自衛隊のイラク派遣

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陸上自衛隊の本隊がイラクに派遣された。

武器を持って他国へでかけていくなんてことは、ないに越したことはない。日本国の自衛隊のみならず、米国軍なども含めてのことだ。

しかし、単純に「自衛隊派遣に反対」と言っていいのか。少なくとも、なぜ自衛隊派遣がいけないのかについて論理も論議もなく感情論で叫ぶことには賛成できないし、対案を出さない「やめろ」にはも賛成できないからだ。
というわけで以下、筆者なりにじっくり考えてみる。

自衛隊自体、合憲か違憲か

まず日本の自衛隊には、その存在自体が合憲か違憲かという問題がある。いや正確には、問題視している人がいる。
ここで大事なのは、「選挙で選ばれた国会議員が法律を決める」というシステムを日本が採用している以上、「国民の誰かが違憲と思うかどうか」ではなく「国民に選ばれた代表者が合憲としたかどうか」が問題であるということだ。
仮に久米宏や筑紫哲也や朝日新聞が「違憲の疑いがある」と言ったとして、それで自衛隊が違憲になるのではない。また仮に右翼が「合憲だ」と言ったとして、それで自衛隊が合憲になるのではない。

では私たちが選んだ代表者は、自衛隊を合憲としたか違憲としたか。
現在のところ合憲である。自民党政権(単独および連立)は(党内に異論があるとしても党の方針としては)合憲の路線で来た。社会党(現・社民党)党首が首相になったときも、合憲と判断した。

だから自衛隊の存在は合憲である。筆者が違憲だと叫んだとしても、日本の有権者を代表する声が合憲としたのだ。

異議がある人は、自衛隊を違憲とする代表者を選挙で選んで国会に送り込むか、そんな代表者がいないという場合は自分が国会議員になって、国会で議論すればよい。
(参考までに、自民党では改憲論議の中で、法律が憲法に違反していないかを判断する憲法裁判所の設置を検討しているそうだ)

自衛隊派遣は、合憲か違憲か

自衛隊は合憲だとして。自衛隊基本法は見ていないが、この組織の名前から察するに、自衛隊とは自国を防衛する組織であろう。それが外国(たとえばアフガニスタン沖やイラク本土)に出て行くことは合憲なのだろうか。

第九条

ここで出てくるのが、社民党などが反対の根拠とする憲法第九条だ。ここにはどう書いてあるか。

日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,
国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。
国の交戦権はこれを認めない。

改行は筆者が勝手に入れたものだが、2行目に「国際紛争を解決する手段としては」とある。今回の自衛隊派遣が国際紛争を解決する手段としてでないことは明らかだから、自衛隊派遣は2行目に違反していない。(米軍のイラク侵略という国際紛争の、後始末のためであるとはいえるが)
なお、イラク派遣に反対する人がここを「紛争を解決する手段としては」と引用しているケースがある。その方が憲法の精神には合致するかもしれないが、現在の条文としてはあくまでも「国際紛争を解決する手段としては」つまり話題を国家間の戦争状態に限定しているので、これを「紛争を解決する手段としては」にするのは明らかに拡大解釈だ。

3行目は、2行目の目的を達するためという前フリがある。「自衛隊は軍ではない」と言っても、ここでは「その他の戦力」つまり軍以外でも戦力とよべるものは保持しないと宣言しているのだが、それはあくまでも2行目の目的を達するためなのだ。つまり、2行目に違反していない以上は3行目にも違反していないことになる。

次に4行目の「交戦権」だが、この言葉の意味は「国家が戦争をなし得る権利、または戦争の際に 行使しうる権利。」だ。そして戦争とは「国家間の争い(紛争)を解決するための武力行使(に入ること)。」である。
今回の自衛隊派遣は、日本という国とイラクとの国家間の争いのためでないことは明らかだから、4行目に違反していない。

最後に、自衛隊派遣は1行目に違反しているだろうか。つまり、日本国民の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する思いは、イラクの復興を支援するためという名目と対立するだろうか。イラク国民を見捨てて何もしないほうが、1行目に違反するのではないだろうか。

