クリスチャンは奇跡を本当に信じているか

クリスチャンは聖書に書いてある奇跡を本当に信じているのですか、という質問をいただきました。

筆者は、聖書に記録されている奇跡を全部、事実として信じています。それで筆者のサイトやメールマガジンでは、ただ「聖書に書いてある」ではなく「聖書に記録されている」と書いています。
ただ、クリスチャンといっても様々で、クリスチャンだけど奇跡は信じないという人もいます。クリスチャンというのは「キリスト側の人」というくらいの意味で、つまり「イエスを自分の救い主であると信じる人」を指します。
それ以外のところはさまざまで、「奇跡を信じるかどうか」も、キリストへの信仰があるかどうかの基準にはならないのです。信仰を持った結果として、奇跡も信じるようになる人もいるし、キリストは信じるけど奇跡は信じられないという人もいるし、大切なのは自分とキリストの関係だから奇跡のことはあまり気にしていないという人もいます。
キリストを受け入れないと奇跡も受け入れられない、とは言えるかもしれません。奇跡について読んでも聞いても信じられないし、もし自分の目で奇跡を見る機会があったとしても「どうせトリックさ」としか思えなかったり、自分の目や正気を疑ってしまうかも。聖書にも「奇跡を見せたら信じてやる」とキリストに言う人々が何人も登場しますが、そのような人々にはキリストは何も見せませんでした。

話を進める前に、そもそも「信じる」という言葉はとても広い使われ方をしますね。
たとえば「UFO(未確認飛行物体)を信じる/信じない」という言い方がありますが、UFOというものは信じるか信じないかというものではありません。たとえばごみ袋が風で飛ばされていたとして、それがごみ袋だと確認されるまではそれはUFO(未確認飛行物体)だし、確認された時点でFO(という言葉があるかは知りませんが、未確認という意味のUが取れる)です。「UFOを信じるか」というなら、信じるか信じないかの問題ではなく空を飛んでるものはすべて(正体が確認されるまでは)UFOです。
たぶん「UFOを信じるか」と問う人は「UFOと呼ばれるものが宇宙人の乗り物であることを信じるか」と言いたい場合がほとんどでしょう。ここで面白いと思うのは、それが実際に「宇宙人の乗り物」なら、全地球人が信じなくても宇宙人だし、違うとしたら全地球人が信じても違います。つまり「信じるか信じないか」は、対象が事実であるかどうかとは関係ない心情を表わす言葉なんですね。

言い方を変えると、信じるとは「事実かどうかわからないことを、とにかくどちらか一方であると判断してしまうこと」とも言えます。事実がわかってしまえば「信じるか信じないか」ではなく「知っているかまだ知らないか」ですから。
たとえば日本人の多くは進化論を信じていると思いますが、進化論は一つの説でしかありません。「こうだったと考えると、この世界のことを説明しやすい」というものではありますが、しかしそのためには多くのことを例外としなければなりません。それで進化論を信じる学者たちは、例外なく説明できる(あるいは例外をできるだけ減らす)ためにも、進化論を進化させ続けなければならないのです。
もしかして進化論がこのまま進化していけば、将来的にはすべてを説明できるようになり、さらにそれを立証もできる時代がくるのかもしれません。でも21世紀初頭の現時点では進化論は「信じるかどうか」というものです。(個人的には、他の分野の学問で進展があるほど、進化論というのは信じるのが難しくなるように思いますが。高校講座や放送大学を見ていると、生物や人体の知識が増えるほど「進化の過程で偶然に獲得されてきたにしては、精密にできすぎだろ」と思うことが増えてしまいます。)

さて、「信じる」というのはそういう言葉だと整理したところで、聖書の奇跡を「信じるかどうか」ですが。
筆者といういちクリスチャンにとっては、聖書を信じることは、進化論を信じるよりもはるかにハードルが低いことです。

たとえば、キリストが死人を生き返らせたという奇跡があります。でも私は思うんですけど、神が無から世界を創造し、土から人を創造したなら、死んだ者を生き返らせるのはそんなに難しいでしょうか。
人間を創造し、命を創造する者には、死んだ者を生き返らせるくらいのことは造作ないだろうと思うのです。

マリアの処女懐胎も同様です。何しろ「ただの土」からアダムを創造した神に、「生きている女」の胎に人をつくれないとは思えません。創造者の介入によって、老女や不妊症がおめでたになったケース(聖書に幾例もあります)も同様です。

