宗派によって聖書は変わるのか

布忠さんはプロテスタントだというお話をホームぺージで目にした記憶があるのですが、宗派の違いによって「聖書」の記述が大幅に変わってくるということはあるのかを今回は伺います。
(中略)
やはり原文から日本語へ翻訳するという時点で、古今東西すべての書物は、誤訳や誤謬を含んでしまう恐れがあり、しいては原文の良さを損なってしまう場合もあると僕は思うのですが、やはりこういうことは多少気にした方がいいのでしょうか?

(以下は、上記の質問を下さった方への返信を加筆訂正したものです)

結論から言いますと、翻訳によって、原文の言わんとするところがわかりにくくなるということは避けられないと思います。
ではどうしたらいいかというと、ヘブライ語やギリシャ語で原文を読むことができればよいのですが、それが難しい場合には「いろいろな訳を読み比べる」というのがよいと思います。
(「原文」といっても聖書の原本は発見されていませんので、ここでは翻訳の底本となった写本を指すとお考えください。)

大きく分けてもカトリックやプロテスタント、さらに東方教会系(ギリシャ正教、ロシア正教など)など、キリスト教には多くの宗派があります。ただ、仏教の宗派がまるで別の宗教のようにわかれているのに比べると、キリスト教の場合は宗教としては一つであるまま、宗教のどこを強調するかで教義がわかれているのです。
たとえば仏教の場合は宗派によって重視する聖典(お経)自体が変わってしまうのに対し、キリスト教の場合は聖典はあくまでも聖書です。それが教義によって訳の表現が変わってくるだけといえます。
(仏教について素人な者の言うことであることをあらかじめ御承知ねがいます)

これは、どの宗派の教義が正しいとか間違っているということをただちに意味するものではありません。むしろ「限界のある人間」が「全能である神の言葉」を理解しようとするというときに、神がそれぞれの宗派にそれぞれの理解を与えているということではないか、と思うのです。各宗派が手分けして聖書に取り組んでいるイメージですね。

とはいえ、表現が変わると、読む側の受け取り方も変わってしまいます。ですので、いろいろな宗派の訳を読み比べるのがよいだろうと私は考えるわけです。

たとえば、プロテスタントの私がフランシスコ会訳の新約聖書を読んだときのことですが、欄外注は(プロテスタントの私には)「その解釈はちょっとどうかなぁ」と感じることがたびたびあったものの、本文の訳そのものは「ここはそういう訳もできるんだ」という驚きこそあっても違和感はありませんでした。その驚きはむしろ勉強になったと思います。

確かに和訳であれ英訳であれ、原文から翻訳するという時点で原文の良さを損なってしまう場合はあります。古今東西すべての書物は、翻訳にあたって、誤訳や誤謬を含んでしまう恐れがあるでしょう。ただ、クリスチャンである私の考え方としては、聖書に関しては、誤訳や誤謬は驚くほど少ないはずと思っています。翻訳する人の信仰や解釈による表現の違いはあっても、どの訳も信頼に耐えられると思うのです。
聖書はいわば、その宗派のその時点での聖書解釈の集大成です。いろいろな宗派の聖書を比べて読むというのはつまり、それらの宗派の成果からさらに自分なりの成果を出す試みということになります。

(聖書の翻訳にあたって、誤訳や誤謬が驚くほど少ないだろうのは、次の理由によります。
聖書自身が「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、」と証言しています(テモテへの手紙ニの3章16)。聖書が聖書であるならば、つまり聖書に書かれていることは神が人間に知らせたいと思ったことであるならば、聖書の言葉を翻訳するにあたっても「聖書はすべて神の霊の導きの下に訳され」ているだろうと思うのです。
実際、聖書の翻訳にあたる委員たちは、全員がまったく同じ解釈や同じ神学を持つわけではない人たちが集まって、祈りを通して神意を尋ねながら翻訳にあたっています。
ただしこれらは、礼拝で使われるために委員会制によって翻訳された聖書の場合で、それとは違って聖書を単なる古典として出版する目的で研究者によって翻訳された場合は、事情が違ってくるかもしれません。)

翻訳という行為がそもそも原文の良さを損なうのではという点についてですが、「聖書は『原典において』誤りのない神の言葉である」という考え方があります。ですがそのためには、旧約ならヘブライ語、新約ならギリシャ語がわからないとなりません。
ところが実は、ヘブライ語やギリシャ語ができればよいかというと、そうとも言えないと私は思うのです。

なぜかというと、新約聖書は最古の写本もギリシャ語ですが、イエスや弟子たちはギリシャ語ではなくヘブライ語(アラム語という説もあります)を使っていたからです。
つまり福音書にギリシャ語で記録されているイエスや弟子たちの言葉自体が、すでにヘブライ語から翻訳されたものだということです。

たとえばマタイ6章22に「目が澄んでいれば」というイエスの言葉がありますが、ヘブライ語では「目が明るい」は「気前がよい」という意味の慣用表現なのだそうです。次の節で「目が濁っている」と訳されている部分も、ヘブライ語では「目が暗い」は「ケチ」というニュアンスの慣用表現です。となると、前後のイエスの言葉ときれいにつながって、「富に執着するな」ということをイエスは言っているのだとわかるわけです。
しかし、イエスの言葉をギリシャ語で書きとめる時に「気前がよければ」と書かずに「目が明るければ」と直訳してしまったために、現代の翻訳者も「何か深遠な意味があるのだろう」と思って「目が澄んでいる」としてしまうのでしょう。
日本語訳には表れませんが、多くの英訳では、原文に則して「your eye」と単数形で、つまり「片目が澄んでいれば」となっているはずです。最近の訳では「your eyes」としているものもあるようですが、ギリシャ語底本では単数形になっているものを「意味がとれないから」というので訳し変えているように感じます。
このように「原文にあたればそれですべてがわかる」ということではないわけです。

ですが、いろいろな訳を比較するというのは、他に方法がないからという消極的な理由だけではありません。
前述の通り、礼拝で使われることを前提に委員会制によって翻訳された聖書には、各宗派に啓示された神の意図が表されているのだと私は思います。たとえばある箇所を宗派Aの専門家たちはこういうふうに訳したけれど、宗派Bの聖書によればこういう解釈もできるわけか、と読んでいくのも方法だろうと思うわけです。

また、異なる言語の聖書を読み比べるのもおもしろい方法だと思います。私などは英語が本当に苦手で、拒否反応がでると言ってもいいくらいなのですが、それでも日本語訳でわからないところを英語訳で納得したということもあります。
たとえば民数記20章10節で、モーセが岩を打って水を出す場面です(これは読者からのメールで教えていただいたことですが)。ここでの発言のためにモーセは「約束の地」に入れなくなってしまう重要なセリフですが、新共同訳では「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」となっていて、誰が水を出すのか主語が省略されています。新共同訳だけ読んだ日本人読者は「奇跡で水を出すというのだから主語は神だろう」と無意識に解釈してしまうかもしれません。
ところがTEV(Today's English Version)では"Listen, you rebels! Do we have to get water out of this rock for you?"となっています。we つまり、モーセとアロンが水を出すかのように言ってしまっている、つまり自分を神とする発言になっているのです。それだからモーセもアロンも「約束の地に入ることをゆるされない」という結果を招いてしまったのです。
この箇所については実は他の日本語訳では「私たちが」と入っているものもあるのですが、一般論としても日本語は、主語があいまいになりやすいことや、単数複数があいまいまいになりやすいことなどから、そうしたことが明確になる言語と読み比べるのがよいだろうということです。

作成:2007年3月8日
更新:2013年4月29日

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