聖書研究
ピリピ人への手紙1章1~11

menu

(2005年1月12日の日記より。堺福音教会東京チャペルにて、アルファコースのアフタークラス「価値ある人生」の第1回。例によって、学びの内容からさらに展開。)

3~6節は「神の力の確信」。
[あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。]について、アーメン。疑う余地はない。
しかし「良い働き」は不断に前進するのだろうか。それとも停滞や後退をしつつも最終的には完成するのだろうか。私の目には後者に見えるが、しかしパウロがアジアとビテニヤへの道が閉ざされたと思ったときにピリピへの道が開かれたように、状況が反対している(障害がある)ときこそ神は何かを用意しているとのこと。
「神は私たちの人生にご自身の働きを完成される。」その働きは完成まで持続する。アーメン。

トークの中でヨハネ10:28[だれもわたし【キリスト】の手から彼ら【クリスチャン】を奪い去るようなことはありません。]が引用された。アーメン、どんな人間も、サタンであっても、クリスチャンをキリストから奪うことはできない。
しかし、私が「彼ら」に含まれるなら、キリストから離されることはないとしても、本当に私はそこに数えられているのだろうか。

7~8節は「神の人々へのあわれみ」。(これは「哀れみ」ではなく「憐れみ」である。)
パウロはピリピの人々に深い愛を持っていた。共に働くものとしての親密、[あなたがたを、心に覚えているからです。]
英語でいうところのCompassionであるという。愛がなければどんな慈善も無意味というが、その愛もCompassionがなければ無意味となる。Compassionがなければ、たとえ教理的に正しくても、単なるパリサイ人となる。

9~11節は「成長の原則にかかわる心」。
ピリピの教会は、量的にも質的にも成長した。量としても教勢が伸び、そして質としても成熟度が増した。
(人数は多いが、監視しあい、礼拝を休むと裁かれるからということで礼拝出席が多い教会と、小さい群れだけれど燃えている教会では、前者のほうが祝福されていると評されているような気がするのだが。)

成長のための3つの祈りとして「愛が…いよいよ豊かになり」「真にすぐれたものを見分けることができる(ための「神の知識」「理解」)が与えられ」「純真で非難されるところがない」ように。
なぜパウロはこの3つを祈ったのだろう。私が思うに、努力では得られないものだから、神がそれを与えてくださるようにということではないだろうか。

知識や理解は、聖書に取り組む努力で得られそうにも見える。しかしそれは、人間の努力で神を理解しようという無謀だ。にもかかわらず知識偏重で来たのが、私が行き詰まりを感じてる原因である。
「非難されるところのない」とは、攻撃されないということだそうだ。つまり「抑止力となるほどの聖」ということだ。これなどは、知識にもまして、努力で手に入れるのは難しい。
まして「愛」。これは「神を愛する愛」と「互いに愛する愛」、いずれにせよ「成長させる愛」とのこと。これにいたっては、努力で手に入れることは完全に不可能。

上へ

作成:2005年1月12日

布忠.com