映画「インディ・ジョーンズ」と契約の箱

本誌のサムエル記のコーナー、サムエル記上巻の4章から6章では「主の契約の箱」というものを中心に物語が展開します。それで出エジプト記から登場したこの箱を、この機会に特集することにしました。

聖書で「主の契約の箱」「契約の箱」「神の箱」などと呼ばれているこの箱は、十戒がきざまれた石板などが収められ、おみこしのように祭司たちが運んでいたことが聖書からわかります。

が。

聖書にあまり縁がない方にとっては、映画「インディ・ジョーンズ 失われた聖櫃【アーク】」(*1)に出てきたアレですといったほうがわかりやすいかもしれません。
タイトルにも出てくるアーク、邦題で「聖櫃【せいひつ】」と訳されているものが、十戒の石板を納め、祭司たちがかついでいたものです。

映画ではこのアークにとんでもない威力があるとされ、これを手に入れて軍事利用しようとする独ナチスを相手に、米国陸軍情報部をスポンサーにつけたジョーンズ博士(ハリソン・フォード)が活躍するという展開でした。
映画を見た方には、クライマックスが印象に残っているかと思います。ナチスがアークの箱を開けると、幽霊のようなものが飛び出し、ジョーンズとヒロインを除く全員が雷撃のようなものに撃たれて燃え上がり、雲散霧消したのでした。

これは聖書をヒントに大幅に脚色されたものです。
米国などのキリスト教文化圏なら、聖書にどのようなことがどのように書かれているか承知で映画を見る人のほうが多いだろうと思います。日本の大河ドラマだって、あまりに時代考証を無視しては見る方もしらけてしまうでしょう。しっかりした考証の上に脚本家のオリジナルが織りこまれることで、見るほうも楽しめるのではないでしょうか(最初から荒唐無稽さを狙った作品は別として)。ですが、キリスト教徒が人口の1%にも満たないと言われる日本では、やはり「聖書では実はこう」と紹介する必要があるように感じます。映画での描かれ方をテキストとしつつ、聖書では「契約の箱」はどういうものとして書かれているかを紹介したいと思います。

アークの中身と行方

まずは物語の冒頭、DVDだとチャプター6。大学で考古学の教鞭をとるジョーンズ博士のところに、副学部長のブロディが、陸軍情報部を連れてきた場面。ナチスの極秘電文の内容を聞かされたジョーンズが、その電文の意味を情報部に解く場面の会話です。

(以下、ジョーンズ博士を「ジ」、ブロディ副学部長を「ブ」、陸軍情報部を「軍」と略します。なお、セリフは日本語吹き替え版に準じていますが、漢字表記は字幕版を参考にしている箇所があります。)

ジ「あいつら(ナチス)、タニスを見つけたんだ」

軍「なんですかそのタニスっていうのは?」

ジ「タニスの町には『失われた聖櫃(アーク)』があると言われています」

軍「失われたアーク?」

ジ「十戒を納めて運んだと言われている、契約の箱ですよ」

軍「十戒とは例のモーゼの十戒のことですか」

ジ「そうです、例の十戒です。モーゼが神の山から持ち帰って砕いた石盤ですよ。作り話だという人もいますがね。日曜学校へは行きましたか?」(日曜学校とは子供のための礼拝のこと。つまり「子供の頃、日曜日に教会に行っていましたか?」という意味の質問。)

軍「いや、わたしは…」

ジ「まあいいでしょう。イスラエル人たちはその破片をアークに収めてカナンに移り住み、アークをソロモンの神殿に安置しました。」

ブ「エルサレムです」

ジ「ところが後年になり、そのアークが突然姿を消したのです」

軍「どこへ?」

ジ「それを知っている者はいません。」

ブ「しかしエジプトのファラオが」

ジ「シシャクだ」

ブ「紀元前の980年頃にエルサレムを侵略した際にアークを発見してタニスに持ち帰り、秘密の部屋『霊魂【たましい】の井戸』に隠したという説もある」

軍「秘密の部屋?」

ブ「ところがファラオがエジプトに戻ってから1年後に、タニスの都はまる1年も続いた砂嵐のために砂漠の下に消滅してしまったんですな。神の怒りにふれたんでしょう。」

(中略)