こうしてみると、自衛隊の派遣は第九条に違反しているとは考えられない。
単純に言って、1行目がある限り「侵略でないなら、外に助けに行くことは、むしろ第九条の精神に沿うものだ」と考える。(なお、「自衛隊が外に行くことは、どんな目的であれ侵略だ」という非論理的でヒステリックな感情論は相手にするつもりはない)
では今回のイラクへの自衛隊派遣は、侵略だろうか。社民党の表現を使えば「いつか来た道」なのだろうか。筆者は「侵略」の「法的な定義」がわからないので難しい。
とりあえず、イラクの主権を踏みにじった米国の行為は明らかに侵略だったと考える。だから自衛隊派遣が「米国を支持するため」というなら侵略だろう。そういう観点で以前に「米国のイラク侵略と日本政府の侵略支援に反対します」を書いた。しかし自衛隊は米国を支持するために行ったのだろうか。派遣法ではなにを目的としているだろうか。

「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」略して「イラク特措法」は、この法の目的を以下のように規定している(第一条より抜粋)

イラクにおいて行われている国民生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等に向けたイラクの国民による自主的な努力を支援し、及び促進しようとする国際社会の取組に関し、我が国がこれに主体的かつ積極的に寄与するため、…

これでは、派遣された自衛隊でイラクを侵略したくでもできない。もし侵略したら、派遣法違反だ。
なお、第一条は続けて「人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行うこととし、」としている。安全確保活動ではなく、安全確保支援活動だ。役人得意の微妙な言い回しだが、現地に到着した陸自の指揮官が、訓示で「平和維持が目的ではなく復興支援が目的である」と明言するシーンが報道されたのが印象に残っている。

合憲ではあるが…

以上で、自衛隊の存在が合憲で、今回のイラク派遣も違憲ではないという結論を得た。
しかしもうひとつ問題がある。違憲であってはならないのと同様、違法であってはならないということだ。

イラク特措法第二条2では「現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域においてのみ、自衛隊の活動を含む「対応措置の実施」を行うとあるのだ。
また第九条には「内閣総理大臣及び防衛庁長官は、対応措置の実施に当たっては、…イラク復興支援職員及び自衛隊の部隊等の安全の確保に配慮しなければならない。」ともある。

つまり「安全な地域限定」ということだ。もし自衛隊の活動地域が安全でないなら、(合憲であっても)派遣法に抵触する違法行為ということになる。

ただしこれについては、マスコミが「サマーワは危険だ」と書くかどうかではなく、まして筆者が「イラクに安全な地域なんてあるのかよ」と思うかどうかではなく、自衛隊先遣隊の報告だけが公式な判断基準となる。先遣隊が、「上からどういう報告を求められたか」よりも「自分や同僚の安全の確保のため」を基準として報告したことを期待したい。

抗議の是非

以上については、反対意見も当然あると思う。なんといっても私たち国民に選ばれた、私たち国民の代表であるはずの国会議員が、国民の考えや気持ちに反する政治をやったり法律を作ったり憲法解釈をしたりするのは、しょっちゅうだからだ。
しかし、自衛隊基地等の周辺で派遣に反対する市民の姿が報道されたが、あれは二つの意味でおかしい。

自衛隊に抗議するのは危険

第一に、自衛隊は自分たちで「イラクに行こう」と決めたのではなく、政府によって「イラクに行け」と命じられたのだ。
基地で自衛隊に訴えるデモとは「政府と防衛庁長官からはイラクに行けと言われたが、デモの声に耳を傾けて、行くのはやめよう」とするように自衛隊に求めているわけだが、それは「自衛隊が、(国民の代表である)政府の命令を無視して、自分の判断で行動する」ことを求めているということだ。

これほど危険なことはない!もしそうなったら、先の大戦のときよりも危険だ。なぜなら、軍の強行な姿勢もあったにせよ、当時でさえ軍は政府の指揮下にあったからだ。(逆に軍の一部が暴発しようとした二二六事件は、天皇によって制されている)

日清戦争、日露戦争、そして大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)とも、日本国民が望んだ戦争だった。
軍のトップが内閣で発言力を持っていたことも確かに大きく、軍によって内閣が倒されたこともある(陸海軍の大臣を内閣に加えることになっている法のもとでは、軍が大臣を内閣に送らないだけで、組閣不可能となる)。しかし、軍の姿勢を後押ししたのは国民だった。
政府が平和外交を展開しようとすれば「弱腰だ」と非難したのも、軍縮条約に乗ろうとすれば「統帥権の干犯だ」と騒ぎ立てたのも、国民と新聞と野党による政府批判だったのだ。与謝野晶子が「ああ弟よ、君死にたもうことなかれ」という詩を発表したときも、政府や警察は何もしなかったが、国民がバッシングしたのだ。

