聖書研究
フィリピの信徒への手紙1章12~30

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(堺福音教会東京チャペルにて、アルファコースのアフタークラス「価値ある人生」の第2回に出席した日の日記より。テーマは「新しい目的」。例によって、学びの内容からさらに展開。)

はじめに

1章12[私の身に起こったこと]については、使徒21章~28章。
要約すると、捕縛されると告げられていた(使徒21章4,11)。しかしパウロは[主イエスの御名のためなら、…死ぬことさえも覚悟しています。](使徒21章13)と言ってエルサレムに上り、誤解(使徒21章27-29)もあって騒乱に巻き込まれ、民衆の前での証言、サンヒドリンでの裁判、総督の前での裁判を経て、2度の罠(使徒23章12-22および25章2-3)もあったが、カイザルに上訴してローマに送られる。そして船でイタリヤに送られる途中で漂流、座礁、沈没、そしてマルタ島に漂着。これらの危難に加えて島ではマムシに噛まれたパウロだったが、マルコ16章18のようにまったく害を受けず、冬を過ごして3ヶ月後に出発し、ようやくローマに着く。

第1、福音の可能性

で、これらの[私の身に起こったこと]が、かえって[福音を前進させた]と言って(フィリピ1章12)パウロは喜んでいるわけだが、今日のトークではそれは「投獄されていたが開放されたことで神の力を示して福音が前進した」のではなく、投獄されたままの状態であること自体によって、[親衛隊の全員と、そのほかのすべての人]にパウロが語り、[また兄弟たちの大多数は、…主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に]語るようになった(同書1章13,14)。

ここには「福音の可能性」があるという。仕事や家事につながれている「から、できない」ではなく、「から、できる」のだという。アーメン、これはわかる。
私自身も、以前は「もっと立派なクリスチャンになったら伝道しよう」と考えていたが、今は「今のままの自分で遣わされている」という認識になっている。大きくなってから大きなことから始めるのではなく、小さいままでも小さいことから始めるという認識だ。

第2、福音の優先順位

1章15-18でパウロが語っているのは「福音の優先順位」とのこと。[他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。…見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。]
これって、とんでもなくねぇ?

トークでは、「語る内容」は変わらない(語る内容は聖書であり、聖書は変わらないからということか)。「語る方法」も変わらない(語るのは賜物により、賜物は聖書にあり、聖書は変わらないということか)。大事なのはこの二つであって、「語る動機」は優先度が低いというわけだ。どういう動機であっても、語る内容と語る方法が変わらなければ、つまりキリストが宣べ伝えられていれば、私(パウロ)はうれしいというわけだ。

語る内容が大事である。[私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。]ガラテア書1章8
語る方法が大事である。結果は手段を正当化しない。
しかし「動機を正しく持つように心がけるべきではあるが、多くの人々は決して正しい動機でキリストのもとに来るわけではない。」アーメン。正しくてキリストに来るのではなく、キリストに来て正しくされるのだから。

そう考えると、愛が無いという自覚のままで懊悩している私も伝道してよいのだと思える。議論のための議論、ただ論破するために某キリスト教系新宗教に出入りしていたのも、まあ、悪いことではなかったのかもしれない。

がしかしこれはあくまでも「優先順位」ということだろう。つまり「語る内容」と「語る方法」が変わらない限りにおいて、動機は後回しでもいいということだ。
実際、「語る動機」が「語る方法」をねじまげ、「語る内容」までねじまげることがある。そう見えるクリスチャンが、教会が、牧師が、いないわけではない。「福音」ではなく「キリスト教」を、「伝える」のではなく「教える」という。あるいは、やたらと教会員をさばき結果的に追い出してきたという。そういう教会や牧師が、いないわけではない。

第3、生きることについての福音の目的

1章19-26。「パウロにとって人生の目的は、キリストを知ること、そしてキリストを知らしめることだった。」

しかしここは、誘惑の強い個所だ。私の持ち歩いている口語訳聖書には、いつからか1章23に傍線が引いてある。
[わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。]
たぶん、私が消えることを望んでいた時期に傍線を引いたのだろう。積極的に自殺したいとまでは考えないが、単純にこの地上での生を終わりにしたいと望んでいた。あっち(主のもと)に希望があることを知っているだけに、「さっさとあっちに行きたい」と思っていた。
パウロには「キリストを知らしめる」という使命の意識があったか知らないけど、私にはそんなもの(伝道)より自分があっちに行くほうが大事だと。

第4、福音に生きる人生

1章27-30。さっさと天国に行きたい、しかもパウロと違って「こっちでやりたいこと」というのももういいという私に、パウロは一応、釘を刺している。
[あなたがたは、…キリストのための苦しみをも賜わったのです。](1章29)
私の感じていることは直接には[キリストのための苦しみ]ではないような気もする。しかし今のままだと神がなぜ私を創造したのかもわからないと考えると、それがわかるまではがんばらないといかんようにも思うし、だとすると「生きるのももうしんどい」というままがんばらなきゃいけないということが間接的に[キリストのための苦しみ]なのかもしれない。

トークの中で聞いたのか終わりの祈りで聞いたのかわからないが、私は最後に「信仰駆動 Faith Driven」とメモしている。人間からの入力をきっかけに動作するソフトウェアを「イベント駆動形のプログラム」というが、私も「信仰駆動型のクリスチャン」になりたいものだと思う。

東京チャペルに行ったあとは日記が長くなる。

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作成:2005年1月19日

布忠.com