軍「アークはどんなかたちなんだ?」

ジ「えーと。ここに絵がありますよ」

(ここでジョーンズが一冊の古びた本(おそらく旧約聖書)を開く。左ページは何かの言語と英語との対訳。右ページは全面が挿絵で、イスラエル人の群集をエジプト軍がとりかこんでいるが、群集の中央に立つ4人の人物がかつぐ箱から光が走り軍隊を撃っている絵。)

軍「おおげさだね」

ブ「まったく。周囲のイスラエル人がひれふしています。」

軍「あのぉ。箱から出ているのは何なんでしょうな」

ジ「稲妻か。焔【ほのお】か。神のエネルギーか。」

軍「ヒトラーが興味をいだくのもうなづけるな。」

ブ「そうです。聖書にも『アークは山をも崩し、全土を廃墟と化す』と記してある。もし軍隊がそのアークを持てば天下無敵だ」

契約の箱におさめられたものとは

さて。

まず、アークに「十戒の石盤」がおさめられた、というのは正しいです。ヘブライ人への手紙9章4には、契約の箱の中には[マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板]があったと書かれています。(*2)
もっとも、「モーゼが神の山から持ち帰って砕いた石盤」というのは間違いですが。アークに納められたのは、モーセが砕いた破片ではなく、そのあとにヤハウェから再交付された石板なのです。(*3)
石板に書かれていたのは十戒、つまりヤハウェとイスラエルの契約条項ですから、大事なのは媒体ではなく内容です。ところが媒体としては、再交付はヤハウェの言葉をモーセが書きとめたのに対し、初版は[神の指で記された石の板]であったと聖書に記録されています(*4)。おそらく映画では神秘性を演出するために、神自身が石に彫りつけた初版のほうの石板であるとしたのでしょう。
ところで、神は肉体を持ちませんので「指で」というのは比喩的表現です。映画「十戒」では、炎のようなものが石板の上を走ると文字が刻まれていたという描写がされていました。

(細かい話ですが、字幕版では「石盤」となっていますが、新共同訳聖書では旧約で「石の板」、新約で「石板」と表記されています。)

契約の箱のゆくえ

アークがカナンに持ち込まれソロモン神殿に安置された、というのは聖書のとおりです。そしてそれが後年、突然姿を消したこと、そのゆくえを知っている者がいないというのも事実です。

上記引用中に出てくるエジプトのシシャク、すなわちエジプト第22王朝の創始者シェションク1世がエルサレムに攻め込んだのは紀元前980年のこと。シシャクは[主の神殿と王宮の宝物を奪い取った。彼はすべてを奪い]ました(列王記二14章26)。しかしここで「契約の箱」も奪われたのなら、特記されないはずがないように思います。エジプト人の目に宝物と見える金銀などの財宝のみ奪われたのではないかとも思えます。

なお、エジプトのエルサレム侵攻から時代がくだった紀元前586年、今度はバビロンがエルサレムに侵攻し(*5)、その際に神殿からバビロンに運び去られた祭具のリストが列王記二25章13以下にあります。このときは青銅製のものまで含めて、細かいものから柱にいたるまで根こそぎ持っていっていますが、その中にはアークはありません。
可能性としては、「エジプトの略奪以前にイスラエルの誰かが隠したか、すでに失われていた」「映画のとおり、アークはエジプトに持ちされられた」「略奪するエジプトの目に貴重とは思われずアークは残されたが、バビロンが来る前に失われた」といったところでしょうが、エジプトに持っていかれた可能性はかなり低いのではと感じられます。

