仏壇に手を合わせてはいけないのでしょうか

十戒の第一に「私のほかに神があってはならない」とありますが、仏壇に手を合わせる行為もダメなのでしょうか?
それと、お墓参りに、法事など仏教には色々と行事?がありますよね。
先祖が仏教だと当然のように仏壇は在りますし、毎日供え物をしていたりします。これは、してはいけない事なのでしょうか??

うちには未だ仏壇は存在していませんが、親の所にある→うちに来る。という感じなのですが・・・。

お札と違って、仏壇ごとお寺さんに引き取ってもらうことなんてできないでしょうし。。。(笑)

どうしたらいいものかと相談いたしました。

考慮すべきこと

仏壇をどうするかについては、牧師とよく相談する必要があると思います。
安易に処分して、親族とのあいだに不要な摩擦が生まれたら、親族に福音を伝えるさまたげになるかもしれません。
だからといって安易に仏壇を維持すると、「自分は聖書の言葉に従えない、中途半端なクリスチャンだ」という思いにとらわれるかもしれません。また教会内で「あの人は仏壇なんか」と言われるかもしれません。
だから牧師とよく相談し、聖書をよく読み、よく祈った上で結論を出すべきです。以下はあくまで筆者の一信徒としての考えですので、参考程度にとどめてください。

私は、仏教などの習慣に対してどうするかについて、三つの視点から考える必要があると思います。
一番大事なのは「神の前で、その行動は適切か」ということです。聖書が禁じていなくて、自分の信仰にも悪影響がない(自分がイエス様から離れてしまうことにならない)なら、仏壇を捨てようと大事にしようと関係ないはずです。
でも一方で、私たちは自分の言動が隣人にどのような影響を与えるかも考えなければなりません。だから「クリスチャンではない親族の前で、その行動は適切か」「クリスチャンの前で、その行動は適切か」も配慮するべきだと思います。


第一、神の前で適切か

手をあわせるのは一般に、「おがむ」つまり「礼拝する」という態度ですね。
だから、もし故人を礼拝の対象として手をあわせるなら、たとえば「ご先祖様、わざわい(たたり)を与えないでください」とか「天国のおじいちゃん、守っていてください」といった心で仏壇に手を合わせるなら、それはご質問のとおり十戒の[あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。](出20:3)に反するということになると思います。
仏壇に供え物をすることも、故人を仏様(偶像)として礼拝することですから、同様です。

クリスチャンは、故人にではなく全能の父に、イエス様の名によってお願いするものですから。

一方で、手を合わせることは祈りの姿勢でもあります。プロテスタントでは一般に指を組み合わせますが、カトリックでは一般に手を合わせるだけで指は組み合わせないようですね。絵画や彫刻にある祈りの姿も、手を合わせるものがほとんどのようです。
そして、祈ることは場所を選びません。聖書には[あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。](マタイ6:6)とありますが、ここで戒められているのは、見栄のために人前でくどくどと祈ることです。祈りは神との会話ですし神はいつでも一緒におられるのですから、いつでもどこでも神様に話しかけていいはず。つまりいつでもどこでも祈っていいはずです。

ということは、心を主に向けて祈るなら、仏壇の前だろうと、お寺での法事の最中だろうと、祈ることになんの支障もないということになるのではないでしょうか。
だとしたら、故人のためご先祖のために祈るなら、故人を記念する仏壇やお墓の前で祈るほうがいいのではと思います。生きている兄弟姉妹のために祈るときも、相手が目の前にいるときのほうが心を込めて祈れると思うからです。(キリスト教が故人を崇拝しないということは、故人を思う事を禁じるものではないはずです。「墓前礼拝」とか「召天者記念会」といったことをする教会は少なくないですから。)

今、「故人のためご先祖のために祈る」と書きましたが、このことについて少し補足しておきます。

生前に救われた者は、裁きを免れて死後に天国に移されます。では生前に信仰を告白しなかった人はどうなるかというと、陰府(よみ)に移されます。そこで「終わりの日」に審判を受け、天国に上げられる者と地獄に落とされる者にわけられることが聖書に書いてあります。(黙示録20章12-15)
「生前にキリスト信仰に入らなかったら、地獄決定」という勘違いに出会うことがあるのですが、裁きは終わりのときですから、地獄にはまだ誰も行っていません。
生前にクリスチャンにならなかった者が死後どのようにして信仰に入れるのかは、私の読解力では明確には読み取れないのですが、少なくとも詩篇139:9には[わたしが陰府に床を設けても、あなた【神】はそこにおられます。]とあります。
だから、生きている者も死んだ者も裁く主(1ペトロ4:5)に、生きている親族の救いのために祈ることと、陰府にいる親族つまりご先祖の救いのために祈ることとは、区別はないと思うのです。この点については、なぜキリスト教を信じるのかのページも参考にしてください。

