聖書の中のクリスマス賛美歌

賛美の福音書ともいわれるルカによる福音書から、クリスマスに関わった人々(人以外に、天使もいますが)の歌った賛歌を引用します。
左が歌詞、右は当サイト管理人の解釈です。


マリアの賛歌

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目をとめてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、
そのあわれみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。

そのしもべイスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

語句

はしため
漢字で書くと「端た女」。身分の低い女。下女。

解説

イエスの母マリアの賛美です。
天使から「あなたの胎にあるのは神の子」と告げられたマリア。親戚のエリサベトのもとに立ち寄ると、エリサベトは啓示を受けて「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、」と喜びます。
それに答えてマリアが歌ったのがこの賛美です。


ザカリアの賛歌(預言詩)

ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角を、
しもべダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。

語句

救いの角【つの】
聖書では多くの場合、角は力の象徴です。
幼子【おさなご】
エリサベトから生まれるヨハネのこと。

解説

前述のエリサベトはすでに高齢でしたが、不妊の女と呼ばれていました。
その夫ザカリアは祭司でしたが、神殿でのつとめの最中に天使があらわれ、エリサベトが妊娠していること、生まれる子は”主の御前に偉大な人”となり、”イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる”と告げたのです。
しかしザカリアは天使のことばを信じなかったために口をきけなくされ、その子が産まれた時ようやくしゃべれるようになったのです。このことを不思議がる人々にむかって歌った預言がこの詩です。
はたしてその子は、洗礼者ヨハネと呼ばれ、イエス・キリストの先駆者として人々を悔い改めに導く活躍をしたのです。


天使の軍勢による賛美(大合唱)

いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ。

解説

羊を飼いながら野宿していた羊飼いたちのところに天使があらわれ、ベツレヘムでキリストが産れたことを告げます。
羊飼いは、働いてはならないとされる安息日も羊の世話をするので、律法に違反するけがれた者と見られていました。しかし救い主誕生の知らせは、そんな底辺に生きる彼らにまず示されたのです。その告知のあと、天使の大軍勢があらわれ、神を賛美してうたったのがこの詩です。
この詩の前半部分はラテン語で「グロリアインエクセルシスデオ」、クリスマスの歌によく挿入されています。


シメオンの賛美

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
このしもべを安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。

解説

イエスは神の子であると同時に、ヨセフとマリアの夫婦にとってはじめての子でもあります。そこで二人は、律法に定められたとおり、初子のためのいけにえを持って神殿にささげに来ました。
するとそこに神に導かれて、シメオンという老人が来ていました。シメオン翁は神から、救い主を見るまでは決して死なないと告げられていたのです。
その約束はこの日、マリアに抱かれたイエスを見た瞬間に成就したのでした。この時にシメオンが歌った賛美がこの詩です。

これは、救い主を見たからもう死ななければならないという悲しい詩ではなく、民族をあげて何世代ものあいだ待望した救い主を自分はこの目で見ることができたという、喜びの詩なのです。