なぜキリスト教を信じるのか

(このサイトは、クリスチャンではない方に聖書に親しんでいただくことを目的としていて、「さあ信じなさい」的なことは極力ひかえてきました。あなたがキリストを信じるようになるかどうかは、あなたとキリストの一対一の話しなのだから、筆者はキリストをあなたに紹介することに徹しようと考えてきたからです。ですがこのページでは、テーマ上、一歩踏み込むことになりました。

私事ではありますが、2003年5月に筆者の祖母が亡くなりました。
彼女は生きているうちに、キリストを信じる者になることはありませんでした。「もしかしたら内心では信じていたかも」と思うのですが、でも自分の口で「キリストを信じる」と言ったことはありませんでした。

聖書では、イエス・キリスト自身がはっきりと「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」と断言しています(*1)。そして救われてクリスチャンになった者は、死の後に神の国、いわゆる天国に入ります(*2)。

では、信じなかった者は、死んだあとどうなるのでしょうか。それを考えていくと、なぜキリスト教を信じるのかが見えてきます。
なお、このサイトはキリスト教を紹介することを方針として、勧誘や押し売りはしないことを原則としてきましたが、このテーマについて扱う以上すこし踏み込まざるを得ませんでした。

(このページの内容は例によって筆者個人の聖書理解です。「キリスト教ではこう教える」というものではありませんし、筆者が出席している教会や所属している宗派、筆者がお世話になっている牧師の見解を代表するものでもありません)


死者に関する聖書中のてがかり

聖書の最終巻「ヨハネの黙示録」は、[すぐにも起こるはずのことを、…キリストがその天使を送ってしもべヨハネにお伝えになった]こと(*3)、つまりこの世の終末の光景を、啓示として目撃したヨハネが書き記したものです。その中でヨハネはこう書いています。

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、(キリストの)玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府【よみ】も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。
(ヨハネ黙示録20:12~15)

いわゆる「最後の審判」の様子です。これによると、死者は死んですぐに地獄(火の池)に投げ込まれるのではなく、裁きの時まで陰府にいると書かれているのです。(死者は海の中からも出てくるとありますが、陰府と同様に「生者がいるところよりも低いところから」という意味に解して、本稿では陰府と同義と考えておきます)

信じた者が天国に直行するからと言って、信じなかった者が地獄に直行するのではないようです。信じなかった者は地獄ではなく陰府に行き、終末の時に『玉座の前』に立たされ、自分の行いに応じて裁かれる、とヨハネは伝えているのです。
さて、裁きを受けるということは、そのときにそこで、天国行きか地獄行きかが決まるということです。つまり、信じなかった者が天国行きか地獄行きかが決まるのは、死んだときではなく最後の審判のときだということです。
でもその一方で、天国に入れるのは「信じる者」だけです。ということは、信じないで死んだ者は、陰府にいるあいだに「信じる者」になり、「命の書」に名前が書かれるかどうかで決まることになります。
旧約聖書のサムエル記にも[主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。](*6)と書かれています。陰府に行った者も、天国に引き上げられるのです。いえ、無条件で全員が天国に入れるわけではありませんから、正確には「引き上げられうる」というべきでしょう。

一方、裁きがあるということは、無条件で全員が天国に引き上げられるのではないということです。裁きの結果、地獄行きにもなりうるのです。
となると謎なのが、信じないで陰府に行った死者が、どうやったら「信じる者」になれるかです。陰府にも教会があるなどとは、聖書には書いてありません。そもそも陰府には、生きているうちに信じなかった者だけがいくのですから、陰府には牧師もいなさそうです。
しかしこの点は、私たち生きている人間が考える必要はないことなのです。その理由はこのページをすべて読んでいただけばご理解いただけるかと思います。

メモ:陰府【よみ】とは

陰府は地獄とイコールではありません。上に引用したヨハネ黙示録にあるとおり、死者は陰府に行きます。そして最後の審判のときに玉座の前でさばきを受け、その時「命の書」に名前がないとようやく(?)火の池=地獄に投げ込まれるのです。

旧約の時代には、神ヤハウェを信じる者も信じない者も陰府に行きました。たとえばキリストは陰府にいるアブラハムの様子について語っていますし(*4)、アブラハムの孫のヤコブも自分は陰府に行くと行っています(*5)。
しかし救われる道がキリストの十字架によって完成してからは、キリストを信じることによって死後に天に引き上げられるようになりましたので(*2)、陰府には信じなかった者だけが行くようになりました。

なお、この陰府というのは、カトリックでいう煉獄とは異なるものです。筆者はカトリックには不安ないですが、煉獄というのは「天国に入れるほど聖でもないが地獄に行くほど邪でもない者が、天国に入れるようになるまでいるところ」というもののようで(誤っている場合は御指摘ください)、そうしたことは筆者が読んだ限りでは聖書には書かれていないようです。

