聖書をすすめる3つの理由

1.読書人へ

一冊の本としてみても、聖書はかなり興をそそるものでしょう。だてに分厚いわけじゃありません。

聖書は66巻の書をまとめたものですが、その中には歴史物語、軍記、哲学書、詩歌集などなどなどなど、さまざまなジャンルの書が含まれています。

これら変化に富んだ66巻は、そのもっとも古い部分が書かれてからもっとも新しい部分がかかれるまでに1000年以上かかり、著者は数十人に及ぶのですが、おもしろいことにテーマは一貫しているのです。
むしろ、ひとつの主題について、数十人が1000年以上かかってそれぞれの手法(詩人は詩で、王は格言で、歴史家は記録で)で書き上げてきたといべきかもしれません。

複数の著者が一つのテーマで作品を書きつづけるという意味では、クトゥルー神話体系とか、ローダンシリーズなどもあります。しかし聖書がこれらと決定的に違うのは、世界中で支持され、また支持されつづけているという点です。
「世界中で」とは文字どおりの意味で、多くの言語に翻訳され、現在も翻訳がすすめられています。現在、世界には数千の言語が存在すると言われますが、文字を持たない民族のためにはその民族の言語を文字に表記するための研究からはじめているほどです。
「支持」については、たとえば多くの人がこの本のために命をかけてきました。今現在でも、聖書を持っているだけで逮捕されたり命の危険にさらされる国は少なくありません。

それほどの本、どんなものなのか読んでみたいと思いませんか。

2.国際化時代の相互理解のために

「世界の中の日本」を考える時、「キリスト教は外国の宗教」で片づけてはいられなくなっています。
もちろん、日本人の全員が熱心な神道あるいは仏教徒ではないのと同様に、欧米およびその旧植民地の人の全員が熱心なクリスチャンというわけではありません。それでも彼らのバックボーンである聖書を読むことは、彼らと付き合う上で必要なことになってきます。

米国では裁判で証言するときや大統領が就任する時に、聖書に手を置いて宣誓する光景があります。欧米のスポーツマンやミュージシャンが賞を取ると「神に感謝します」ということばが聞かれます。
日本人でも、たとえば元広島カープの鉄人衣笠選手は、引退の際に第一声で「まず神様に感謝します」と言いましたが、でも日本人の「神」と聖書の「神」つまりGodは、かなり違うのです。

欧米の文化や文学や芸術にふれるとき、聖書を知らなければそれらを理解することがかなり難しくなると言っていいでしょう。直接にキリスト教を扱っていなくても、純文学やコメディ映画や、日常会話のちょっとしたジョークにまで、キリスト教ネタは多く出てくるのです。

教育・政治・経済なども同様。欧米では教会を敵に回すような政治家や企業はやっていけません。
クローン技術が問題になり、人工中絶への賛否が大統領選の争点にまでなるのは「それは人の領域なのか神の領域なのか」という議論になるからです。

各国の政財界でユダヤ人が強い影響力を持つと言われていますが、ユダヤ人の宗教であるユダヤ教も旧約聖書を聖典にしています。

ことは欧米にとどまらず、欧米の植民地であったアジアやアフリカの国でもキリスト教は強い影響力を持っています。また、となりの韓国ではキリスト教が大ブレーク中で、その国民の20%がクリスチャンであると言われています。
(ちなみに日本のクリスチャンは人口の1%と言われますが、実際にはもっと少ないと思います)

その他、「冷戦終結後の戦争は”国家対国家”から地域紛争へとシフトしている」といわれていますが、(残念なことですが)宗教対立も紛争のキーワードの一つとなっています。(キリスト教徒対イスラム教徒、カトリック系対プロテスタント系など)

クリスチャンにならなければ国際化時代を生きられないとはいいませんが、キリスト教を知らず、聖書も読まないままで、聖書を基盤とする人々を理解することは困難でしょう。
もちろん、諸外国人に日本を理解してもらうという方法もあります。何を隠そう愛国者を自負する管理人自身、グローバルスタンダードとかデファクトスタンダードという名の米国追従には賛成しかねるところが多々あります。
でも、「これが日本人だ」といえるようなものを一発で示すことができるでしょうか。ところが、聖書一冊で、多くの国の人たちの思考の根っこをのぞくことができるわけです。(オトクだね!)

3.あなた自身のために

最後に、いちクリスチャンとして勧めます。

聖書は、たかが一冊の本です。印刷された紙を綴じただけのものです。しかし、そこに書いてあることはこの世界を創造した者のことばであり、もしあなたが読むなら、必ずあなたの益となることを、私は、そして私たちクリスチャンは、知っています。

「宗教に頼るのは弱い者のすることだ」と言う人がいます。
でも、”偉人”と呼ばれる人にも、聖書を読んでいた人は少なくありません。また、迫害されても信仰を捨てなかったために殺された大勢の人々は、弱かったのでしょうか。
聖書には力があります。悩みの中にある人にも力を与え、自信にあふれる人にも力を与えます。

「宗教に入ると、品行方正でお行儀よくしなきゃならないから窮屈だ」という人がいます。
でも実はキリスト教はあなたを自由にするものであって、縛りつけるものではありません。また、正しく清く生きなきゃいけないというものでもありません。(信仰した結果として、そのように人が変わっていく、あるいは変わりたいと思うようになるということはあります)
現代の教会はどうも「立派な人のもの」になってしまっているようですが、聖書を読めば、キリストのまわりにはいつも犯罪者や売春婦などが集まっていたことに驚くでしょう。

だからといって、あなたにキリスト教を押し付けることはしません。私があなたを勧誘しても、あるいは何もしなくても、あまり意味がない、と私は考えているからです。だって、あなたが聖書に書いてある創造者を信じるようになるかは、あなたと創造者の一対一の問題ですから。
私にできることは、あなたに”聖書を読んでみよう”と呼びかけること、あなたが聖書を読む手伝いをできるかぎりすること、それだけです。

ではさっそく読んでみよう

以上が、私が聖書をすすめるおもな理由です。が、一人で読むには少々てごわい本でもあります。

まず、やたらとボリュームがある。あんな厚い本にあんな小さい字でびっしり書かれて、よほど本の虫でもなければ読んでみようという気になかなかなりませんよね。

その上、書いてあることも難しい。クリスチャンでも難しいところは多いのだから、教会に行って牧師の解説を聞いたりする機会のない人には難しいでしょう。

じゃあ、どうしたら聖書を正しく(つまり聖書が書かれた目的にそって)読むことができるでしょう。

一番確実なのは、キリスト教の教会にいってみることです。そこではいつも聖書が読まれているし、聖書の専門家(牧師や神父など)がどんな質問にも答えてくれます。初心者のために聖書を読む会を開いているところも少なくありません。そして、どの教会でもあなたを歓迎します。

でもいきなり教会に行くのも、けっこう思い切りみたいなものがいりますよね。わかります。聖書をちょっと読んでみたいだけなのに、教会なんかいったらそのまま宗門に入れられてしまうんじゃないかとか、もしかしたらどこかの宗教みたいに洗脳されてしまうかもしれない?
そこまで行かなくても、本を一冊わかりたいだけなのに、わざわざでかけるのもめんどくさい。それに教会は日曜日にやってることが多いけど、せっかくの休みに説法を聞きに行くのもなんだなぁ。

そんな人のために、わずかでもこのサイトがお手伝いできたら。そう願っています。

作成:1998年8月
更新:2002年12月15日

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