神は生け贄の命をどう考えているのでしょうか?

初心者としての素朴な疑問ですけれども、神は生け贄として捧げる「動物」の生命にたいしての顧慮はされていないのでしょうか。

いま、世界には動物保護の運動もおこなわれています。「生け贄」という儀式はキリスト教においても現代は過去の儀式として考えられているのでしょうか。それとも、現代においても、まだこの儀式は現実に行われているのでしょうか。

神の動物の生命に対する「考え」を教えてください。

生け贄というものを考えることで、「神がどれほど個々の人間を愛しているか」「どうしてキリストが十字架で殺されなければならなかったのか」などが見えてきます。キリスト教の核心に迫ることなのです。

神は動物も愛している

人間は自分が作ったものを、命がなくても愛します。たとえば芸術家は自分の作品を、小学生は自分の工作を。まして創造者である神は、自分がつくった上に命をも与えた動物を、愛さないわけがありません。
キリストも、ヤハウェと動物の関係について次のように言っています。

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」(ルカ福音書12:6)

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ福音書6:26)

ところで、神ヤハウェは次のような方針で人間を創造しています。

「我々(神)にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這(は)うものすべてを支配させよう。」(創世記1:26)

動物を愛するヤハウェに似せて創造されたから、人も動物を愛するのです。そして動物の支配をまかされているから、人は保護しなければならないし、実際に保護しようと考えるのでしょう。

なぜ動物を生け贄にしたのか

ではなぜ、生け贄として動物を殺すのか。

生け贄という行為は、日本も含めて多くの民族にある(あった)ことです。人間を生け贄にすることも珍しいことではありません。日本にもクシナダヒメ(ヤマタノオロチへ差し出されるところだった)の昔から、そういう考え方はありました。
宗教学や民俗学でどう説明されているか知らないのですが、こうした生け贄の発想は、一人の生け贄が他の身代わりとなるという発想だ、といえると思います。荒ぶる神々(鬼神やたたり神を含む)からの災いを鎮めるために、一人を犠牲にするわけです。

では聖書では生け贄はどう位置付けられているかというと、聖書でもやはり「生け贄は身代わりである」といえます。
人間は、救われて天国に入るか救われないままで永遠の炎に投げ込まれるかのどちらしかない。すべての人間には罪があり、救われる必要がある。それが聖書の前提です。そして一人の人が救われるためには、その人の罪を何らかの方法で清算しなければならないとしています。そのために、大事な動物を生け贄にしたのです。ひと一人が永遠の滅びに入る身代わりに、動物を殺したのです。

ヤハウェは動物を愛していますが、それ以上に人間を愛して、罪の清算のために動物を殺すことを許したのです。
動物を生け贄にすることが許されているのは、動物が人間にとっても神にとっても大事なものだからです。なぜなら「どうでもいいもの」には生け贄の価値がありませんから。命あるものの命を生け贄にするのは、そうまでしなければならないほどの罪が人間にあるということです。そして、そうまでしても救いたいほど、創造者は人間一人一人を愛しているということでもあります。

真の生け贄

とはいうものの、しょせん動物一匹と、特別な存在として創造された人間一人が、釣り合うはずもありません。このため祭司は生け贄をささげ続けなければならないほどです。が、それでもまだ足りないのが本当のところです。人間と等価かそれ以上のものでなければ、完全には精算しきれないのです。

では人間一人の罪を清算するために、他の人間を生け贄にするか。それも無意味です。創世記22章の記録からは、ヤハウェは人間を生け贄にすることを望まないと言えますが、仮にやったとしても生け贄にされた人間は自分の罪を精算するのがせいぜいです。というのは、そもそも死は罪の結果だからです。
罪がある人間は、他人の罪を負って精算することはできません。

つまり、人間一人の罪を清算するには、次の条件を満たさなければならないのです。

  1. 人間の命と等価以上のものであること。動物では足りない。
  2. 罪がないこと。罪のある人間では、他人の罪まで清算できない。

この条件を満たす、唯一の方法があります。唯一まったく罪のない存在、神自身を生け贄にするのです!
神が人間の罪を赦(ゆる)すためには、『神自身を生け贄とする』という一手しかないのです。そのために現れたのが、神キリストであるイエスというわけです。

キリストであるイエスは神自身であって罪がない。だから死ぬ必要がない、本来不死身の存在でした。そのキリストが死ぬことで、人は罪を清算されたのです。
人間を創造した神を生け贄とするのだから、人間一人分どころか全人類の罪を肩代わりできます。時間を超越する神だから、キリスト以前に死んだ人間の罪も、キリスト以後に生まれた人間の罪も肩代わりできます。

裏技というか。人間をヤハウェから引き離しておきたいサタン(悪魔)にしてみれば盲点というか、抜け道というか、いっそ屁理屈というか。
ともかく、すべての人間の罪を肩代わりして、罪のない神キリストが死を経験したのです。しかもご丁寧なことに、犯罪者として十字架で刑死したのです。

この、十字架での「神キリストの死」と、死に対する勝利である「神キリストの復活」をもって、キリスト教が始まりました。
キリスト教の歴史の最初に、神自身を生け贄にささげた以上、キリスト教ではすでに動物の生け贄を必要としていません。

ただし、人は無条件で罪を精算されるわけではありません。
「キリストを信じる」というのは、「キリストが、私の罪を肩代わりして私を救った」ということを受け入れることです。
もっと直接的に言うと、「自分がキリストを生け贄として殺し、ヤハウェにささげた」ということを認識することなのです。
ただこう認識するだけで、キリストという生け贄がその人のものになるのです。それが「信じるだけで救われる」の意味です。信じなければ救われないとは、キリストを生け贄としてささげない、そんなことをする必要は自分にはない、という認識となるわけです。

生け贄のもう一つの役割

ところで生け贄には、というか生け贄を含めて「神へのささげもの(奉献物)」には、罪の清算のためということのほかにもう一つの意味があります。

ヤハウェがモーセを通してイスラエルに「生け贄による罪の清算」という律法を与えるよりもはるかな昔。アダムの息子たちは、神に感謝を表明するために、ささげものをしました。カインは畑の実りを、そしてアベルは家畜を、祭壇にささげたのです。
ここには「罪の清算のための生け贄」という発想はなさそうです。日々受けている恩恵に、一途に感謝を表したい、そのために一番大事なものをヤハウェに奉献するものです。

私たちが誰かに贈り物をするとき、相手が自分にとって大切な人であるほど、あるいは恩義のある人であるほど、気合いの入ったプレゼントの選び方をしますね。自分の宝物(高価なものかもしれないし、ビー玉や人形かもしれません)を贈りたくなります。
アベルが動物を生け贄にしたのも、自分の最高の宝物を贈りたかったからです。

(この考え方は、私たち日本人にもなじみのものですね。たとえば笠地蔵は、貧しい男が生活の糧である編み笠を、地蔵菩薩という神にささげた物語りといえます。しかもご利益目当てなどの打算のかけらもなく、ただ一途に心からの思いを差し出したのです。)

こうなると「犠牲」という形容は当てはまらなくなってくるかもしれません。

罪を清算するためにせよ贈り物にするにせよ、「人間が神に近づくため」というのが、聖書における生け贄の役割だということです。しかしこの意味においても、もはや生贄は必要ありません。次のように書かれているからです。

わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。(エフェソ3章12)

作成:2001年1月16日
更新:2013年4月29日

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