質問:クリスチャンは聖書に書いてある奇跡を本当に信じているのですか?


筆者は、聖書に記録されている奇跡を全部、事実として信じています。それで筆者のサイトやメールマガジンでは、ただ「聖書に書いてある」ではなく「聖書に記録されている」と書いています。

そもそも奇跡は信じるものではなく、事実であると受け入れるかどうか、だと思うのです。
日常使う「信じる」は、「信用していいかどうか判断がつかないこと、保証のないことなどを、とにかく一方に判断してしまうこと」という意味合いが強いように思います。商売相手を「信じる」とか、彼氏彼女を「信じる」、という場合ですね。でも奇跡を「信じる」、聖書を「信じる」、キリストを「信じる」というのは、確かな事実として認めるものなのです。
「とにかく信じる」だと、途中で信じられなくなったりすることもあるかもしれません。でも事実を事実として受け入れた「信じる」は、事実のほうが変化しない限りゆらぐことのない「確信」なのです。

ただ、奇跡を信じることがクリスチャンの条件ではありません。クリスチャンになった結果、奇跡を信じられるようにもなる、ということです。それを前提に、筆者の場合はどのように信じているかをお答えします。


たとえば、キリストが死人を生き返らせたという奇跡があります。科学的常識では、そんなこと信じられないかもしれません。
でも私は思うんですけど、創造者がまったくの無からすべてを創造したり、土から人を創造したりしたなら、死んだ者を生き返らせるってことがそんなに難しいでしょうか。
人間を創造し、命を創造する者には、死んだ者を生き返らせるくらいのことは造作ないだろうと思うのです。

となれば、マリアの処女懐胎も同様です。何しろ「ただの土」からアダムをつくった創造者ですから、「生きている女」の胎に人をつくれないとは思えません。創造者の介入によって、老女や不妊症がおめでたになったケース(聖書に幾例もあります)も同様です。

ここまでは、「創造者が人を創造したなら」という仮定によると思われるかもしれません。ではキリストが水をワインに変えた奇跡を見てみましょう。
その前に、そもそもぶどうの種が芽を出し、木になり、花が咲き、実がなるというプロセスこそ奇跡ではないでしょうか。一粒のタネが、水と肥料と日光と二酸化炭素などによってあれほど形状を変化させ、受粉によって新しい実をつくるのです。しかもその実が、発酵という変化によってワインになる。
タネをワインに変化させるのと、水をワインに変化させるのと、どちらが簡単なことなのかなと思うのです。(つまり、タネがぶどうになる仕組みと発酵のしくみをつくった創造者に、水をワインに変化させるのがそんなに難しいことでしょうか)

キリストであるイエスと、弟子のペトロが、湖の上を歩いたという奇跡はどうでしょう。水を創造し、人間に足を与え、浮力という原理を決めた創造者に不可能でしょうか。
世界が創造者によって創造されたというのは、世界の中のすべての物理法則を制定したのが創造者だという意味です。ケプラーが惑星の運行に関する「ケプラーの法則」を発見したとき、ひざまづいて創造者を賛美したそうです。
それらの法則を制定した創造者には、ある場面でその法則を超えて奇跡を行うことも可能だと思います。現象そのものは不思議だったとしても、創造者にはその奇跡を起こす権限があるのだから、と思うのです。

(となると、つまるところ論点は「世界は創造者ヤハウェが創造したのか、偶然にできあがったのか」ということに尽きます。「神が世界を造ったかもしれない、でも神は聖書にあるような奇跡をおこなうことはできないだろう」という考え方は、論理的ではないでしょう。
創造か進化論かということについてはまたあらためてということにしますが、一つだけヒントを。今このウェブページを見ているあなたの目の前に、パソコンがあるでしょう。これをすべて分解してひとつの袋にいれ、その袋をガチャガチャ振り回したときに偶然にパソコンが組みあがる可能性はどれくらいの確率であるでしょうか。まして今のこの宇宙が偶然にできる可能性、さらにその中で地球のような希少な惑星が偶然にできる可能性、さらにそこに生命が偶然に発生する可能性、さらに人類が偶然に発生し、そして他の誰とも違うあなたという人間が偶然に誕生し、偶然にも今この時代に生きている可能性は、どれくらいあるでしょうか。
もし、意図を持つ何者も介在しないで今のこの世界ができたというなら、そのほうが奇跡だと筆者は思うのですが。)


繰り返しになりますが、奇跡を信じることが、信仰があるかどうかの踏絵ではありません。信仰を持った結果として、奇跡を事実と受け入れられるようになることもあるということです。
ただ、信仰がないと奇跡も受け入れられない、とは言えるようです。奇跡について読んでも聞いても信じられないし、自分の目で見て「どうせトリックさ」としか思えず、下手をすると自分の目や自分の理性を疑うようになってしまう。聖書にも「奇跡を見せたら信じてやる」とキリストに言う人々が何人も登場しますが、そのような人々にはキリストは何も見せませんでした。

(メルマガ1998年9月7日増刊号および同14日増刊号に掲載したものを加筆再編集)