聖書研究
マタイによる福音書18章15~20

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心を一つにして

【マタイによる福音書18章19節】
心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

【聖書教育誌の解釈】
口語訳聖書では「心を合わせるなら」と訳しているこの語は、もともとは「響きを共にする」という意味を持ち、「シンフォニー」という音楽用語の語源に当たります。シンフォニー、交響楽のように、互いの響きを重ねるようにして共に祈り、共に礼拝を捧げるのです。その意味で教会の礼拝は「交響楽」を奏でるようなものです。(「1.心を一つにして」より引用)

「心を一つに」(19節)とは「一つの声」という意味でシンフォニー(交響曲)の語源となった言葉です。(少年・少女科より引用)

交響楽を奏でる時、ステージ上には数十の楽器があるが、どんなに音の小さな楽器であっても、あるいは一曲中に一拍しか出番のないような打楽器であっても、不要なものはない。
そこには数十人から曲によっては百人を越える演奏者がいるが、コンサートマスターからはじまって、打楽器や隣の巨大な管楽器の陰に隠れてしまうような目立たない立ち位置にいる一人まで、すべてが必要とされており、ただ役割の違いがあるだけである。
そしてもし、舞台の右端にいる演奏者に、左端にいる演奏者のしていることがわからなかったとしても、指揮者のリードに従って楽譜にそって演奏するとき、一つの心で全体が調和して聴く者に音楽を届けることができる。

同様に、礼拝のとき、教会には多くの人がおり、人々から尊敬される人もか弱き幼子も、先頭に立って奉仕する者も初来者もいる。しかし、そこには不要な者はいない。そして、聖霊のリードに従って聖書にそって礼拝するとき、一つの心で全体が調和して主に礼拝をささげることができる。
「礼拝に行く」と「礼拝しに行く」はまったく異なる。礼拝とは「出席するもの」ではなく、全員でともにつくり上げ、心を一つにしてささげるものである。

交響楽を奏する大人数のオーケストラだけでなく、数人規模のアンサンブルやロックバンドでも、三人だけのジャズトリオや、たった二人のピアノの連弾でも、心を合わせなければ破綻する。心を一つにするなら、最近話題の兄弟ピアノ連弾「レ・フレール」のような驚異的なパフォーマンスも可能となる。
『聖書教育』は語源的にシンフォニーを例としているが、二人または三人でも心を一つにして祈るなら、神に届かないはずがない。

罪のゆるし

【マタイ福音書18章18節】
あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

【聖書教育誌の解釈】
(1)「解く」と「つなぐ」とは、罪を赦すことと、赦さないことを表しています。
(2)教会にはそのような権威が与えられています。罪を赦すという権能を、キリストは教会に与えられたのです。
(3)しかし、人の罪を赦すということは、人間には考えられないことです。
(4)そこで、私たちに求められていることは、教会に生きる私たちが、本当に罪の赦しを知っているか、ということです。
(5)(中略)教会のなすべきことは、つなぐこと、解くこと以上に、罪の赦しを祈りあうことなのです。

(「2.罪のゆるし」より引用。改行および番号は引用者の付与)

上記の『聖書教育』の解釈は、少々納得しにくいところがある。

(2)で教会には権威が与えられているとしているが、主イエスが弟子たちに「あなたがたの決定が天で支持される」と言っているのだから、これは正しい。
次に、(1)(2)をあわせて、その教会に与えられれた権威とは「罪を赦す権能」であるとしている。
ところが(3)では「人の罪を赦すということは、人間には考えられないことです。」と否定している。まあとめると、「聖書にこう書いてあるが、それは受け入れるわけにはいかない」ということになる。
罪を赦す権威が地上の教会にあると言いたいのか、ないと言いたいのか。ところが(4)で急に、「教会に与えられた権威」の話しだったはずが「罪の赦しを知っているか」という話しにすりかわってしまった。

あえて「すり替え」という強い表現をしたのは、このすり替えの結果として(5)の結論が「キリストの言葉(つなぐこと/解くこと)などよりもなすべきことがある」という、聖書の宗教とは思えないものになってしまっているからである。

キリストは「あなたがたは(ラビから)こう聞いている。しかし私はこう言う。」というスタイルで、伝統的な律法解釈よりも権威のある教えを示した。これは宗教家たちの「神の言葉を差し置いて人間の言い伝えに固執している」姿勢に対する批判であった。
上記の聖書教育の解釈は、「あなたがたは(キリストから)こう教えられている。しかし私はこう言う。」と、みずからをキリスト以上のものとしているのである。

当たり前だが、聖書教育と名乗りながら、みずからが聖書以上であるなどという意図でこのような解釈をしているはずがない。
だったらどうして上記のような解釈になってしまっているのか。それは「解く/つなぐ」を「赦す/赦さない」と「解釈」してしまったためである。

この箇所で使われている「解く」「つなぐ」は、律法に関して用いられる法律用語であり、その意味は「赦す」「赦さない」ではなく、「許す」「許さない」である。
「prohibit(禁止)」「permit(許可)」としている現代英語訳がニュアンスが明確だろう。

18節は、「あなたがたが禁じたことは天でも禁じられ、あなたがたが許可したことは天でも許可される。」ということである。
それまでは、「つながれているか/解かれているか」の裁定は、律法が(というよりもむしろ、律法に人間が付加した細則が)基準となっていた。
それに対してイエスは「これからは、キリストである私を基準として、教会が裁定する。その教会の裁定は、天においても承認される。」と言っているのである。
律法の完成者であるイエスの名によって二人または三人が集まるところこそ教会であるから、教会にはキリストの臨在があり、二人または三人が心を一つにして求めることは、御子をとおして父に聞かれる。つまり、教会が地上でつなぐ(禁じる)ことは天上でも禁じられ、教会が地上で解く(許可する)ことは天上でも許可される、という宣言である。

