そのとき、何があったのか

祭りの1日前 木曜日 深夜


逮捕

イエスが弟子たちとたびたび、このゲッセマネの園に集まっていたと、前のページでヨハネの記録を引用しました。ただヨハネは、そのためにユダはここにイエスがいると予想できたので、

一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。

とも記録しています。あるいは、みずから十字架に向かうイエスはユダが手引きしてくることを計算して、あえて園にきたのかもしれません。

ユダは素知らぬ顔でイエスに近づくと、「先生、こんばんわ」と言って挨拶のキスをしたと記録されています。
もっとも、これは親愛のキスではありませんでした。ユダは群集に[わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け]と言ってあったのです。
ヨハネはさらにこう記録しています。

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

一体、何が起こったのでしょうか。「わたしである」という言葉に何があったのでしょうか。
「わたしである」は、ギリシャ語底本では「エゴー・エイミ」と書かれています。直訳するなら「わたしは、である」となります。出エジプト記で神ヤハウェがモーセに自己紹介した「わたしは、ある」と同じ言葉でイエスは答えたのです。
その神聖な、神性をもった響きに、群集は打ちのめされたのか。それともあまりの冒涜と思ったのか。

このときペトロが、大祭司の下役マルコスに切りかかって右耳を切り落としました。イエスの指示で、弟子のうち二人が剣を持っていたのです(*1)。
イエスがなぜ剣を用意させたのかはわかりませんが、それにしてもペトロ、威嚇目的だったとしたら漁師にしてはなかなかの腕前。
しかしイエスは、切りつけたペトロをいさめ、マルコスの耳を癒しながらこう言っています。

剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。

有名な「剣を取る者は剣で滅びる」の出典ですが、それはいいとして。
確かにイエスには、天使の軍勢でこの場を切り抜けることができたでしょう。今までも多くの奇跡を行い、神の権威と力が自分にあるしるしを示してきたイエスが、このときだけはハッタリをかました、とは思えません。
ですが、もしイエスがこの苦難をさければ、キリストであるイエスが世に現れたこと自体が無駄になってしまうのです。神キリストが世にくだり、あのクリスマスの夜に人として生まれてきたのは、すべての人の罪をあがなうために、罪のない神自身がいけにえの子羊として死ぬためだったのですから。

でも弟子たちはこれで進退きわまりました。師イエスのために戦って死ぬ覚悟だったのが、師自身から戦うことを禁じられてしまったのです。もっとも、そうなった原因は「キリストは旧約聖書に書いてある通りに殺されるが、三日目によみがえる」と何度も教えられていたのに悟れなかったところにあるのですが。
それにしても、覚悟が固かっただけに、肩透かしのショックは大きかった。結局、パニックになった弟子たちはイエスを残して散り散りになってしまったのでした。

こうして、つい先日の日曜にはイエスを王として迎え、神殿で毎日イエスの教えを喜んで聞いていた群集の手によって、イエスは捕らえられ大祭司カイアファのところへ連行されたのです。

しかし、弟子たちもこのままでは引き下がれません。ここに3人の弟子のことが記録されています。
一人は、名もない若者。十二弟子の誰かか、それ以外なのかもわかりません。彼は素肌に亜麻布をまとってついていったと記録されていますが、物乞いにでも変装したつもりだったのでしょうか。
しかし人々が捕まえようとしたので、亜麻布を放り出して裸で逃げていきました。

ペトロと、もう一人の名前の出て来ない弟子(*2)は遠く離れてついて行き、その「もう一人の弟子」が大祭司の知りあいだったので大祭司の家の中庭に入り、そして門番の女に話しを通してペトロも入れてもらったのです。
ここでペトロは「もう一人の弟子」と別れて、ぬけぬけと、いえそれともビクビクしながらでしょうか、下役たちと一緒に中庭で火にあたりながら、事の成り行きをうかがっていました。


*1 ルカ22章35-38

*2 [シモン・ペトロともう一人の弟子]とあるのは、おそらくヨハネ。ヨハネ福音書を書いたヨハネは謙遜のためか、記録の中に自分が登場する時は、このように名前を伏せていることが多い。大祭司の庭でペトロと別れたあと、どうしたかの記録はなく、十字架の場面でふたたび登場する。

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