なぜキリスト教を信じられるのか

あなたは1度でもキリストにあったり、また声をきいたことがありますか?
またキリストにあったことがあるという人に会ったことがありますか?
恐らく、キリストに会った事があるという人は少ないと思います。
それならば、なぜそのような実態の無い不確かなものを信じられるのでしょうか?
キリスト教が正しかったかどうかはあなたが死ぬまで分からないですよね。
もし嘘だったらどうしますか?キリスト教に費やした時間もお金も全て無駄ですよね。
なぜあなたはキリスト教を信じるのですか?

(以下は、上記の質問を下さった方への返信を加筆訂正したものです)

私はキリストに会ったことはありませんが、キリストに会った人たちの証言を信じられるので、それが私に対して十分に根拠となります。

ところで、「実態の無い不確かなもの」を信じるというのは、私たちには普通のことで、逆にこれがないと社会は成り立たなくなると思います。
たとえば裁判官は常に、自分が会ったことのない人についての、自分が体験したことではない事件について判断しています。被告人は判決に対して「裁判官は目撃者でもないくせに」とは言えません。
もっと身近なところでいうと、紙幣などは実態あるいは実体としてはただの紙っぺらです。給与振込みの会社員にとっては紙幣さえなく、これこれの金額を振り込んだというデータが全てです。でも、会社員が会社に対して「給与は実態のあるGoldで」と言う必要はないでしょう。仮に言ったとしても、Goldは「Goldにはこれだけの価値がある」とする人がいるから価値があるので、実態としてはただの鉱物。もし実態がなければ不確かということであれば、物々交換しかなくなりそうです。
私たちの生活の多くの面が「実体の無い不確かなものを信じる」ことで成り立っていると言えないでしょうか。

だったらどんな宗教でもいいかというとそうではなくて、何かを信心している人は「私にとって確信するに足るものはこれだ」と思って信心しているはずです。私の場合はそれがキリストの言葉ということです。

「もしキリスト教が嘘だったら」というのは、私自身も今までに何度も考えたことです。たしかパスカルだったと思いますが、「信仰とは賭けである」というようなことを書いています(記憶があいまいです。WEBで検索してみましたが、出典が見つかりません。勘違いかもしれません。)

考えた結果、「もし嘘だったとして、それがどうした?」と思うようになりました。というのは、キリスト教が正しくないとすると論理的には次のどれかになるからです。

(a)死んでおしまい。そのあとには何もない。
(b)死んでおしまいではないが、どの宗教を信じても無神論でも、行く先は天国的なところ。
(c)他の宗教でないと、天国的なところに行けず、死んだら何もない。
(d)他の宗教でないと、行く先は地獄的なところ。
(e)何かを信心しても無神論でも、行く先は地獄的なところ。

(a)(c)だとすると、死んだあとで「キリストに費やした時間もお金も無駄になった」と残念がることさえありません。ですから何の問題もないわけです。

(b)だとすると、結果オーライです。キリスト教徒も他の宗教も無心論者も「みんなよかったね」です。

「時間やお金を費やさなくても天国に来れたのなら、費やした分が無駄では」と思われるかもしれませんが、私の場合、時間やお金を「キリストに費やしている」という感覚がありません。
たとえばホームページでやっていることも「信者としてできるかぎりのことを『しなければならない』から、時間とお金を費やして」と思ってやっているのではなく、好きでやっているのです。

私の知り合いに、サッカーの魅力を人に話したくて仕方ないという勢いの人がいます。お金と時間を費やしてずいぶん観戦にも行っているようです。
彼の動機は「サッカーファンとしてそうするべき」ということでしょうか。たずねてみたことはありませんが、きっとそうではないでしょう。ただ「そうしないではいられないから」と答えるに違いないと思います。
私とキリストの関係は、彼とサッカーの関係にとても似ていると思います。

(d)(e)だと後悔することになるでしょうか。

浄土真宗を開いた親鸞聖人は、他力救済(自力で修行して悟るのではなく、念仏で阿弥陀様の名を呼ぶことで、阿弥陀様の本願という他力に救っていただくというアプローチ)を、浄土宗を開いた法然上人から学びました。この親鸞聖人が次のように語ったと、親鸞の弟子が書いています。

「法然上人にだまされて、念仏をとなえたあげくに地獄に落ちたとしても、悔やみはしない。もし、他の修行に励んで悟りを開くはずだったのに、だまされて念仏の道に行ったせいで地獄に落ちたなら、残念と思うかもしれない。でも自分はもともと、自力で修行して悟りにいたるなんて力はない。修行がだめな私が仮に念仏でもだめだったとして、後悔などしようがない」
(歎異抄の第二条を、解釈をまじえて意訳しました。)

キリストの言葉に対する私の思いもまったく同様です。私が、他の宗教でどうにかなるものだったというならともかく、と。
もともと救われるにあたいしない自分が、キリストさんならなんとかしてくれるらしい、いや、なんとかしてくれる。それがキリストを信じる理由です。

もしこれがキリストでダメだったら。ほかの宗教でもっとがんばらなきゃダメ、つまり(d)だったとしたら、しょせんがんばれない自分はどうしようもない。
どんな宗教でも結局はダメだったとしたら、つまり(e)だったとしたら、結局はどうしようもない。

ただ「キリストでダメだったら」というのは説明のためのたとえのようなもので、実際にはそうしたあきらめ半分の消去法ではなく、キリストに対して確信があります。「キリストなら絶対だいじょうぶ」という確信を持っているので、あとは自分がキリストを信じきれるかどうかだけだと思っています。

作成:2009年10月14日

布忠.com