ちなみに、タニス説も含めて詳しく研究しているサイトもありますので、興味のある方はそちらもどうぞ。

もうひとつ、「アークが四国の剣山に隠されている」という説がテレビなどでもたびたび取り上げられますが、事実はわかりません。
剣山にはユダヤ教の痕跡としか思えないものが多くあり、おそらくユダヤ人が来たことは来たのだろうと思わせますが、アークがあるかはわかりません。
たぶんですが、剣山にはないだろうと思います。いえ、世界のどこにもないのではと思うのです。
エデンの園への道は神によって閉じられたことが創世記に書かれていますが、それと同じようにアークも神自身によって隠されたか(だとしたら決して見つかることはありません)、あるいは映画の中で石板が砂になってしまっていたように、実物も石板は風化し、木製のアークは朽ちてしまっているかもしれません。
聖書そのものでさえ、原本はまったく残っていません。もし原本があればそれ自体が偶像として神格化されかねないからという、神の配慮によるのではないか、という牧師もおられます。もしアークが残っていたりしたら、それをめぐってそれこそ映画のような争いになってもおかしくないかもしれません。

アークのパワー

話は飛んで、映画のクライマックス、DVDではチャプター29からの場面。ナチスはアークを手に入れヒロインも拘束し、孤島の秘密基地へ。そこへもぐりこんだジョーンズも捕まってしまいます。(*6)

さて、いかにも娯楽映画的な珍妙な儀式のあと、アークのふた(後述しますが、聖書で「あがないの座」と呼ばれるもの)がどけられると。そこにあったのは石板が風化した砂だけ。ところがふたが開けられたとたんに、それまで晴れ渡っていた空に暗雲がたちこめ、さらに箱から突然に幽霊のようなものが飛び出して宙を飛び交います。そして箱からの雷撃が周囲のナチスを撃ち、撃たれた者は燃え上がるように溶けてあとかたもなくなるのですが、ジョーンズとヒロインは、直前にジョーンズが「何があっても目を開けるな」と叫んだことによって難を逃れたのでした。

目を閉じていれば、アークの攻撃を受けないというのは、主人公を窮地から助けるための演出でしょう。でもこれは、聖書からヒントを得てはいると思います。イスラエル人がエジプトを脱出する際、神がおこした災厄がエジプト人を襲ったとき、神の事前の指示に従って家にこもっていたイスラエル人は害を受けませんでした。

それはそれとして、「契約の箱」にそのような攻撃力があったのでしょうか。

最初に引用したDVDチャプター6の会話でも、軍事兵器とも呼べそうな能力がアークに備わっていたことになっています。
しかし残念ながら、「稲妻か。焔【ほのお】か。神のエネルギーか。」が「契約の箱」から発射されるとか、契約の箱が「山をも崩し、全土を廃墟と化す」といったことは、筆者が読む限りでは聖書に書かれていません。これは映画のクライマックスのための伏線として創作されたものでしょう。(*7)
イスラエルがカナンを征服していくときに、超自然的ともいうべき現象があったことが聖書に記録されてはいますが、それらは神ヤハウェがおこした奇跡として記録されていて、アークは「今ここにヤハウェがともにいる」ということのあかし以上のことはしていないのです。

ただ聖書を読んでいると、アークに何の力もなかったとも言いにくい。
サムエル記4章以下を見ても、何らかの超自然的な力が箱にあったように見えます。それもかなり意図的といいますか、無差別に周囲に作用するわけではなく意思を持って選択的に力を及ぼしているとしか思えません。

以下はまったくの筆者の推測になりますが、契約の箱は「意思」と、その意思を実行する何らかの「力」を神から与えられていたのではないか、と私は考えています。
そう考える理由は、ヤハウェにはそれが可能であることと、可能であるなら箱自身の意思でそうしていると考えたほうが合理的(話が早い)だろうと思うからです。

そうはいっても、無生物である箱なのに?

