聖書研究
ピリピ人への手紙2章1~11

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(2005年1月26日の日記より。堺福音教会東京チャペルにて、アルファコースのアフタークラス「価値ある人生」の第3回。テーマは「新しいあり方 new atitude」。例によって、学びの内容からさらに展開。)

パウロは、鎖につながれるなど多くの苦難の中にあって、幸せであった。「鎖を解かれれば幸せ」ではなく、この状況ですでに。ただしそれは、4章に登場するユーオディアとスントケのことを除けば、つまり「一致」に関する懸念を除けば。

一致のための4つの土台。
「キリストにある一致」つまり、「もし、キリストにあるなら、一致がある」。in Christであって、about Christではない。ましてやfor Churchでもないだろう。
「神の愛」すなわち「もし神の愛を体験するなら、一致がある」。
「同じ御霊」すなわち「もし同じ御霊が互いのうちに住んでおられるなら、一致がある」。
「クリスチャンの愛」。

「もし…なら」という論は、はげましではあるのだろうけれど。裏返せば「もし…でないなら」という論も成り立つわけで。

一方、3~4節には「間違ったあり方」があげられている。キーワードは「へりくだって」だろう。
しかし、へりくだろうと思ってそうすることが人にはできるのだろうか。少なくとも私には、「へりくだりを与えたまえ」と祈れるほどのへりくだりも持っていない。

4節[他の人のことも顧みなさい。]すなわち、自己中心から脱して隣人を愛すること。イエスは基本的に「~するな」ではなく「~せよ」の理論だという。「憎むな」より「愛せ」というわけだ。

5~11は、イエスのプライバシーに迫るものであるとのこと。イエスが手放したように、手放す。イエスが捨てたように捨てる。つまりヨハネ13章15。

7節「御自分を無に」されたことについて、新改訳の欄外注いわく「特権を主張されずに」。
イエスが特権を主張しなかったように、主張を捨てる(もともとイエスのようには特権などないのだから)。ついでにいえば、イエスが「不当だ」と叫ばなかったように、叫ばない(不当ではなく罪に対する当然の報酬なのだから)

「イエスが私たちのようになられたのは、私たちがイエスのようになるため。イエスは究極の高さから究極の深みへとその位置を変えられた。」アーメン。
パスカルのパンセにいわく「イエスは、人が絶望せずに近づき、高慢せずにひれふすことのできる神である」(うろおぼえ)

[あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。]とはつまり「あなたがたのうちに『キリストにあって(in Christ)あなたがたであるあり方』を持ちなさい」の意とのこと。アーメン。

9~11節は、神の眼から見た偉大さへの径とのこと。
「高く上げられる前のへりくだり」である。マルコ10:43-44、ルカ14:11、1ペテロ5:5-6参照とのこと。
「あのペテロが」と言われて思わず噴出した。そう、あの「俺が俺が」だったペテロが、へりくだりを勧めるほどに変わったわけだ。がしかし笑ってもいられない。ペテロは変えられたが、自分は?

へりくだりということで、芸人の出川哲郎を思い出した。芸歴としてはベテランでありながら、後から出てくる若手の下へ下へと入っていく芸風。謙遜というよりまさに芸風であって、生き残るための計算なのかもしれないが、それがもはや自然体にさえ見える。卑屈になってるわけでなく、単にそういう生き方であるように見える。

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作成:2005年1月26日

布忠.com