そのとき、何があったのか

祭りの4日前 月曜日 早朝


いちじくの木

マタイの記録によれば、エルサレム入りした翌日つまり祭りの4日前の月曜日早朝のこと。イエスと弟子たちは、ベタニア村を出て都に戻る途上にありました。そのとき[イエスは空腹を覚えられた]と記録されているので、朝食も取らずにエルサレムへの坂道をのぼってきたのでしょう。

空腹のイエスは葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄ってみました。ところが[葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。]と記録されています。
実がないのを見たイエスはどうしたか。なんと、いちじくの木に[今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように]と呪ったのです。すると、マタイの記録によると[いちじくの木はたちまち枯れてしまった]のでした。(*1)

季節ではないのに実がないのは当たり前です。季節ごとに実りをむすぶように定めたのは神ヤハウェであって、そのとき神キリストもヤハウェとともにありました(*2)。なのに実が無いことを呪うとは?

もし筆者がその場にいたなら「なぜこの季節にいちじくに実を求めるのですか」と尋ねないわけにいきません。が、どうも弟子たちはそれをなんとも思わなかったようで、それよりも彼らは[なぜ、たちまち枯れてしまったのですか]と尋ねたのでした。というわけで、釈然としないのですが、話しを先に進めます。

マタイの記録では、弟子たちの質問にイエスはこう断言しました。

はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。

またマルコの記録ではさらにこう続けています。

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。

もしかしたら、いちじくの木をネタにして、祈ることを教えようとしたのかもしれません。祈るということがわかるためなら、いちじくの木一本くらいどうということはありません。それは創造者である神とのコミュニケーションなのですから。
しかし弟子たちにそこまで「祈り」というものがわかったかどうか。少なくとも筆者には、山を移すほどの確信を持って祈るというのは、まだできないようです。

早朝にベタニア村を出てきた一行ですが、道中このように道草をくったりしていますので、エルサレムにつき神殿に入ったのは昼前くらいでしょうか。


*1 マルコは、翌朝とおりかかったときに木が枯れていたと記録している。

*2 コリントの信徒への手紙一8:6「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し…」

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