖なるものであるからこそ、根から豊かな養分を受けるようになったのです。(ローマ11章16,17)
そして

そうでなくても、神の人類への祝福はアブラハムの子孫を通して与えられると繰り返し宣言されています。かつては私も「教会がイスラエルに取って代わった」と聞かされたことがありますが、よく聖書を読めば、神の賜物と招きとは取り消されないものだと明言されています。(創世記12章3、同18章18、同28章14、ローマ11章29)

パウロも、「彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」と書いています。(ローマ11章12,25,26)
日本人つまり異邦人である私が救われたとは、異邦人全体が救いに達するまでの中でのことであり、それは全イスラエルの救いの先駆けであることが明らかです。

ヘブライ書の著者の言葉ではありませんが「これ以上、何を話そう」というものです。すべては聖書に明らかです。
そういうわけで私は、イスラエルを祝福します。アブラハム(の子孫)を祝福する者は神から祝福されるのです。これまでのキリスト教徒はむしろ彼らを呪ってきましたが、彼らを呪う者は神から呪われると明言されています。(創世記12章3)
いえ、すでにカトリックでは、先代教皇ヨハネ・パウロ2世の頃から、ユダヤとの和解の道を探し始めています。この点でプロテスタントは、プロテスタント自体が一枚岩ではないということもありますが、イスラエルのための祈りと働きはBFPなどごく一部にとどまっているようです。

イスラエルのための働き

前項で「全イスラエルの救いの先駆け」と書きましたが、別にディスペンセーションを支持しようという意図ではありません。「全イスラエルが救われる」時代はすでに始まっています。上で名前を出したBFP(Bridges For Peace)の働きなどにより、まだ数は少ないけれどイスラエルに「イエシュア(イエス)を信じるユダヤ人」が増え始め、コングリゲーション(集会)を形成しはじめています。

イザヤ書40章1

長々と前置きを書いてきましたが、私自身もそう楽ではない暮らしをしていますから(旧ソ連圏で苦しんでいるユダヤ人や、生活が確立していない帰還民の苦労に比べることはできませんが)、経済的な支援に手を出すことはなかなかできません。でもまず、彼ら「神の民」のことを心におぼえ、彼らのために祈ることから始めようと思い、冒頭にあげたとおり今年2008年の年間聖句としてイザヤ書40章1としました。これ自体、BFPの働きの一つである月刊小冊子「オリーブ・ライフ」にかかげられているものが目にとまってどうしても離れなかったものです。

なお、冒頭の聖句は新改訳を使っています。
このサイトでは基本的に新共同訳を使用していて、これはプロテスタントで現在主要な邦訳と思われる口語訳、新改訳、新共同訳の中ではもっとも新しく、入手しやすく、つまり一般的で、私が出席している教会でも用いているものだからです。時には、私が物心ついたころから慣れ親しんだ口語訳から引用していることもあります。
にもかかわらずここで新改訳という、私が生まれ育った教会の教派では(新共同訳が出るまでは)むしろ一般的な邦訳だったものの私自身はあまり縁がなかったものから引用したのは、この箇所については新改訳がヘブライ語聖書の語順に近かったからです。ちなみにヘブライ語では次のような語順となっています。

       

ヘブライ語は右から左へ読みます。英語とヘブライ語の対訳本によると、(右から)1つ目と2つ目の単語には「comfort!」、3つ目には「people-of-me」、4つ目には「he-says」、5つ目には「God-of-you」と当てられています。そのまま訳せば「慰めよ、慰めよ、わたしの民を、あなたがたの神である彼はそう言う」というところでしょうか。

ちなみに新共同訳では[慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。]となっています。口語訳では[あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ」]です。ヘブライ語には日本語のような句読点の使い方がないことによる違いでしょうか、二つ目の単語が三つ目の単語にかかるという理解でしょう。だとすると「慰めよ。慰めよ、わたしの民を。」という句点とカギ括弧の使い方がいいような。
といってもべつに新共同訳や口語訳の翻訳委員に[神の霊の導き](テモテ二3章16)があったことを疑おうというのではありません。ただ今回は「イスラエルのために祈る」というところに意識があるので「まんま」に近いものをというものです。

注解書によるとこの言葉は、イザヤ(文書資料説によれば「第二イザヤ」または「第三イザヤ」と呼ばれる人物)をとおして、あとに続く預言者へ、イスラエルを慰める預言を語るようにとのものであるようです。だとすれば別に、自分が異邦人だからということで神の民を慰めようと意識させるものではないということになります。
でもそれをいうなら、旧約のほとんどが「キリスト教の聖書」に入る必要はなくなるように思います。実際、イザヤ書40章は、読んでいるだけでわくわくするというか、心躍るものがあります。

(本当は1月1日に公開したかったページなのですが、旧年中にこの箇所にぐいぐいと引き付けられて年頭にメニューページにかかげ、その意図についてようやく1月4日にこのページを公開することができたものです。)

作成:2008年1月4日

布忠.com