メモ:よくある疑問

「信じる者だけが救われる」に対して、信じるチャンスさえなかった人はどうなるのかというのはよくある疑問です。キリスト教が禁じられている国では、キリストという名前さえ聞かずに死ぬかもしれない。キリスト教伝来より昔の日本人はどうなるんだ?神ってのはそんなに不公平なのか、と。
聖書に多少のヒントはありますが、本稿の本題からそれて話が拡散するのでここでは扱いません。ともかく、キリストを知るチャンスさえなかった人は、キリストを信じていませんから、アブラハムやモーセなどのキリスト以前の時代の人同様に、陰府に行きます。そして陰府で「信じる者」になれば、最後の審判の時に天国に行くことになります。ここで鍵になるのは、人が地獄に入るよりも神の国に入ることをヤハウェは望んでいる(*8)ということです。

しかしそれ以前に、キリストは、一人一人に「他の人のことはいい。あなたはどうするのか。私を信じるのか信じないのか」と問いかけているのです。ペトロは殉教することになるとキリストが言ったとき、他の弟子はどうなるのかと問うたペトロですが、キリストは[あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。](*7)と答えました。
キリスト教禁止の国や昔の日本の、信じるチャンスもなく死んだ人のことを考えるのではなく、あなた自身がどうするかが、あなたの考えるべきことなのです。


キリストの福音は何のため?

罪によって創造者との関係を壊してしまった人間が、キリストを信じることによって、キリストの十字架での身代わりの死によって罪を清算され、創造者との関係を修復して「神の国(天国)」に入れる、というのがキリストの『福音』です。
「汝の隣人を愛せ」などは、福音にふさわしく生きるための『教え』であって、それも大事だけれどポイントは『福音』にあるのです。

さてそれでは、そもそもなんのために福音を信じるのでしょうか。

第1の理由

「死後に天国に行くため」というのは答えのひとつです。
聖書では天国とは「神の国」とも呼ばれ、神ヤハウェの直接的な主権の下にある世界です。人は罪のために創造者ヤハウェから離れてしまいましたが、キリストの福音を信じることによってヤハウェとの関係を回復し、神の国に入ることができるのです。
が、上に書いたように陰府に行ってからでも天国に行ける可能性があるというなら、なぜ生きているうちに福音を信じなければならないのでしょうか。

「死んでからでも天国に行きうる」というのはあくまでも「行きうる」でしかない。最後の審判までに「命の書」に名前が書かれて、さばきの時に「天国行き」と言ってもらえれば、という条件つきなのです。陰府に行った者がどのようにして救われるのかがわからない以上、陰府に行ってから天国に行く確率は100%ではない。
一方、生きているうちに信じれば、(信じたフリの場合を除いて)100%の確率で天国に行けます。これはキリストの確かな約束です。となれば、確実さのためには生きているうちに信じるに越したことはありません。

ですが、「死後に」神の国に入るためというのは、福音の唯一の目的ではないのです。

第2の理由

『福音は何のためにあるのか』の第二の理由は、あなたが死ぬ前にこの世の終わりが来るかもしれないということです。

人は死んでから天国に行くだけではありません。この世の終わりのときには大艱難と、クリスチャンに対する大迫害があると聖書は予告していますが、その時代を耐えぬいたものは生きたまま天国に引き上げられるのです。
世の終わりの時、陰府から玉座の前に出てきた死者を裁く者は、その時点で生きている者をも裁きます。ペトロの手紙一4:5に[彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。]と書かれています。「生きている者」とは終末の時に生きている者、「死んだ者」とは終末の時に陰府にいる者のことです。
「死んでから信じよう」と考えていた人にとって、自分が死ぬ前に最後の審判の日が来たら、判決言い渡しの日になってから弁護を始めようとするようなもの。手遅れすぎるのです。

その終末がいつなのかは、誰にもわかりません。自分がいつ死ぬかわからない以上に、終末がいつであるかわからないのです。つまり「あとでor死ぬ直前に信じよう」では遅すぎるのです。
ちなみに、キリスト教をパクった新宗教などで「聖書を解析したら、○○年○月に終末が来ることがわかった」「再臨したキリストであるわたしが言う。○○年○月にこの世が終わる」などと主張するものがありますが、聖書には明確に、その時がいつであるかは神キリストも天使たちも知らないと書いてあります。ただ神ヤハウェだけが知っていると(*9)。もしかしたらそれは100年後かもしれない。でももしかしたら明日、いや今日かもしれないのです。

