そのとき、何があったのか

復活から8日目あるいは復活の翌週から8日目 日曜日 夕方?


トマスと再会

トマス以外の弟子たちがイエスと再会してから8日目(*1)。今度はトマスも含めて弟子たちが家の中に集まっていた時。今日も戸に鍵をかけてあったのに、イエスが入ってきて一同の真ん中に立ち「シャローム」(*2)と言いました。

そしてイエスは、先週[あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。]と言っていたトマスに向かって[あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。]と言ったのです。

トマスは、イエスを見ただけで、その傷跡にさわるまでもなく、復活したイエスを信じて[わたしの主、わたしの神よ]と答えました。
ヤハウェのみを神とするユダヤ社会でこのように信仰を告白することは、つまりヤハウェではない者を主であり神であると発言することは、十戒に違反する冒涜者として殺されてもよい(*3)という覚悟がなければできないことです。

そんなトマスに、イエスは[わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。]と教えました。
これは、トマス一人にいったのではないでしょう。前回も書きましたが、ほかの弟子たちも、復活したイエスを自分の目で見るまでは信じなかったのですから。

それに「見ないでも信じる」というのは、これは難しいことですよ。
たとえば、遠距離恋愛というのは難しいですよね。そばにいても恋愛というのは難しいですが、会えない=見ることができないと、難しさが増します。
その点、筆者には理解できませんが、聞くだけで品物を見ないラジオショッピングで買い物をする人は、「見ないでも信じる」ができる人なのかも。

ちょっと前ですが、大事MANブラザースバンドの「それが大事」という歌がありました。恋愛の歌なのでしょうけれど、筆者はなぜか聞いているうちに「これは賛美歌だ」と思えてくる不思議な歌です。

「ここにあなたがいない」のが淋しいのじゃなくて
「ここにあなたがいないと思う事」が淋しい
(かぎカッコは筆者が付与)

イエスは、いないのではない。イエスは復活し、世の終わりまで共にいる(*4)。
なのに、イエスがいないと思ってしまうこと、死んでしまってもういないと思ってしまうこと。
そんなときどうしたらいいのか。

負けない事
投げ出さない事
逃げ出さない事
信じ抜く事
駄目になりそうな時、それが一番大事

がむしゃらですね、もう。がむしゃらにイエスにしがみつくこと、イエスが死んでもがむしゃらにしがみつくこと、復活したからにはもう、がむしゃらに信じ抜くこと。信仰がダメになりそうなとき、それが一番大事なのです。

このあとイエスは生きたまま天(*5)にのぼり、そのあと弟子たちの目にはキリストは見えなくなります。まして現代の私たちの目にはキリストは見えません。それでも現代のクリスチャンがイエスを信じることができるのは、このトマスの話しをとおして「見なくても、確かな、信じることができること」だとキリストが教えたからなのです。
(それを教えるために、イエスはトマスが不在のときに最初に姿を現したのかもしれません)


*1 ヨハネ福音書の記録では「八日の後」となっているが、当時は当日を含めて数えていたようなので、ここでは「八日目」つまり翌週の同じ曜日と解釈した。

*2 訳せば「平和があるように」となる、ヘブライ語のあいさつの言葉。

*3 ローマ支配下のイスラエルでは、自治は認められていたが、死刑にする権限はなかった(ヨハネ福音書18:31)。このためユダヤ指導者たちはイエスを殺すためにローマ人総督ピラトの判決を求めたのである。しかし、私刑で殺すことも黙認されていたらしく、使徒ステファノは最高法院での裁判ののち石打ちで殺された(使徒7章)。

*4 マタイ福音書28:20
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

*5 天、天国、神の国とは、単に「敬虔な者が死後に行くところ」ではなく、神がいるところ。創造主ヤハウェと、ヤハウェとひとつの存在である救い主キリストとの座があるところ。

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