質問:奴隷制度について

旧約聖書では、時代の制約からの限界と考えればそれまでなのですが、「奴隷」の制度についてどのように考えているのでしょうか。
このメル・マガを拝読させていただいている限りでは、「奴隷」制度を容認し、また奴隷はその位置に甘んじなければならない、というような前提のもとに判断がくだされているようにおもわれます。

時代の制約を考えてそのへんは、割り引いて考えなければならないとすれば、神も結局歴史的視野の拘束を受けなければならなかった、という失望があり、信仰の限界を感ぜざるをえません。
しかし、もし神にはそれを超える「思慮」があるとすれば、ご教示いただきたくおもいます。

ある社会の中で、ある身分の者が、その位置に甘んじなければならないというのは、その社会を維持するための秩序といえるでしょう。たとえば今の日本では、未成年者という身分の者は投票権がないという位置に甘んじなければならないわけです。
奴隷制度がある社会では、奴隷という身分の者がその位置に甘んじなければならないのも同様です。

まわりくどい言い方になりましたが、ひとくちに「奴隷」といっても、聖書でヤハウェが命じている「奴隷の位置」と、私たちたちが世界史で知るような中世白人社会の「奴隷の位置」とは、似て非なるものどころか、似ても似つかぬまったくの別物だからです。
白人優位主義者はあのような非人間的な奴隷制度を「創造者が聖書で認めている」などと言うそうですが、それは自分に都合のよいように聖書を便利に使っているだけです。

では、聖書でヤハウェが命じている奴隷の位置を見ていきましょう。

奴隷の日常

奴隷というくらいだから、1年365日やすみなくこきつかわれていたでしょうか。いえ、聖書では奴隷には週休1日が保証されていました。安息日の規定です。
週のうち6日間はたらいて、7日目の聖なる安息日はいかなる仕事もしてはならない、という十戒の第4戒は奴隷にも適用されていたのです(出20:10)

これは「奴隷が休む権利」を通り越して、むしろ「主人が奴隷を休ませる義務」として定められています。

奴隷は人間ではない?

長いこと、白人は有色人を「同じ人間」とは見ませんでした(今はどうかな?)。まして奴隷なんて。
でも聖書では、奴隷の扱いはまったく違います。もちろん苦労も多かったでしょうが、ここでは奴隷が自由人と同等の扱いだった記録をひろってみます。

ヤハウェの前には、イスラエルと奴隷の区別はないかのようです。
それどころではありません。アブラハムはイサクが生まれる前は、女奴隷が生んだイシュマエルに家を継がせるつもりでした。イシュマエルが生まれる前には血のつながりさえない、脈絡からおそらく買ってきた奴隷と考えられる男に継がせるつもりだったのです。

「つもり」で済んだとはいえ驚きですが、もっとすごい記録もあります。
イスラエルの12部族はヤコブの12人の息子を祖としますが、そのうち4人はヤコブと奴隷の間に生まれた子です。単純計算でイスラエルの3分の1が、奴隷の血をひいているのです(実際には出エジプトの段階で、部族間に人口の差がかなりあります)。

これはイスラエルだけのことではありません。ヤコブの息子のヨセフは、奴隷として売られたエジプトで、ファラオに次ぐ最高権力者に抜擢されています。イスラエルだけでなく、奴隷の位置はわたしたちが考えるものとはずいぶん違っていたようです。場合によっては「家来」とか「家臣」と同義語と考えたほうがいいのかもしれません。

実はこれは、聖書に限った話ではありません。たとえば古代ローマ帝国。
ローマでは家庭教師も奴隷の仕事でしたが、ローマ貴族は貴族は競ってギリシア人奴隷を求めたといいます。ギリシア人奴隷を家庭教師として持つことが、ステータスだったのです。
一定の資産をたくわえ、かつ息子のいる解放奴隷には、子の代には自動的にローマ市民権が与えられています。少子化対策等の必要があったという事情はありますが、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)にいたっては、元老院が反発するほど市民権を大盤振る舞いしていました。
そのカエサルの養子で、初代皇帝となったアウグストゥスは、元老院あての遺言の中で「これこれの政策はこの奴隷が担当しているので、聞けばわかるようになっている」と書いています。奴隷が、皇帝の政策担当秘書と、管轄省庁の実務トップとを兼ねているようなものです。

奴隷には何をしてもいい?

いえいえとんでもない。

奴隷が自由になるには

奴隷は主人の財産ですから、その主人のもとを合法的に離れるには(つまり逃亡を別とすれば)、他の人に買い取ってもらうしかありません。ただし古代中東では、奴隷が財産を貯めて自分を買い取る、つまり自由を買うことができました。

これだけでもかなり驚きです。米国などで、自由を買えるほどの財産を奴隷が貯めることができたのでしょうか。
でもイスラエルの場合には、さらに驚くべき規定がありました。前述した、主人に暴行を受けたときのほかに、次の場合に自動的に自由になるのです。

このほか、外国から逃げてきたイスラエル人奴隷を主人に引き渡すことを禁じる規定もあります。(申23:16)。
(通常は逃亡奴隷をかくまうのは泥棒と同じとされていましたが、イスラエル以外の古代近東でも、奴隷が売買されているうちに自分の国に売られた場合は解放されるというルールがあったようです。)

つまり、イスラエルでは、イスラエル人を永久に奴隷にしておくことができない、当時の中近東でも例を見ない制度になっていたのです。
死ぬまでこき使うなんていうことは、制度によって禁じられていたわけです。というより、奴隷制度は、田畑を売り我が身を売らなければならないほどの苦境になった同胞を救済するためのものとさえ思えます。

