キリストがやって来た


キリストって何者?

キリスト教がマイナーな日本でも、「もろびとこぞりて」という賛美歌はごぞんじのかたが多いでしょう。「きよしこのよる」と並んで、賛美歌というよりはクリスマスソングという扱いですが、「モロビトコゾリテ」「シュワキマセリ」はヘブライ語の呪文か何かだと思ってる人も、いるとかいないとか。(ああ、文語調の賛美歌は難しい)

「もろびとこぞりて」のリフレイン部分で「主は来ませり」歌われているとおり、この賛美歌は主つまりキリストが世に来たことを歌っているのです。(「主」は「しゅ」と読んでください。あまり「ぬし」とは読みません)

そしてこのキリストは、神自身なのです。では、キリスト=神が来たとは、どういうことなのでしょうか。
(以下は例によって「筆者はこう受けとめている」という以上のものではありません)


なぜ神は来たのか

ローマの信徒への手紙3章23-24にこう書いてありますが、クリスマスとはこの言葉に集約されます。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

聖書は、全人類は一人残らず罪人(つみびと)であると教えます。
ここがキリスト教の一般ウケ(?)しないところで、面と向かって「あなたは罪人だ」と言われれたらまず否定したくなるでしょう。(心から肯定できるなら、あなたはキリストにとても救いに近いところにいます!)
キリスト教が「全人類は罪人」というのは、全人類は一人残らず、創造者である神ヤハウェに背を向けて生きているということです。自分を創造した存在に背を向け「神なんか関係ないね」という生き方をすること。これを罪と呼びます。

人はヤハウェに創造されましたが、その時点では、人は「よいもの」でした。でも一人の人(アダム)によって、創造者に背を向けた生き方が人類の中に入ってきました。すべてアダムの子孫である人類は、遺伝子に刻み込まれたように、ご先祖アダムから「創造者に背を向ける」という性質を受け継いでしまっているのです。

この、ヤハウェに背を向けた状態を罪というわけです。先ほどの聖書の引用は「人は皆みずから神に背を向けていて、神の栄光を受けられなくなっている(天国に入れなくなっている)」と教えているのです。

人は自分で、ヤハウェのいる高みから罪の中に飛び降りてしまったのです。そして一度飛び降りてしまった人は、自力ではもと居た高みに復帰することができなくなっています。上から救い上げてくれなければ、帰れないのです。

キリスト・イエスは、この状況を打破するために、世に来ました。アダム一人によって罪を知ってしまった人類が、神が人となって世に降ったイエス・キリスト一人によって、創造主とのもとの関係に復帰する。そのために神であるキリストが人となって世に現れたことを記念するのがクリスマスなのです。

先ほどの引用箇所を書いた使徒パウロは、人が、その罪のために受ける報酬は死であると書いています(同書6章23)。
でもキリスト・イエスによるあがない、つまりキリスト自身を代価として支払うことで、主なる神の一方的な恵みによって、タダで、人は救い上げてもらえるのです。


もしクリスマスがなかったら

もしクリスマスがなかったなら。
つまりキリストが世に来なかったなら。
そしてキリストが、祭壇にささげられるいけにえのように十字架で殺されることがなかったなら。
キリスト自身によるあがない(罪からの買い戻し)がされなかったなら。

全人類は一人残らず、いまだに創造者に背を向けた生き方しかできないで、天国つまり創造者の主権が支配する栄光の国に入ることはなかったのです。

ですが今や、キリストによって、天国への道がひらかれているのです。