無生物をも従わせる神の言葉

創世記に、神が言葉だけで天地万物を創造したことが記録されています。たとえば[天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。]と命じれば、その言葉に従って海と陸とが分かれました。地に向かって植物を生じさせよと命じれば、地はこれを聞いて従っています。

エゼキエル書にもおもしろい記録があります。人骨、それも「はなはだしく枯れていた」とまで書かれているおびただしい人骨が、神からの言葉によってくっつき、筋や肉が生じ、霊魂を持った人間になった様子が書かれています。全能の神にとっては、風化が進んだ骨を新しく生きた人間にすることも可能だ、と聖書は言っているわけです。

新約聖書も見てみましょう。イエスの弟子たちがイエスを、神の権威を持つ者つまりキリストとして扱かったとき、宗教家たちがイエスに[先生、お弟子たちを叱ってください]と言うのですが、このときイエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と答えています(*8)。全能の神にとってはそれも可能だ、というのが聖書なのです。
他にも、イエスがいちじくを一言で瞬時に枯れさせたり、嵐の湖に向かって「黙れ。静まれ」と命じると湖が従ったりという記録もあります。(*9)
キリスト教ではこのイエスが神であると信仰しているのですが(*10)、その神が命じるなら無生物でも意思をもって従ったのだと聖書は証言しているわけです。(さらにいえば、ほんのわずかでも信仰がある人なら「山に向かって移動しろと命じれば、そのとおりになる」とまでキリストは明言しています(*11)。)

日本でも、すぐれた名匠の手による作品には魂が宿るというような考え方があります。創造神にとって、「土のちり」から人間(アダム)を創造することも、石や湖などのモノに意思を与えることも、それほど違いはないでしょう。(*12) まして契約の箱は、ヤハウェみずから設計し、そのデザインもヤハウェみずから指名したデザイナーに神の霊と工芸に関する知恵、英知、知識を授けて作られたのです(*13)。モノにすぎないアークが「自分は神の臨在の象徴なんだ」という意識を持っていたとしても、そしてその象徴としての役割を守ろうとしたとしても、不思議ではないだろうと筆者には思えるのです。

(念のためですが、これがキリスト教の正当な解釈だというつもりはありません。筆者としては聖書から逸脱しているつもりはないのですけど、本誌サイトはあくまで「あるクリスチャンがこういうふうに聖書を読んでいます」というものです。)

アークの正体

さてここで、映画の場面を少し戻します。DVDのチャプター13、ジョーンズ博士がエジプトに乗り込んだあとの場面です。カイロの酒場か大衆食堂のようなところで、ジョーンズのライバルであるのベロックがジョーンズ博士に言ったセリフに注目したいのです。

べ「君はアークの正体を知っているのかね?あれは通信機だ。神と話し合える無線装置だよ」

ベロックのこの言葉、的をかすめたとは言えるとは思います。少なくとも、アークを「超軍事兵器」と考えるナチスやジョーンズ博士よりも、神と話し合うための媒介であるというベロックのほうが、聖書が伝えるアークの姿に近いのです。
(もっともジョーンズ博士はアークをただ「お宝」として追っかけているのであって、それが武器か通信機かはどうでもいいようですけど。)

アークのふたは聖書では「あがないの座」と呼ばれています。ふたというと「契約の箱」のパーツのようですがそうではなく、「あがないの座」というものが作られ、それがアークの上に置かれてふたとされたのです。
この「あがないの座」の上に二体のケルビム(*14)という生き物が形作られました。アークを作る際のヤハウェの指示に[一対のケルビムは顔をあがないの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれをおおう]とあります。さらにヤハウェはモーセに[わたしはおきての箱の上の一対のケルビムの間、すなわちあがないの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。]と言っているのです。(*15)

あがないの座、つまり契約の箱ごしに、神であるヤハウェがモーセとその背後にいるイスラエルに語る。ベロックが「アークとは、神と話し合える装置だ」と理解したのも、うなずけるところがあります。

