聖書の選び方

聖書を読みたいけれどどれを選んだらいいのでしょう、というメールをたびたびいただいています。
当サイト管理人のおすすめの聖書は、「新共同訳」という翻訳の「旧新約聖書」です。
ほかの聖書がダメというのではありませんが、これをおすすめする理由を説明させていただきます。

その前に、よくある誤解について。

これは残念ながらどちらも誤解です。どう誤解なのかというと、それも以下の項目を読んでいただければわかるかと思います。


聖書の翻訳について

日本語訳に限っても、多くの種類の訳が出ているのですが、新共同訳聖書を出した「共同訳聖書実行委員会」による、新共同訳聖書の序文を引用します。

果たして完全な翻訳がありうるかと問われたならば、その答えは、否、でありましょう。ましてや、委員たちが直面したのは神の言葉である聖書であります。

その言語を使用する民族の文化や歴史が違う以上、完璧に翻訳することは不可能です。ですから、このように多くの翻訳が出ている聖書については、どのようなスタンスで翻訳に当たったかが重要なのですが、同じ序文で新共同訳の基本方針についてこのように書かれています。

できるかぎり、原文を完全に再現するために、忠実であり、正確であること、固有名詞表記も、原文の発音に近いものにすること。聖書にふさわしい権威、品位を保持した文体であること、既に一般によく知られ、用い慣らされた用語などは、むしろそれを踏襲した方がよいのではないか等の反省も加味されるようになりました。(同序文)

もちろん、ほかの翻訳も、「神の言葉である聖書を忠実・正確に翻訳する」という点でいい加減だったわけではないですが、新共同訳は1989年の翻訳で、比較的新しい訳です。
つまり、底本(新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はほとんどがヘブライ語で一部がアラム語)の言語について、そして神学について、また考古学についてなど、新しい研究成果がもちいられている、というのが新共同訳をお勧めする理由のひとつです。

さらに、ほかの翻訳に比べて最近の日本語であるということもあります。
たとえば、日本のプロテスタント系の教会で広く使われてきた口語訳という翻訳があります。これは1955年に翻訳されたもので、(筆者にとっては幼稚園以前からなじんできた訳ですが)すでに現在の日本語からすると古めかしい表現が多く、正直わかりにくい。
そのあと新改訳という翻訳も出ています。筆者が籍を置いている教会の教派で広く使われていますし、筆者の個人的な感覚ですがなかなか印象的な名訳が多いのですが、こちらもずいぶん時間が経っています。
ましてそれ以前の文語調の翻訳などは、日本語としては美しい(と筆者は思う)のですが、気軽に読むには抵抗のあるものになっています。

次に、新共同訳はカトリックとプロテスタントが共同で翻訳した聖書だという理由があります。

カトリック教会とプロテスタント諸教会とは、歴史に明らかなように、教理上幾つかの点で主張を異にするものとして、相並んで存在してきました。ところが、しばらく前から、さまざまの見解の相違にもかかわらず、キリストを信じるものとしての根本的な一致の認識が深まり、この認識に基づく両教会共同の作業としての聖書翻訳が、世界の各地で行なわれるようになりました。(同序文)

これは、数の上でも日本語聖書のスタンダード版となるということです。多数決で訳のよしあしを決めるつもりはありませんが、使う教会も多くなるだろうし、実際に一般の書店でも入手しやすい翻訳だし、(ミッション系などの)学校でも使うところが増えているだろうし。

単純に言って、わかりやすい日本語で、使ってる人が多いから、新共同訳をどうぞ、ということです。
ところで、以上のことは、新共同訳聖書とそれ以外の翻訳の聖書と、どちらがすぐれているとか劣っているということではありません。すべての翻訳者は、神のことばである聖書を翻訳するにあたって、祈りながら作業をすすめました。神の導きのもとに翻訳された以上、どの聖書もひとしく神のことばで、その意味では一冊の重みは同じなのです。

(ただし「新世界訳」というものについては例外と考えています。これはキリスト教を名乗る模倣宗教が、自分たちの教理にあわせて書き換えたものです。これ以外の訳にまったく問題がないというわけではないにしても、都合のいいように意図的に訳し変えている新世界訳はすでに「キリスト教の聖書」とは呼べないものです。一般の書店では販売されていないと思いますが。)

聖書の構成について

本屋に行って聖書の置いてある棚を見ると、新共同訳と書いてあるものだけでも数種類あると思います。これは構成の違いによるものが大きいのですが、おもなものとして次の構成のものがあります。

(1)旧新約聖書

背表紙に「聖書」とだけ書かれている、少し厚いめのものです。目次は、次のようになっています。
・旧約聖書(創世記~マラキ書)
・新約聖書(マタイによる福音書~ヨハネの黙示録)

