聖書研究
テトスへの手紙1章5~9

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(このページの内容は、日本基督教団・埼玉和光教会の「聖書の学びと祈り会」に参加した所感です。)

非難される点があってはならない

「非難される点があってはならない」と著者(パウロ?)は言うが、本当に非難される点がないなら、その人はキリストにあがなわれる必要はない。司会者のS兄の「キリストにあって、そのように変えられる」との読みをヒントに、「非難される点があっても、悔い改めることを知っている者」と読んだ。

たとえばモーセの召命。モーセは自分がこの大任にふさわしくないことを知っていた。謙遜ではなくマジで逃げたかった。けれどヤハウェは「もういい、とにかくお前が行け、話しは以上!」とばかりにモーセを困難な道に叩き込んだ。モーセはふさわしくなかったが、ヤハウェはモーセをそのままで召し、用いる中でモーセを変えて行ったわけだ。

クレタ人

テトスが遣わされているクレタは、聖書巻末の地中海地図を見ると、いかにも戦略上の要衝という位置にある。ローマ帝国からエジプト帝国をはじめとする北アフリカに攻め込むにも、東地中海沿岸ににらみを利かすにも、重要な位置だったろう。クレタ島の歴史は調べていないが、この古い文明を誇る島は、ギリシャそしてローマに征服される歴史だったのではないだろうか。だとすると、クレタ人が「信用できるのはカネだけだ。自分が生き延びるためなら他人のことなど知るか」という考え方になったとしても仕方ないかもしれない。著者はクレタ人をしょーもない連中と見ているようだが、そうならざるをえない歴史の島だったのかもしれない。
それを非征服民の悲しい性と見るなら、今の日本のさまざまな問題点の多くが戦後に入ってきたことに重ねられるかもしれない。ことに、戦中は(ごくわずかな例外を除いて)国民全体がイケイケだったのに、負けたとたんに「悪いのはA級戦犯」としてしまったこと。あるいは、責任をともなわない無制限のジンケンがよしとされるようになったこと。
戦前の日本がよかったかどうかなんて知らないし、当時に責任を持たない世代である私に当時をさばく資格もない。勝っていればと言うつもりもない(もっと悪くなっていた可能性も強いと思う)。けれど、負けたせいで悪くなったとは思う。

少し脱線した。話しを戻すと、総括として、M牧師が「神学校で言われたみっつのこと」というのを紹介してくれた。いわく「酒はワナである」「女性問題に気をつけなければならない」「金銭には常にフェアであれ」
この3点、どれも「自分に対して言い訳しやすいもの」だと思う。だからこそサタンも入りこみやすいということか。K兄が「昔でいう『飲む、打つ、買う』だな」と言ったが、なるほど、人間が堕落するタネというのは昔から変わらないのかもしれない。

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作成:2003年8月27日

布忠.com