ただ、じゃあベロックがアークを手に入れて、神と話し合えるようになって、どうしたかったのか、というのは映画では描かれていません。
確かにモーセは、アークがある場所でヤハウェと、いわば対等に語り合っています。しかしこの対等性は、モーセが神の偉大さにまで高められたということではなく、神が人間の矮小さにまで降りてきたに過ぎないのです。もしベロックが、ランプから呼び出した精霊に命令を聞かせるかのように考え、神と話ができさえすればすべてが可能になるとでも思っていたのなら、それは非常な勘違いというべきでしょう。

おわりに

最後は荒唐無稽な話に思われたでしょうか?以上はあくまでも、聖書に書かれていることを説明するとしたら、筆者ならこう説明する、というものです。
実はクリスチャンというのは相当に幅の広いものです。「神キリストであるイエスによって自分の罪がゆるされた」ということを受け入れたのがクリスチャンであって、それ以外のところでは、聖書に書かれている奇跡を事実として信じるクリスチャンもいれば、イエスによる罪のゆるしは信じるけれど奇跡は信じないというクリスチャンもいます。たとえば創世記にある天地創造の記事も、そのまま信じるクリスチャンもいますし、聖書は教えの書であって事実としては進化論のほうが正しいと考えるクリスチャンもいます。天地創造の記事をこう解釈すれば科学で説明できると考えるクリスチャンもいるし、そもそも天地創造の部分は気にしてないというクリスチャンもいます。
当サイトは「聖書にどんなことが書いてあるか」を紹介することを目的としていますので、できるだけ「書かれていることは書かれているままに」と心がけています。読者のみなさんがご自身で聖書を読んでみてどう書かれているかを確かめ、ご自分ならどう解釈しようかと考えてくだされば幸いです。

ところで、上記でアークも十戒もなくなってしまったとしましたが、これは教義上なにか問題はないのでしょうか。
国家間の条約はその言葉に効力があるのであって、元首がサインした紙を無くしてしまったとしても条約は無効にはならないでしょう。十戒の石板がなくなったとしても、そこに書かれていた言葉は現代に伝わり、しかも日本語を始め数千の言語に翻訳されて世界の隅々に届けられつつあるのです。イエス自身も[すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。]つまり世の終わりまで聖書のどの言葉も無効にならないと宣言しています。(*16)
アークについても、神の臨在のしるし、つまり「神がそこにいることのしるし」としての役割は、今はアークを必要としていません。イエスみずから、クリスチャンが集まるところには私もそこにいると、しかも世界の終わりまでともにいると宣言しているからです(*17)。ということで、キリスト教徒にとっては「キリストを信仰している自分自身が、神がいることのしるし」となるのです。


*1 あらためて紹介するまでもないかもしれませんが。監督スティーブン・スピルバーグ、製作総指揮ジョージ・ルーカス、音楽ジョン・ウィリアムスという黄金トリオが、ハリソン・フォードを主演に製作した映画。1981年公開。もとは「レイダース」というタイトルでしたが、のちに「インディ・ジョーンズ」シリーズの第一作とされ、ビデオ化に際して「Indiana Jones and the Raiders of the Lost Ark」に改題されました。

*2 新約聖書(ギリシャ語)で「マンナ」というのは、旧約聖書(ヘブライ語)では「マナ」で、イスラエルが40年も荒野を彷徨したときに神ヤハウェがイスラエルに与えた食物のこと。
「芽を出したアロンの杖」というのは、ユダ族のアロンの杖が一夜のうちに[芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた]という奇跡をヤハウェがおこして、祭司職をレビ族に与えたことを示したもの。民数記17章23周辺。
なお、歴代誌二5章10には[箱の中には石の板二枚のほか何もなかった]と記録されています。これはソロモン王の時代ということになりますが、マンナのつぼとアロンの杖がいつどこへ消えたかも記録はありません。

*3 最初の石板の破片がどうなったかは、聖書には記録がありません。ユダヤの文献や伝承に何かあるかもしれませんが、そこまでは調べていません。
破片になったとはいえ神みずから記した石板をどこかに捨てて行くことができただろうか、という気もします。しかし、最初の石板は砕かれただけでなく、そこに書かれた契約条項もイスラエルの背反のゆえに破棄されたのです。情よりも筋を重んじるタイプのモーセは、最初の石板の破片はもはやただのガレキとして、あえて打ち捨てて行ったのではと思います。

