聖書って難しそうだけど

当サイト立ち上げ当初、一番多かったメールは「聖書は一度読んでみたかったのだけど、難しくて」というものでした。

確かに、聖書は難しい。多くの聖書学者が議論を繰り広げ、その多くが結論を見ていません。深く読むほど深くなって、すべてをわかるのは不可能に思えてしまいます。

でも教会では、小学生の礼拝でも聖書が読まれているんです。幼稚園児の礼拝がある教会も珍しくありません。

聖書は「全人類への創造者からのことば」です。全知全能で無限の存在である創造者の言葉を、つくられた側の人間が全部理解するのは、茶碗が陶芸家を理解しようとするようなものです。
でも同時に、全人類にわかるようにも書かれているのです。教養ある学者にはわかるが、シロウトや未開民族には神の言葉は伝わらない、などということはありません。

「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」と聖書にあります。(マルコ福音書4:33)同じ箇所でも、読むたびに新しい発見があるのが聖書です。「今の自分の”聞く力”ではこれだけしかわからないけど、次に読んだ時にはもう少しわかるかもしれない。その次にはもっとわかるかもしれない」くらいの気持ちでどうでしょう。
イエスの弟子たちも、何度も「まだわからないのか」とイエスに叱られています。神キリストであるイエスの一番近くにいた弟子たちでさえ、です。

でも、わからない人は読んじゃいけない、なんてことはありません。

たとえば、筆者はアメフトを見るのがかなり好きなのですが、アメフトを知らない人と話しをすると、「アメフトはルールが難しいから」とよく言われます。
でも、野球のルールが全然わからないという人は、日本ではそんなにいないですよね。実はアメフトのルールブックは、野球のルールブックより全然薄いのだそうです。ルールブックが厚いほうが難しいとは一概には言えないかもしれませんが、少なくとも観戦する程度なら、アメフトのルールは難しいってほどじゃないんです。

それに、ルールをすべてしらなければ、楽しめないとか楽しんじゃいけないというものでもない。わかる範囲で楽しめばいいんです。
筆者も、ボークはわからないけど野球を見るし、オフサイドはわからないけどサッカーを見ます。自分はわからなくても、専門家(審判)が教えてくれるのです。

知らないこと=難しいこと、と思いこんでしまっていませんか?

もうひとつ、わからないということ=恥ずかしいこと、と思いこんでいませんか?

日本人は手品の楽しみ方が下手なのだそうです。タネを見破れないのは自分が賢くないからだと思ってしまい、「もう一回!」とタネがわかるまで見ようとする。
でも手品というのは、ただの「術師と客の知恵比べ」ではなく、だまされることを楽しむというか「不思議がる」のが本来の楽しみ方じゃないでしょうか。

無理にわかろうとすると、本来の楽しみ方がなくなってしまう。聖書も同じです。創造者は読者をだましたりしませんから、安心して「わからない」ということを楽しんでいいんです。
結局わからないままかもしれない(筆者は、天国に行ったら創造者やイエスに聞きたいことが山ほどあります)。ある日突然わかるかもしれない。わかったと思ったところが、まったく勘違いだったということになるかもしれない。
それでいいんです。

「知らない」ということが恥ずかしい場合はあります(社会生活のための最低限のマナーとか)。でもわからないということは、ぜんぜん恥ずかしいことじゃない。むしろわかったつもりになるのが、一番いけない。わかったつもりになると、それ以上わかろうとしなくなりますから。
ただ、「わかりたい」という気持ちはあったほうがいい(何でもそうですけど)。何しろ聖書に「求めれば与えられる」と約束されているくらいですから、「わかりたい」という気持ちがあれば、あなたの現在の「聞く力」にしたがって、創造者は理解させてくれるはずです。

(メルマガ1998年8月24日増刊号に掲載したものを加筆再編集)

作成:1998年8月24日
更新:2001年1月27日

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