そのとき、何があったのか

復活の日 日曜日 夜


10人と再会

[弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。]とヨハネは記録しています。イエスの復活をまだ信じていない弟子たちにとっては、外はすべて敵に思えたことでしょう。しかし、確かにドアに鍵をかけておいたのに、家の中にすっと入ってきた人影がありました。
驚愕。そして恐怖。「ついに俺たちもつかまるのか。そのあとは。。。」と弟子たちは思ったことでしょう。

しかし、入ってきたのは誰あろう、イエスその人だったのです。ヨハネは[そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。]と記録しています。

手とわき腹を見せたのは、十字架につけられるときに手(手首)に釘を打たれた傷と、イエスの死を確認するためにわき腹を槍で突かれた傷があるからです。これはニセモノではありません。ヨハネは[弟子たちは、主を見て喜んだ。]と記録していますが、そりゃそうでしょう!もう大騒ぎでイエスに飛びついて行ったに違いありません。

ちなみに「平和があるように」とは、イスラエルのごく普通の挨拶です。イエスのユーモアのセンス(*2)から想像するに、復活すると言ったのを忘れておびえきってる弟子たちに、イエスは「俺だよ俺! 相変わらずにぶいなぁ、でもこれで全部わかったろ?」とでもいう感じで、笑いながら入ってきて「やあ!」と挨拶したんじゃないかと思うのです。(*3)

さて、イエスは弟子たちを安心させるためにちょっと顔を出した、というのではありません。こう書かれています。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

キリストであるイエスが人々の前に出て宣教を始めた時のことを、マルコはこう記録しています。

イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

福音とは、キリストつまり神自身が、人の罪をあがなう(清算する)ためのいけにえの子羊となること、それによって人の罪はゆるされ、神ヤハウェのもとに帰れるということです。つまり、キリストの十字架と復活が福音なのです。もっとシンプルに言えば、神の福音を信じるとは、「神はあなたを愛している。その愛を受け入れなさい」ということです。(*4)
その福音のためにヤハウェがキリストを世に送った(贈った)ように、キリストは弟子たちを世に送る、とイエスは言っているのです。

さらにヨハネの記録は続きます。

(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

ヤハウェが神であり、キリストが神であるように、聖霊も神です(聖霊とは単なるエネルギーとか、あるいは使い魔のたぐいではありません)。神は唯一であると同時にこの三者であることを、キリスト教用語で三位一体【さんみいったい】と言います。

なぜイエスが[彼らに息を吹きかけ]たのか。
ヤハウェが人間を創造したとき、ヤハウェがアダムに「命の息」を吹き込んで、人は生きる者となりました。また、ヘブライ語で「霊」は、「息をする」という言葉から来ています。
ヤハウェによって命を吹きこまれ、キリストによって新しい命を与えられ、そして聖霊によって生かされよ、とイエスは言っているわけです。

神キリストであるイエスは、死からよみがえりましたが、このあとすぐに生きたまま天に帰っていきます。そしてキリストが帰ったのちにやってくるのが、この聖霊という神なのです。弟子たちがキリストを受け入れ、キリストによって遣わされたように、これからは聖霊の導きに従って行け、とイエスは言っているのです。
(ちなみに、この聖霊という神が来たことを記念するのが、キリスト教三大祭のもうひとつペンテコステです)

このできごとは、ルカ福音書によれば、エマオに向った二人の弟子が夕食の時に「同行者はイエスだ」と気づいてエルサレムに引き返したときのこととして記録されています。
ところで、イエスが入ってきたとき、この家には12弟子のうちの10人しかいませんでした。自殺してしまったユダのほかにもう一人、このときイエスに会えなかった者がいたのです。


*2 イエスが宗教的指導者や無意味な慣習にむける皮肉や、弟子たちを教える時のひねり方などを読むと、かなり冗談のセンスがあるキャラクターだったと思われる。

*3 ギリシャ語底本で「平和があるように」となっているところは、イエスはヘブライ語で「シャローム」と言ったと考えられる。これは直訳すれば「平和」だが、一般的な挨拶の言葉だった。そこで、たとえば「こんにちは」を英語に訳すときはTodayと直訳するのではなくHelloなどとするように、今回は挨拶の言葉としてのみ解釈した。イエスの性格からして、片手をあげてウインクしながら「やあ!」という感じで入ってきたのだろうと、筆者は想像している。
ただし、ヨハネの記録は[イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。」]と続いているので、おびえきっている弟子たちに言葉どおりの意味で「平和があるように」つまり安心しなさいと言ったと考えたほうが、話しが通るとも言える。神キリストも神ヤハウェも、聖書の中で何度も「恐れることはない」と言っている。キリスト教の神は、恐れを取り除く神である。

*4 神は愛を押し売りはしません。神の愛を受け入れるかは、各人が選ぶことです。ただし自分で選んだことには、選んだ結果がともなうのは当然です。

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