維新以来の戦争は、軍部の不法な工作があったにせよ、軍が勝手に戦争しに行ったわけではなく、国民とマスコミが軍部を支持したからできたことだ。(それにもかかわらず、それらの戦争は現在になって国民の多くが「間違っていた」と評価することになった)
現代では軍のトップは内閣におらず、逆に内閣の一員が長官として自衛隊のトップに立ち、その上に内閣総理大臣が立って指揮権を持っている。国民の代表者である内閣総理大臣の命令がなければ自衛隊は動けないからこそ、安全なのだ
それを、自衛隊が内閣総理大臣の命令を無視してみずから判断するように求めるとは、あえて言うがバカとしかいいいようがない。自衛隊が内閣総理大臣を無視して「行動しない」という選択をできるようにするということは、内閣総理大臣を無視して「行動する」という選択もできるようにするということなのだから。

「そうはいっても、そもそも内閣総理大臣が自衛隊を派遣することが間違っているのだ」という意見もあるかもしれないが、それなら基地ではなく国会か首相官邸でデモをするべきだ。
日本人には思想信条の自由があり表現の自由があるから、「自衛隊派遣に反対する」という思想を「デモ」という手段で表現することはゆるされるだろう。しかし「やっていいかどうか」と「正しいか間違っているか」はまた別の問題だ。そして基地周辺でデモをすることは完全に間違っている。
あえて言う。デモ隊が本気で主張の実現を望んでいるなら、「主張が実現されたらかえって危険な日本になる」ということがわかっていない愚か者だ。そうでないというなら、本当は主張が実現しないことを前提として「自分は平和のために行動している」と自己満足するための行動ということになる。

日本国民が望んだ派遣

第二に、前項で「内閣総理大臣が自衛隊を派遣することが間違っているのだ」という意見もあるかもしれないと書いたが、その意見は正当かを考えたい。

現在の日本が採用している議会制民主主義というシステムは、簡単に言ってしまえば、国民によって選ばれた代表者が議会で物事を決めるということだ。その議会で選ばれたのが内閣総理大臣である。だから議会制民主主義においては、「内閣総理大臣が間違っている」というのは、「内閣総理大臣を選んだ国会が間違っている」ということであり、それは「国会議員を選んだ国民が間違っている」ということだ。
前回の国政選挙は、つい去年のことだ。そして(与党も民主党も有権者の目を「二大政党制」に向けさせる戦略だったようだが、それでも)小泉政権を信任すれば自衛隊を派遣するだろうことは誰の目にも明らかだったはずだ。にも関わらず、与党支持が約3割、棄権した(小泉政権のままで何も変えなくていいと判断した)有権者が約4割、あわせて約7割の有権者が、政権の存続を支持し、自衛隊派遣を承認したわけだ。(それに対して、自衛隊派遣反対のデモに参加したのは国民の何パーセントだろうか)

いまさら自衛隊派遣に反対するくらいなら、なぜ「ついこの前の選挙」のときに行動できなかったのか。棄権した約4割が、自衛隊派遣に反対する党へ投票していれば、状況を変えられた可能性は高いだろう。
確かに、メジャーな政党の中で明確に反対を叫んでいたのは、社民党と共産党くらいなものだったかもしれない。各国の共産主義政権の失敗や、北朝鮮万歳の社民党を見て来て、両党を支持したいとは思えなかったかもしれない。しかしそれなら自分が立候補すればよかったのだ。今頃になって「自分は平和のためにがんばっているんです」とポーズをつけるだけであるなら、支持できるはずもない。

結論

整理しよう。

自衛隊は合憲であり、国会において可決された法律にもとづいて合法的に、侵略のためではなく、平和維持活動という名の戦闘のためでもなく、復興支援のためにイラクに派遣されるものだ。自衛隊を合憲と判断したのも、派遣法を成立させたのも、私たち日本人の代表である。