年のためですが、「供養しないと先祖が成仏できない」というのとはちょっと、いえ全然違います。
供養という「行為」によって救われることはありませんよね。[あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。]とあるとおりです(エフェソの信徒への手紙2章8,9)。
まして、子孫でも誰でも、その人以外の誰かが何かをすることによってその人が救われるということはありません。[わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエスという名)のほか、人間には与えられていないのです。]と使徒言行録4章12にあるとおり、ご先祖を救うのは子孫の供養ではなく、キリストであるイエスの十字架のおこないなのです。
ただ、神は信仰者のとりなしによって裁きをおもいとどまられる方です。神はイスラエルを何度も滅ぼそうと「決心」したのですが、そのたびにモーセの必死のとりなしで決心を撤回されました。だから、私たちは祈りによって、神の前でご先祖をとりなしてよいのだと思うのです。
聖書のすべての約束と同じく、[主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます](使徒16:31)という約束は確かです。ここでもし、神が時間に縛られる方でないとするなら、[幾千代にも及ぶ慈しみを与える](出20章6,申5章10)は子孫のことだけではなくなります。

以上をまとめると、「ご先祖に祈る」というのはいけないけれど、「ご先祖のために祈る」というのは何の問題もないですし、そして祈るときには仏壇があってもなくても問題ないですし、むしろ何かご先祖を記念する物があったほうがより具体的にご先祖のために祈れるのでは、と筆者は考えます。


第二、親族の前で適切か

前項では、仏壇を引き取っても処分しても(神の前では)問題ないのではと書きました。
どちらでもいいなら、どうしたらいいのかについて、親族に証しとなるかというところから筆者の考えをまとめてみます。

仏壇を引き取る場合

この場合、「仏壇の前で、ご先祖のために、主に祈る」姿を親族が見たときに、「仏壇の前で、ご先祖に祈っている」と思われるのはよくないと思います。「ヤソ(キリスト教)にかぶれたと思っていたが、やっぱり戻ってきてくれたか」と思わせてはいけない、隠れキリシタン時代の言葉でいえば「転んだ」と思わせるようなことはしてはいけない、と思うのです。

なぜかというと、まず親族のためになりません。親族の一人一人のために、神は救いの計画を用意しています。なのに私たちが妥協的な行動をしたと思わせた場合、神が親族に働きかけたときに、親族がかたくなになるかもしれません。私たち自身が親族に伝道しようとしたときにも同様です。
そして、私たち自身のためにもなりません。今後いろいろな場面で、クリスチャンとして生きようとするときに親族が妥協を迫るようになるかもしれないからです。

それから、仏壇は「ご先祖様を記念するもの」というだけでなく、やはり「故人を仏様(偶像)として礼拝する祭壇」でもあるということ。
私たち自身は天の父に祈っているとしても、親族の目に仏教とであるように見えるふるまいをすることは、[人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う](マタイ10:32~33)を考えるとどうだろうかと。

とすると私たちの選択肢は、「私はクリスチャンになったので、ご先祖様をおがむことはしません。でもご先祖様を大事に思う気持ちは同じですから、ご先祖様のための祈りをキリスト様にささげるのです」ということを証しすること、になってきます。それは証し以前の、最低限の説明責任というべきかもしれません。
墓参や法事のときなども同じです。もちろん、お寺のお坊さんがいらっしゃるときや、他家の法事に出席するときなどは、失礼がないように配慮するべきですが。
まともなお坊さんなら、「私はキリスト教徒ですが、故人を偲ぶ思いは同じですから、参列して黙祷だけはさせていただけませんか」と言えば思いは汲んでくださると思います。ただ、新宗教の場合(仏教系を含む)だと難しい場面があるかもしれません。牧師や、教会の先輩クリスチャンに相談してみるのがよいと思います。

仏壇を処分する場合

この場合、仏壇をどうするかは日本人クリスチャンに共通のテーマだと思うので、きっと牧師は事例をご存知だと思います。牧師が外国人の教会でも、協力関係にある日本人牧師がいらっしゃるのではないかと思います。だから処分の方法について牧師に相談してください。
あと、近年はクリスチャンでなくても、住宅事情などから仏壇の処分を考える人が少なくないと聞きますので、役所などに相談してみるということも考えられるかもしれません。菩提寺に相談できれば話が早いですが、それは難しいかもしれませんね。

ただ、どんな方法で処分するにしても、事前に親族に報告したほうがいいと思ます。

昔、宣教師たちが日本に来たとき、改宗した日本人に仏壇や神棚を破却させたそうです。本人はすでに入信してるからいいとして、親族への伝道は大変に困難になったことだろうと思います。
そうでなくても、仏式の葬儀や法事でのクリスチャンの態度から「クリスチャンは先祖を大事にしない」という誤解が世間にあります。もっともこの点は、そのような誤解をさせてきたクリスチャンの側に責任があると思うのですが。
「聖書には『あなたがたの先祖の神』と何度も書かれているし、いろいろな人の家系図も記録されていて、一族という考え方は聖書で大事にされている。それに神の慈しみ幾千代も受け継がれると約束されているから、私が今あるのはご先祖さまのおかげだと感謝している」ということを伝えればすむだけではないかと。
「ご先祖を大事にします。ただ故人をおがむことをしないだけです。それよりも、故人のことをよろしくお願いしますと神様にゆだねるのです」というふうに。