(2)旧新約聖書・旧約続編付き

背表紙に「聖書(旧約続編付き)」と書かれている、(1)より少し厚いものです。目次は次のようになっています。
・旧約聖書(創世記~マラキ書)
・旧約続編(トビト記~マナセの祈り)
・新約聖書(マタイによる福音書~ヨハネの黙示録)

(3)新約聖書

背表紙に「新約聖書」と書かれている、(1)の2/3くらいの厚さのものです。目次は次のようになっています。
・新約聖書(マタイによる福音書~ヨハネの黙示録)

(4)新約聖書・詩編付き

背表紙に「新約聖書(詩編つき)」と書かれています。目次は次のようになっています。
・新約聖書(マタイによる福音書~ヨハネの黙示録)
・詩編(旧約聖書の中の1巻)

「旧約」「新約」とは「旧契約」「新契約」という意味です。昔の契約が書かれているのが旧約聖書、新しい契約が書かれているのが新約聖書になります。
旧契約とは「救い主キリストが現れ、世を救う」という神の約束、新契約とは「イエスこそがそのキリストで、この方によってのみ人は救われる」という神の約束です。

旧約聖書と新約聖書は密接に関係していて、不可分です。キリストが教えたことばなど、キリストが世に現れてからのことが書かれているのは新約ですから、まずキリストの教えを知りたいということなら(3)か(4)でもいいのですが。
旧約聖書は新約聖書について予告していて、新約聖書は旧約聖書の予告の実現を記録しているという関係にあり、新約聖書には旧約聖書からの引用も多いのです。
このため、どうせ読むなら旧約聖書から読むことをお勧めします。
(もちろん新約聖書から読んでもいいのです。その場合、目次順に「マタイ福音書」から読んでもいいですし、すこし難しいけれど奥が深い「ヨハネ福音書」から始めてもいいです。筆者は、前編後編の関係にある「ルカによる福音書→使徒言行録」の順が面白いと思うのですが、福音書では一番短くてもっとも初期に書かれたと言われる「マルコ福音書」がわかりやすいかもしれません。要するに、自由です。)

さて(1)と(2)のどちらがよいでしょうか。つまり旧約聖書続編があるものがよいか、ないものでもよいか。
結論から言えば「当サイトでは今のところ旧約続編を扱う予定はありませんが、興味のある方はぜひどうぞ」ということになります。
ではこの旧約続編というのは何なんでしょう。

旧約聖書続編について

聖書は、別個にかかれた多くの巻き物を一冊にしたものです。最初から今のかたちだったわけではありません。
ではどういう基準で誰が、一冊にまとめたのか。

基準については、聖書の中に答えがあります。新約聖書の「テモテへの手紙二3:16」に、次のように書かれています。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

つまり第一に「最初の一行から最後の一行まで、神の霊の導きの下に書かれた本」であり、第二に「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益な本」が聖書だということです。

第二の基準は、誰が読んでもわかる条件でしょう。聖書が、他の宗教の経典や、道徳の本や、金言格言集といったものと明確に区別される点は、第一の基準のほうにあります。しかし第一の基準は、巻物を一読したくらいではわからないわけです。
この基準に基づいて、それぞれの巻物を、祈りと信仰の目で吟味した結果、カトリックもプロテスタントも「これらの巻き物は聖書だ」と結論したのが、旧約聖書と新約聖書です。
そして、カトリックでは「これとこれが聖書だ」と結論したけれど、プロテスタントでは「この巻き物は『人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益』ではあるが、『神の霊の導きの下に書かれ』ていると言えるかは難しい」としているものいるのが、旧約続編なのです。

旧約続編は従来、第二正典、アポクリファ、外典などと呼ばれてきたもので、紀元前三世紀以後、数世紀の間に、ユダヤ人によって書かれたものです。それらは現在のヘブライ語の聖書の中には含まれていませんが、初期のキリスト教徒は、これをギリシア語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継ぎました。この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが、プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していません。(前掲の序文)

聖書ではないものを聖書と同列に扱うことはできません。しかしキリストが「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と言っている以上、聖書であるものを聖書から削除することもできません。ということで結論を出すのが非常に困難。旧約続編つきの聖書となしの聖書と二種類の版を刊行したのは、そのためなのでしょう。

当サイトの管理人はプロテスタントの教会に所属し、これまでも旧約続編のない聖書で育ってきました。というわけで、本誌では現在のところ、旧約続編を扱わない予定です。
ただ、これは読者のみなさんが旧約続編つきの聖書を読むことをさまたげようというものではありません。カトリック信徒などこれまで多くの人々が、旧約続編からも多くのことを学び、信仰を深めてきました。また「旧約聖書」と「新約聖書」のあいだの時代のことを知る上での史料としても意味があるので、旧約続編を読んでおくことは旧約聖書と新約聖書を読む上で参考になるところも大きいと思います。
旧約続編付きを選ぶかどうかは、みなさん一人一人の判断でどうぞ。