第3の理由

以上二つの理由は、死んだあとにせよ生きているうちにせよ「天国」に行くためということですが、福音は天国に行くためだけのものではありません。『この世で生きているうちに神の国を味わうため』というのが、第三の、そして今この世で生きている人にとってはもっとも重要な理由です。

前掲のヨハネは「終末のあと」について見た啓示を、黙示録にこう書きとめています。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、…
(ヨハネ黙示録21:1~3)

これだけだと、新しい世界である神の国(天国)は、この世の終末のあとに来るかのようですが、しかしイエスはこう教えています。ファリサイ派という一派がイエスに論争を挑んで「神の国はいつ来るのか」と尋ねたときのイエスの答えです。

[神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。](ルカ福音書17:20-21)

キリストを信じた者は、死んだあとに神の国に入るだけでなく、この世にいるうちから神の国(天国)を生きているのです。これが、「信じる者」になるなら生きているうちのほうがよいという大きな理由です。キリストの福音は、生きているうちにこの世で、キリストを信じる人生を味わうためにあるのです。

これが味わえなくなってしまうのですよ、陰府に行ってからでは。

メモ:そっちのほうが難しい

「生きているうちに信じる方が」というと「だったら、死ぬ直前に信じることにするよ」という反論も聞こえてきそうです。
ですが、「死ぬ直前に信じる」というのはかなり難しいと思いませんか?少なくとも筆者には、そんなことできっこないと思えます。なぜかって?

第一に、その時になって「さあ信じよう」と思っても、それまで信じられないと思っていたものをどうやって信じるのですか?口先だけで「信じました」といっても、心を見る神には通用しないのです。
第二に、自分がいつ死ぬのかなんて誰にもわからないということです。仮に死刑囚が「あさって刑が執行されるから、あした信じることにしよう」と予定を立てたとします。そんな彼が急病で今日死んでしまったら?


神の国をこの世で味わうこと

実際に神の国に行った時と比べれば、この世で神の国を生きると言うのは、豪華なフルコースをほんのちょっと味見する程度のことかもしれません。でもそのフルコースがすばらしいものなら、その「ちょっとだけの味見」でさえ、ほかでは味わえないものになるでしょう。
「キリスト教はご利益宗教ではない」という人もいますが、信じた者にこの世で実現される約束が聖書にはたくさん明記されています。しかもその上、この世での人生の先には天国での永遠の命が確実に待っているのです。

年末になるとあちこちでベートーベンの交響曲第九番の演奏会がありますね。地上でキリストにある人生を味わうことをせずに、死ぬ直前に信じて「天国だけ味わおう」というのは、第九の演奏会に行くのに「聞きたいのは第4楽章だ。それに間に合うように行けばいい」というようなものだと筆者は考えます。

筆者はそれほどクラシック音楽に詳しいわけではありませんが、それでもベートーベンの第九を第1楽章から聞くと、段々と気分が盛り上がってきます。第3楽章の頃には「来るぞ来るぞ」と期待が高まり、そして第4楽章冒頭の激しいフレーズとそれに続く独唱で「キター!」ってなものです。
この世でキリストを信じるのも同じです。この世で神の国を味見しながら「来るぞ来るぞ」と盛り上がっていって、そしてやがて天国に招かれた時に「キターーー!」と歓喜することになるのです。
天国がすばらしいからといって、この世で神の国を生きることを放棄するというのは、第4楽章がすばらしいからといって第3楽章が終わってからコンサートホールに入るようなものだと思います。

「ベートーベンの第九」と言いながら第4楽章ナシなんて、アリエナイと思いませんか。「ドボルザークの第九」(新世界交響曲)なら、「家路」というタイトルで有名な第2楽章だけという演奏会もあるかもしれませんが、「ベートーベンの第九を聞きに行ったら第4楽章ナシだった」なんてありえません。それとは比較にならない確実さで、「天国での永遠の命」につながらない「この世でのキリストを信じる人生」なんて、ないのです。
私でなくてもクラシックファンなら、誰かが「第九を第4楽章から聞く」と言うのを聞いたら「せっかく第九を聞くなら、第1楽章から味わいなよ」と勧めるだろうと思います。同じように、誰かが「死ぬ直前に(あるいは死んでから)、天国に行くことを考えるよ」と言ったら、筆者は「せっかく天国に行くなら、生きているうちから味わいなよ」と言いたいのです(そのためにこのページを書きました)。
筆者も含めてクリスチャンたちが(時に笑われたり馬鹿にされたりしながらも)キリストを伝えずにはいられないのも、牧師たちが(もっと儲かる職業はいろいろあるのに)人生をかけて伝道するのも、宣教師たちが危険な未開の地や逮捕されるかもしれない異教国に飛び出して行くのも、「今、『あとで』でも『いつか』でもない今、陰府に行く前、終末が来る前である今、あなたにキリストを信じてほしいから」なのです。
(クリスチャン読者へ:以上のことから、「死んでからでも人は救われうる」ということは、地上で宣教することの意味をむなしくすることはないばかりか、逆に宣教の必要を再確認することになると思います。)