*4 出エジプト記31章18

*5 イスラエルが南北に分裂したあとの南ユダ王国に、紀元前597年にバビロンが攻め込みエルサレムを征服。のちにゼデキヤがバビロンによってユダ王とされましたが(列王記二24章17)、彼がバビロンに反抗した結果エルサレムはバビロンに破壊され、神殿の祭具も奪われました。

*6 ナチスがジョーンズがつかまえたあと、アークの箱を開ける場面。ナチスドイツとしては不承不承ながら「ユダヤ人の儀式」を行なう、その神官役の服装がおもしろいです。その胸に12個の石が3列4段にはめ込まれているのですが、これは聖書にある大祭司の服装で、出エジプト記28章15~21に詳細が記されている「胸当て」です。12個の石はイスラエルの12部族を表すもの。こういうところも、聖書を知っているとちょっと楽しめたりします。

*7 それにしてもこれだけとんでもない設定を「聖書にも記してある」と言い切ったのはなぜなのでしょうか。
もしかするとですが、聖書以外の何かに、そうしたストーリーが書かれているのかもしれません。山本七平は著書「禁忌の聖書学」の冒頭で、古代ローマ人にとっては(旧約)聖書よりも(ユダヤ人歴史家が書いた)「ユダヤ古代史」のほうが読まれていた可能性を指摘し、私たちが今目にする聖書だけが「聖書の原典」ではないということも考えられるとしています。

*8 ルカ福音書19章40。やや余談ですが、イエスの言葉には「石が自分の意思で賛美の叫びを上げたりしたら、どうやって黙らせるつもりなんだ?そんなことになったら困るのはあなたたちではないか?」というユーモアが感じられると思います。

*9 湖の話はマルコ福音4章36~41。イチジクの話はマタイ福音書22章19。ただしマルコ11章では、いちじくが枯れていることが発見されたのは翌朝だったと記録されています。

*10 新約聖書でイエスが「父」と呼んでいる存在が旧約聖書で「主」「神」と呼ばれている存在であることは確かです。そして神は唯一であるということも聖書に繰り返されています。しかしイエス自身、弟子たちから神あるいは主として礼拝されることをしりぞけていません(使徒たちや天使も、人々から礼拝されそうになって「自分は神ではない」としりぞけています。)。また、イエスは神を「父」と呼ぶ一方で自分を「子」と呼んでいますが、人間の子が人間であるのと同じように、神の子は神です。こうしたことからキリスト教では、イエスを神であると信仰し、またイエスの代わりに世に来た「聖霊」という存在もまた神であると信仰しているのです(神でないものに神の代わりはできないため)。この「唯一である神は、父、子、聖霊である」という理解が、三位一体というキリスト教用語で表されているものです。

*11 マタイ福音書17章20

*12 ただし神は、人間(アダム)を創造したときだけは、この作品に「命の息」を吹き込むという作業を行なっています。この「息」は「霊」と同じ言葉で、これによって人間が人格的存在になったと解釈されています。

*13 出エジプト記25章9~22、同書31章1~11。

*14 ケルビム、単数形ではケルブと呼ばれるこの存在について、詳しいことはわかりません。翼を持つ姿が描写されていることからよく天使と混同されるようですが、ミカエルやガブリエルなど聖書に出てくる天使は実は翼を持っていたとは書かれていないのです。天使もケルビムも神に仕える存在として聖書に書かれているのは同じですが、翼があるのがケルビム、翼がない(少なくともあるとは言われていない)のが天使、ということのようです。

*15 出エジプト記25章17~22

*16 マタイ福音書5章18

*17 マタイ福音書18章20[二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。]、同書28章20[わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。]

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作成:2010年8月8日

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