ところで、仏壇を処分すると知らせたら「それだったら、うちが引き取る」と言い出す親族がいるかもしれません。でもここでもし仏壇を渡した場合、その親族を救いから遠ざけることになるかもしれませんよね。
自分のところのにいま仏壇があるということは、日本的な家督について考えれば、仏壇に対する義務と同時に権利も自分にあるはずです。

処分するにしても、もし自治体にまかせることができるとしても「捨てた」と親族に思わせることはできれば避けたほうがいいでしょうね。
「キリスト教はご先祖様になんてことをするんだ」と思わせるかも。大病などよくないことがあった場合に「バチがあたったんだ」と思わせてしまうかも。


第三、クリスチャンの前で適切か

これは仏壇を引き取ることにした場合です。

教会の人が訪ねてきたときに仏壇を見たら、人によっては内心で「なぜこの人は仏壇をまつっているのか。それは聖書の教えに反するではないか」と裁くかもしれません。言葉に出して責める人もあるかもしれませんし、極端な場合には教会で問題としする人も出てくるかもしれません。
私たちは「人を裁くな」(マタイ7:1)と言われました。教会の兄姉が仏壇について誰かを裁くなら、その兄姉は「人を裁く罪」を犯したことになります。
でも私たちは、人をつまずかせるな、とも言われています(マタイ18:6-7)。家に仏壇があることで誰かをつまずかせるならそれは「『人を裁く罪』を犯させる罪」となるのでは。

だから、仏壇を引き取るにしても、牧師とよく相談してください。
先祖の救いのために祈る目的で仏壇を引き取るということを教会内でおおやけにして、「陰府にいる親族と地上にいる親族との救いのために祈ってください」と、祈りの支援を求めることができれば、裁いたり裁かれたりよりも祈りあう方が、教会全体にとってはるかにいいことだと思うのです。


筆者だったらどうするか

以上を踏まえて、筆者だったらどうするか。筆者も筆者の父(クリスチャンです)も長男なので、まず父が仏壇をどうするかということになると思います。
もし父が処分を考えるか、あるいは父が仏壇を引き取った後に父が召天した場合、位牌だけ筆者が引き取りたいと考えています。故人を記念するものとして位牌があったほうが、陰府にいるであろう顔も知らないご先祖たちのために祈りやすいからです。
もちろん私たちは、顔も名前も知らない人々のために祈ることができますけど、でも手掛かりがあるほうが祈りの助けになります。

今は墓参もろくにしていませんが、筆者の家の墓も手入れしないといけないですね。でももちろん「そうしないとバチがあたる」と思うからではありません。
ご先祖が「終わりのとき」に陰府から天国に上げられれば、生きているうちに救われたクリスチャンが天国に迎えられたときにそこで再会できます。会ったことのない遠いご先祖にも会えるでしょう。そして、私たちのために用意された場所(ヨハネ14:2-3)で、永遠に主を賛美するのです。
そのときまでは、天国でご先祖と会える日を楽しみにしながら、「ご先祖を記念する記念碑」でもある墓石を掃除するのも悪くないと思うのです。少なくとも、クリスチャンである筆者としては、お寺さんに任せきりにするのはどうかなと。

仏壇は、牧師と相談して処分するかもしれません。筆者の出席している教会でどのような前例があるか知らないのですが、牧師にお願いして、教会の庭で賛美歌を歌いながら焚き上げられたらいいなと思います。
そのときには親戚一同にも出席してもらって、終わりの日の復活について牧師からメッセージをしていただけたらなおいいなと思います。

牧師に与えられている知恵

最後に繰り返しておきますが、牧師とよく相談してください。親族にどう対応するかについても牧師の協力を得る必要があります。

たとえば、このページで書いた「陰府にいる親族のために祈る」ということについては、賛否両論あるかもと思います。
陰府と地獄は別物であること、陰府に行った者は審判のときに、天に上げられる者と滅びに投げ込まれる者とに裁かれることは、聖書によって明らかです。けれど、陰府に行った者がどのようにして救われるかについては、聖書にはっきりとは書かれていません。だから「陰府に行った者のために祈ることは適切でない」とお考えになる牧師もおられるかもしれません。

私もまじめに自分なりに聖書に取り組んだ上でこのサイトを運営していますが、学びの浅い一信徒にすぎません。けれど牧師には、牧師としての働きのために神から与えられている知恵があります。
神は、遣わす者に必要なものは不足なく与える方です。それはモーセのことを考えればわかります。ただの国外逃亡中の老人にすぎなかったモーセを遣わすにあたり、神はどれだけの知恵と力を与えたことでしょうか。
だから、もしもこのページの考え方と牧師の考え方が異なった場合には、牧師の意見に従うことを勧めます。

そして、これはまったく余計なことですが、何よりご自身で聖書にたずねてください。「牧師に言われたから」ですとか、ましてや「どこかのクリスチャン(筆者のこと)に言われたから」ではなく、ご自身で聖書の言葉に納得した上で、祈りながら堂々と行動されれば、きっと親族に対して証しになると思います。

作成:2004年1月15日
更新:2013年4月29日

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