単純に損得で考えても、チケットの値段が変わらないなら、第1楽章の最初から聞けるように会場に行かないと損でしょう。
あなたが天国に行くためのチケットは、すでにイエス・キリストが確保してくれています。彼は「あなたの身代わりとしての、十字架での苦難と死」という代償を支払って、あなたの分のチケットを押さえてくれています。天国に行きたいなら、彼からチケットを受け取ればいいだけなのです。しかも彼からそのチケットを受け取るのは無料ときました。
「私は死ぬ直前に信じることにするよ」という人にいいます。いつかは信じると言うなら、先延ばしなんてもったいないことしないで、はやくコンサートホールに行きましょうよ、と。


最後に

なぜ聖書は明言していないのか

なぜ聖書は、信じなかった者が陰府に行くと言いながら、その先どうなるかについては沈黙しているのでしょうか。
たぶんそれは、聖書が「生きている者が読むための本」だからなのでしょう。「陰府に行った者が、陰府で信じて救われること」について書かれていないというのは、聖書は「生きている者が、生きているうちに信じて救われること」についての書だからであると思うのです。

セカンドチャンス論について

このページを読んでいわゆる「セカンドチャンス」を思い出された方もあるかと思います。
ご存知ないかたのためにごく簡単に説明すると、人が生きているうちにキリストを信じて救われるチャンスに対して、死後に陰府で救われる「第2のチャンス」があるというのが「セカンドチャンス」です。90年代の終わり頃でしたか、キリスト教雑誌「レムナント」で提起されて賛否両論が巻き起こり、その後に別のキリスト教雑誌「ハーザー」誌上でも論議が交わされました。
浅学ないち信者の感想としては、聖書に素直に取り組むならセカンドチャンス否定論には無理があるし、一方で肯定論は(筆者が浅学だからかもしれませんが)聖書に明確に書かれてはいないことについて扱いすぎているように感じました。

実は本稿は、セカンドチャンス論自体をテーマにしようと書き始めたのですが、結局「わからない部分はわからない」としか言いようがありませんでした。それよりも、陰府に行ってからのことを考えるほど、この世で生きているうちに信じることのすばらしさがわかってきたように思います。

再び、うちのばあさまのこと

生きているうちには「信じる者」にならなかったから、筆者の祖母は陰府に行ったのでしょう。天国で再会できるように、祖母が救われるように祈っていこうと思っています。[祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。](*10)というキリストの約束に期待しつつ。
それで祖母が、最後の審判ののち天国に引き上げられるとしても、祖母が生前にこの世で「神の国」を知ることがなかったのが残念なのです。

あの世代はみんな苦労したのでしょうけれど、大正生まれの祖母も関東大震災と大戦を生き延び、夫が戦死して女手ひとつで3人の子供たちを育てあげました。孫(筆者)に苦労話をすることはほとんどありませんでしたが、それでもたいへんな人生だったろうと思います。
[疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう](*11)と約束したキリストが与える平安を、天国に行ってからだけでなくこの世で生きているうちから、祖母に味わってほしかったと思います。

それ以前に自分がキリストから離れないようにしないとね。ばあさまは天国に引き上げられたのに、筆者の方が「お前は信じたフリをしていただけではないか」って天国に入れてもらえなかったりしたら(*12)、笑うに笑えないというか、泣くに泣けないというか。

このページについて

冒頭にも書いたとおり、このページはあくまでも筆者個人の、今の段階での、信仰と聖書理解です。どんな意味においても、キリスト教界や、筆者の所属する宗派や教会や、筆者がお世話になっている牧師の見解を、代弁したり代表したりするものではありません。
くどく繰り返すのは、もしかしたら一信者の分を超えるようなテーマに手を出してしまったかもという思いがあるためです。このページの内容についてご意見等ありましたら、お寄せいただければ幸いです。メールはこちらへ


*1 マルコ福音書16:16

*2 「御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネ福音書3:18)。ルカ福音書23:43も参照。

*3 ヨハネ黙示録1:1

*4 ルカ福音書16:19-31

*5 創世記37:35

*6 サムエル記一2:6

*7 ヨハネ福音書21:22

*8 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3:16)

*9 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。(マルコ福音書13:32)

*10 マルコ福音書11:24

*11 マタイ福音書11:28

*12 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタイ福音書7:21)

作成:2003年7月21日
更新:2007年5月20日

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