キリストが水をワインに変えたという奇跡もありますが、そもそも一粒の種が芽を出し、木になり、花が咲き、実がなるというプロセスこそ奇跡ではないでしょうか。
一粒の種が、水と温度と肥料と日光と二酸化炭素などによってあれほど形状を変化させ、受粉によって新しい実をつくる。しかもその実が、発酵によってワインへと変化する。その仕組みを創造したのが神だとしたら、そんな神にとって水をワインに変化させるのがそんなに難しいことでしょうか。

キリスト弟子のペトロが湖の上を歩いたという奇跡もあります。人間を創造して足を与え、水も湖も創造し、浮力という原理を制定したのが神であるなら、水の上を歩くという奇跡は不可能でしょうか。
世界が神によって創造されたというのは、世界の中のすべての物理法則を制定したのも神だという意味です。ケプラーが惑星の運行に関する「ケプラーの法則」を発見したとき、宇宙の運行のあまりの美しさに、ひざまづいて神を賛美した、という逸話がありますが、筆者には共感できるところです。
物理法則を制定した神には、ある場面でその法則を超えて奇跡を行うことも可能だろう、というのが筆者の考えです。奇跡と呼ばれる現象そのものがどんなに不思議だったとしても、神にはその奇跡を起こす力が、というか権限があるのだと思うのです。

だから、聖書を丸ごと信じるか否かの二択だと思うのです。「聖書の神が世界とその中の万物の創造者であり全能者であるなら、奇跡を起こすこともできるだろう」と思うのです。聖書の奇跡を信じることができる筆者の感覚では、「神が世界を造ったかもしれない、でも神は奇跡をおこなうことはできないだろう」というのはどこか矛盾している気がします。

話は以上なのですが。
このページで進化論について少し触れましたが、キリスト教を扱う当サイトのような場で進化論を否定すると「じゃあ天地創造かよ、そっちのほうが荒唐無稽だろ」みたいにいう人がいるのが困っています。「進化論が正しいという証拠は、聖書が非科学的であるという点にある」みたいな支持のされ方では、進化論の学者たちも迷惑だろうと思うのですけど。筆者もこのページを含めて、進化論に対する疑問を書くときは聖書を論拠にしないで書くようにしています。
それは、筆者が聖書の天地創造を信じているということと、筆者が進化論に懐疑的であるということは、話題が別だからです。たとえばですが、今このページを見てくださってるあなたの目の前には、パソコンやスマホなどがあると思います。それを完全に分解してひとつの袋にいれたとしてください。本当は原子レベルまで分解したと仮定したのですが、とりあえず部品と呼べる最小単位でいいです。さて、その袋をガチャガチャ振り回して、偶然にスマホが出来あがる可能性はどれくらいだと思いますか?どれだけガチャガチャやっても、それぞれの部品も袋も損耗しないとしたら、無限に時間をかければいつかはできると思えますか?それとも「どれだけ時間をかけても無理じゃないかな」と思いますか?
では、今のこの宇宙のありようが偶然にできあがり、その中で地球のような(おそらくかなり希少な)環境が偶然にでき、そこに偶然に生命が発生し、偶然の積み重ねで現在のような生態系となってその中で現在の人類が偶然に発生し、他の誰とも違うあなたという個人が偶然に誕生し今この時代に生きている可能性はどれくらいだと思いますか?無限に近い時間をかければいつかはと思いますか。
この話、スマホにかなり有利にしてあります。宇宙全体どころか、人類の体ひとつとってもスマホよりはるかに精密ですし、その上スマホのほうは部品が過不足なくそろっている前提ですが、世界のほうはビッグバンからほんの少し(たった数十万年)すぎた頃でも原子としては水素とヘリウムしかなかったそうです。もしあなたが「スマホが偶然にできあがるとは思えないが、宇宙とその中のすべては偶然に今のようになるだろう」と思ったとしたら、矛盾に気付いてほしいと思います。
筆者には、意図を持つ何者も介在しないで今のこの世界ができたというなら、そのほうが奇跡だと思ってしまいます(「実験でこれこれのことがわかった」というニュースもありますが、実験ということはつまり誰かが意図を持ってやったことです)。その何者かを、筆者は「聖書の神だ」と信じているだけです。「偉大なる意思だ」と信じる人もいますし、「宇宙の意思だ」と信じる人、「空飛ぶスパゲティモンスターだ」という人、地球上の人類や生命に限れば「異星人だ」と信じる人もいる、ということでしょう。

(メルマガ1998年9月7日増刊号および同14日増刊号に掲載したものを加筆再編集)

作成:1998年9月14日
更新:2013年4月29日

布忠.com