(以上、メールマガジン「聖書を読んでみよう」もっと4(1999年7月29日配信)に掲載したものを加筆訂正したものです)


追記

上記「聖書の選び方」について補足します。
まず、すのぴ氏からのRESを紹介します。以前、増刊号の「使徒紹介」シリーズを手伝ってくれていた彼は、実はその後、10年間勤務した会社を退職し神学校に入学。現在は牧師になるための勉強をしています。(さらに補足。氏はすでに神学校を卒業し、現在は東京都にある教会を経て千葉県にある教会で牧師として活躍しておられます。)

すのぴ氏からのメール

さて、「聖書を読んでみよう ”もっと”4」の聖書の選び方は、とてもよくまとめられていて、感心しました。勉強になります。
私も関心のあることなので、つい1~2か月前に習ったことを元に補足してみましょう。
(っていうか、レポートで関連することを書かねばならない)

聖書の訳を分類すると、ざっと三種類あります。

  1. 教会が翻訳の委員をつくって訳したもの。
  2. 信仰を持った学者(聖書神学者)が個人で訳したもの。
  3. 信仰を持たない学者(単なる聖書学者)あるいは、信仰を持っていても信仰を前提としない学問的立場で訳したもの。

1の例には、

  • 日本聖書協会発行の口語訳聖書(プロテスタント)
  • 新共同訳聖書(プロテスタントもカトリックも)
  • 日本聖書刊行会の新改訳聖書(プロテスタント)
  • フランシスコ会訳(カトリックだと思う)

とかいろいろ。
2の例には、尾山令仁先生の現代訳が有名(ってゆーかこれしか僕はしらないのだが)。ほかにもいろいろ。
3の例には、岩波とか講談社とかから出ているヤツ。これにもいろいろある。

で、何を読むべきか、どれを選ぶかです。

第一に、聖書は、信仰を持って読むべき書物であり、聖霊の働きによってのみ神のことばとして理解できるのですから、3の信仰を基(もとい)としない訳は、問題外で、信仰の書として読む価値がありません。(研究用なら意味ありますが)。

第二に、聖書は礼拝で読まれるべき書物です。なぜなら、聖霊が働かれるのはわたしたちが礼拝にあずかることによってなのですから(必ずしも礼拝の中でのみ聖霊が働くのではないが)。したがって、2の個人訳を礼拝の中で用いている教会はきわめてまれでしょうから、これもお勧めできません。(クリスチャンが、神のことばの奥深さをいろいろな訳から知ることはできるかも。)

とすると、結局、お勧めできるのは、委員訳のみになります。委員訳には、プロテスタントの教会で広く礼拝で用いられているのは、口語訳、新共同訳、新改訳の三つ。

この三つは何が違うのか?

  1. 翻訳は別の言語体系に置き換えることなので、かならず解釈がともないます。つまり訳す人たちの聖書解釈の立場が翻訳にあらわれるはずです。実際、上記三つは、翻訳した委員会の立場が異なります。
  2. 翻訳にはかならず原文があるわけですが、聖書の原本は残っていません。いつかの写本が残されているだけです。そこで、いったい何を原本にもっとも近いものとして翻訳の原文とするかが、3つそれぞれで異なります。
  3. 訳された時代が違います。ことばの意味や用法は時代と共に移り変わりますから、もっとも最近に訳されたものの方が意味をとらえやすいでしょう。新しい翻訳の方が、過去の翻訳の誤りが正されているという利点もあります。

管理人からの補足

「もっと4」では新共同訳をお勧めしましたが、そのときも書いたとおり、これは新共同訳がすぐれているとか、他の翻訳が劣っているとかということではありません。
これから始めて聖書を買って読んでみようという人にとって、読みやすく入手しやすいのはどれか、という観点でしかないのです。

本当はそれ以上に、すのぴ氏の言う「訳す人たちの聖書解釈の立場」というのがもっとも問われることなのですが、それについて話すには筆者がもっと勉強してからでなければというのと、初めて聖書を買おうかという方にそこまでの情報が必要かなぁという点から、今回はあえて省略しました。

筆者が出席している教会では、新共同訳が使われています。
筆者が所属する宗派(日本同盟キリスト教団)の教会の多くでは新改訳が使われてきました。
筆者が幼稚園の頃から親しんできたのは口語訳で、今も聖書の言葉を暗誦するときには当時に口語訳でおぼえた言葉が出てきます。
筆者が尊敬する先輩クリスチャンたちは、さらに古い文語訳で聖書の言葉を暗誦しておられます。
この他の礼拝で使われる聖書も含めてどの翻訳も、神の言葉を伝える信仰の書ということにおいて、等しく本物の聖書なのです。

(以上は、メールマガジン「聖書を読んでみよう」もっと4号その2(1999年8月19日配信)に掲載したものを加筆訂正したものです)

作成:1999年7月29日
更新:2013年4月29日

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