自衛隊は内閣総理大臣の命令によって行動する。その内閣を選んだのも結局は私たち日本人だ。つまりは、私たちが望んだから自衛隊はイラクに行くのだ。
もし万一、自衛隊員が一人でもイラクで殺されるなら、それは私たち日本人が彼を死地に送り込んだのだ。
もし万一、テロをしかけてきたイラク人を自衛隊が射殺するなら、それは私たち日本人の意思でそのイラク人を殺したのであり、私たち日本人の意思でその自衛隊員に殺させたのだ。

そんなつもりで自民党を支持したわけじゃないとか、そんなつもりで棄権したわけじゃないといっても、「いまさら」でしかない。繰り返すが、平成15年の衆議院選挙のとき、小泉政権続投なら自衛隊が派遣されるだろうことは明らかだった。

ただし、以上の議論とは別に、今回の人道目的の派遣が、今後の侵略目的の派遣への前例とされないように監視していることは重要である。

クリスチャン読者へ

最後に、日本のキリスト教界の中にも自衛隊派遣に反対する声が強いので、日本人キリスト教徒の一人として反論したい。

イラクの現状に対して、外国(日本を含む)の選択肢は三つある。
第一に、自分を守る能力のある組織が行って、復興を支援するという案。
第二に、自分を守る能力のない組織が行って、復興を支援するという案。
第三に、一切なにもしないという案。

第一案が、日本では自衛隊派遣だ。市民でもマシンガンや対戦車砲を持っているような国で自分の身を守れる組織は、武装した自衛隊以外にない。しかしこの第一案に反対するなら、他の案はどうか。

第二案は、「誰か非武装の人たちを送る」ということだ。では誰を?武器が市民の間にあふれている地域に「誰か丸腰で行ってこい」などと無責任なことを言うつもりか?そうでないなら、「自分たちが(もちろん丸腰で)復興支援に行く」というのか?自衛隊派遣反対の人は、それだけの覚悟と用意があって反対しているのだろうか。
「自衛隊はダメ。誰か丸腰の人を送れ。自分はあんな危ないところには行かない」というのは卑怯者でしかない。それにしても、危険を覚悟で現地入りし活動しているNPOの方々には、まったく頭が下がる。彼らが自衛隊派遣に反対するなら、彼らにだけはその資格がある。(彼らというのは実際に現地に行っている人であって、支援するだけで自分は安全なところにいる人には資格はない)

第一案に反対、第二案もイヤというなら、第三案つまり「イラク国民がどうなろうと知ったこっちゃない。インフラが破壊されて経済が停滞したまま貧しかろうが、学校が破壊されて教育を受けられなかろうが、我々には関係ない」という態度を選択することになる。
もちろん、そういう選択をするのも「日本人」には自由だ。しかし「日本人キリスト者」はこの案を選択できるのだろうか。隣人を愛せ、もっとも小さい者のために動け、などのキリストの命令を無視して、イラクの人々を見捨てることができるのか。

「自衛隊派遣には反対。けれど自分も行きたくない。だけど見捨てることもできない」これではダダをこねる幼児のレベルだ。対案も出さずに政府のやることにはなんでも反対というのでは、まるで社民党レベルだ。
冒頭でも、対案なき「やめろ」には賛成しがたいと書いた。「しがたい」と書いたのは、この世には「対案の必要もなく問答無用でダメなこと」ということもありえるからだ。しかし対案なしに自衛隊派遣をやめろというのは、「イラクの人々を見捨てるという行動」である。

だから「自衛隊派遣には反対。けれど自分も行きたくない。だからイラクのことは見捨てる」というなら、筋は通っている。ただしキリスト教を奉じながらそう主張する人たちはまず、自分の持ってる聖書を何箇所も墨で塗りつぶさなければならないだろう。

「自衛隊派遣には反対。けれどイラク人を見捨てることは聖書に反する。だから自分たちで行って復興を支援する」という人だけが、自衛隊派遣に反対する資格がある。
筆者は「隣人を見捨てることは聖書に反する。自分で行って復興を支援することは、危険性や家族のことを考えたらできない。だから自衛隊にがんばってほしい」と思っている。
そして、すべての自衛官が無事帰国できるように、祈っている。

作成:2004年2月15日
更新:2005年1月2日

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