なぜ奴隷を保護するのか

以上、当時のイスラエルでは奴隷がずいぶん保護されていたこと、聖書における奴隷の位置が、私たちが普通にイメージするものとはずいぶん違うようだ、ということを見てきました。古代中東ではイスラエル以外でも、奴隷が人間的に扱われることがあったようです。ただしそれは主人に左右されるものでしたが、イスラエルでは制度として定められていたのです。
それにしても、なぜ聖書ではこれほど保護されていたのでしょう。

その理由は、出エジプト記以降、律法の書にたびたび繰り返される次の精神によるものでしょう。

「あなた(=イスラエル)は、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたし(=ヤハウェ)はそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(申24:22)

イスラエルはエジプトで奴隷として苦しみます。そこから自由になれたのはイスラエルが強くなって解放運動を展開したとかではなく、イスラエルは弱かったのに、ヤハウェがエジプトからイスラエルを取り上げ、自分のものにしたのです。そのためヤハウェは、奴隷に限らず「弱者保護」の精神を随所で命じています。たとえば、次のような規定があります。

以上はイスラエル人が同胞の奴隷となった場合についての規定が多かったのですが、外国人奴隷の場合にも、この法の精神は適用されたのではないかと思います。

主人も奴隷?

奴隷ということを考えるとき興味深いのが、エフェソの信徒への手紙6章です。

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による(=人間の)主人に従いなさい。キリストの奴隷として、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。主人たち、彼らを脅すのはやめなさい。彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

奴隷はもとより、自由人であるはずの主人も、キリストの奴隷とは?キリスト信者になるといのは、キリストの奴隷になるということなのか?

この"?"を解くヒントは、レビ記25:42にあるヤハウェのことばです。

エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。

前半だけで「ヤハウェがイスラエルをエジプトから解放したのは、自分の奴隷にしてこき使うためだったのか」というのは早とちりしすぎです。
『彼ら』はヤハウェの奴隷、つまりヤハウェが所有するものだから、他人が『彼ら』を奴隷として売ったりするな、といっているのです。創造者の奴隷になるということは、創造者の所有として保護されるということなのです。

たとえるなら、公園で好き勝手に遊ぶ幼い子供のようなものでしょう。親が見ていてくれるという安心があるから、自由に遊べるのです。幼児が「親から自由になりたい」といって目の届かないところに行ったとしたら、不安や心細さで、かえって自由に遊べなくなるでしょう。
「所有される」といのは一見不自由そうですが、不自由そうに見える中でこそ謳歌できる自由というものがあるのです。

何を主人にするのか

ここまで「人が他者に支配される」という視点で見てきましたが、奴隷というのはつまり「自分の意思以外ではないものに支配され、その前では自由を失う」ということですね。とすると。。。

禁煙したいのにできないという人は、タバコの奴隷といえます。タバコから自由になれず、収入の何分の一かはタバコ代のために働いているわけです。
(わかってるなら禁煙したら?>筆者)

アルコールも同様。麻薬やシンナーなどはなおさら。ギャンブルの奴隷というのもあります。
TVゲームの奴隷という人もいるでしょう。趣味というものは人をとらわれの身にする力がかなり強いようです。(いつでもやめられるようなら趣味とはいえないか)

最近はあまり聞かなくなりましたが、バブル以前には「社畜」ということばもありました。会社の奴隷ということでしょうか。もっとも、所属する集団に一片の忠誠心もないというのも問題ですが。

お金の奴隷、見栄の奴隷、「他人の視線」の奴隷というのもありそうです。
過食症や拒食症も奴隷でしょうか。

こう考えてくると、自由なんていうものは結局「なにを自分の主人にするか」を選ぶ自由ということになってしまう。
まあ、上にあげたようなことから自由になるのは、不可能ではありません。自力で、あるいは医者やカウンセラーなど、人の力でなんとかできなくもない。そういうことでは、奴隷(自由を得るために代償が必要)とは同列ではないかもしれません。ところがひとつだけ、人の力ではどうにもそこから自由になれそうにないやつがあるのです。

罪。

こいつがやっかいなんです。キリストも「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言っています。カトリックでは名前の上に「聖」の字をつけて呼ばれるほどのあの使徒パウロさえ、[わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている]と言うほど。
では、この「罪」ってやつから自由になる方法はないのでしょうか。

罪から自由になる方法

奴隷状態から自由になるには、原則として対価が必要であること、そしてキリストが「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言ったことを書いてきました。

では罪から自由になるには、どうすればよいのか。その答えは、ローマの信徒への手紙3章に書いてあります。

ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪をあがなう供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

「あがなう(贖う)」とは「代償として支払う」という意味の言葉です。ヤハウェは信じる者のために、キリストという供物をすでに支払済みだというのです。

整理すると、罪の奴隷である人間は、「信じる者」になることで、「キリストの血」を支払った神ヤハウェにすでに買い取られているということ。「信じる者」になることで、罪の奴隷ではなくなり、神に所有されるようになるということです。

「信じる者」になるかどうか、ヤハウェに所有されることを選ぶのも、罪に所有されたままでいるのも、個々人が自由に選択できます。一切、強制はありません。

(メルマガ「創世記を読んでみよう」33~45号に掲載したものを加筆再編集した)

作成:2002年1月14日

布忠.com