その具体例を使徒15章に見ることができる。ここでエルサレム教会は、異邦人キリスト者に対して「ただ、偶像に供えてけがれた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けること」のみが禁じられ(つながれ)ているとして、ユダヤ人があれほどこだわってきた安息日規定や割礼までをも免除する(解く)と決定した。地上の教会のこの決定のとおりに天上でもつながれ、そして解かれているからこそ、現在の我々異邦人キリスト者も安息日規定や割礼規定から免除されているのである。(→蛇足1)

教会憲章

【マタイ福音書18章15~17節】
兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。…それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

【聖書教育誌の解釈】
教会の規則や細則の中に「戒規」を設け、「除籍」や「除名」の実施に踏み切ろうとするところがないとは言えません。そのような戒規が、教会の交わりにおいて、本当に必要なのでしょうか。

四福音書で「教会」と出てくるのはマタイ16:18とマタイ18:17だけであることから、この2箇所は「教会憲章」と呼ばれているとのことである。

さて、上記の『聖書教育』からの引用は、「裁いてはならない」とのキリストの命令からも考えるべきであろう。マタイ18章は、今日の箇所の直前に迷い出た一匹の羊のたとえが、今日の箇所の直後に「七の七十倍までも赦しなさい」との命令が記録されており、いわば「失われた兄弟の回復」というテーマの中に今日の聖書箇所がある。戒規の適用とは裁くことであるから、それは軽々しく行われてよいことではない。

では、失われたその一匹が他の羊を迷い出させるような場合、つまり一人の兄弟の回復を求めることが他の兄弟姉妹を失うことになるような場合はどうしたらよいのか。たとえば、いつまでも改心しない兄弟をいつまでもそのままにしておくことが、他の兄弟姉妹の混乱や分派あるいは教会離れにつながるような場合である。「教会内の人間関係」が理由でつまづき、その教会から、あるいはキリスト教自体から離れた人は、実際に少なくない。

『聖書教育』は「人からたずねられて、初めて認めるということのないように、その前に気づいて、神のみもとに戻ることが求められています。兄弟姉妹に迷惑をかけるほどに、かたくなになってはなりません。」と勧めている。確かにそのとおりである。しかしそれは15,16節で扱っていることである。
17節で扱われているのは、すでに教会の言うことも聞かないほどかたくなになっている者を教会はどうするべきかという問題である。『聖書教育』は「戒規に機械的に当てはめる前に、教会がなすべきことが必ずあるはずです。」と言う。確かにそのとおりである。しかし17節で問われているのは「教会がなすべきこと」をなした上でそれでも聞き入れない場合にどうするかであり、しかも「その場合にはこうせよ」というキリストの「命令」である。

ここで18章全体の構成に注目したい。
新共同訳では15~20節を一つの段落として「兄弟の忠告」と小見出しをつけているが、よく見ると、忠告に関することは17節までであり、18節以下はその根拠として教会に与えられている権威について語っている。さらにこの箇所を含めて6節~35節の全体が、前述のとおり「失われた兄弟の回復」をテーマとしている。このような流れの中で今日の聖書箇所を見ると、前後を含めて次のような流れで教えようとしていると言える。

「戒規が本当に必要か」という『聖書教育』の問いに対しては、「必要である」という答えしかありえない。でなければ「悔い改めない者を悔い改めない状態のまま受け入れる」という決定を教会がすることになり、その決定も天でも支持されるのであれば無条件万民救済となり、「十字架によるあがないは我がため」と受け入れなくてもよいということになり、つまりは主の受難を茶番にしてしまう。
しかし、その戒規の適応はギリギリの選択であらねばならない。それが「7の70倍」の教えであるが、これはもちろん490回目まで赦し、491回目で戒規を適用せよという機械的なことではない。際限なく赦せと言われている中で、しかしどこかで教会は決断もしなければならないのである。

ここで、ペトロが十字架を妨げようとしたとき、主イエスが「サタンよ、引き下がれ」と宣告したことを思い出したい。これは除籍や除名にも相当するものである。いや、神であるキリスト自身からの「引き下がれ」という宣告は、除籍や除名どころではない。しかもサタン呼ばわりまでしているのである。
教会のわざを妨げる者が現われ、最終的に「17節に従うか否か」を選択せざるを得ない時が来たらどうするか。「キリストはこう命じているが、私たちは(キリストの言葉に逆らって)人道的でやさしい人たちでいたい」と言うのか。(繰り返しになるが「そのような状態にならないようにする」というのは15,16節の話である。)
しかし、機械的に戒規を振りかざせばすむことではないというのは、『聖書教育』の言うとおりである。その時に教会が問われるのは、ペトロに「サタンよ、引き下がれ」と言わなければならなかった時のイエスの痛みを感じられる教会であるかどうかではないだろうか。
また、ペトロに宣告したとき、主はペトロが回復されることを望まなかったはずはない。だとしたら、戒規で裁いて一件落着ということにはならず、そこからさらに回復を祈り続ける教会であるかどうかが問われる。

こう考えてくるとき、18節以下は単に「教会には権威が与えられているんだ、えらいんだ」ということにはならない。17節を適用するには「私たちが今ここで地上の教会で決定することは、そのまま天でも支持されてしまうのだ。それほど重要な決定を、私たちは今しようとしているのだ」という認識をもってあたらなければならないはずである。

福音との出会い(新来者と共に)

【聖書教育誌の視点】
いつのまにか、一人になってしまう人がいます。または一人を好む人もいます。主イエスは「二人または三人が」と言われます。しかし、一人ではだめなのでしょうか。どうして、二人または三人なのでしょうか。これを機会に、意見を出し合ってみましょう。(成人科より引用)

正直なところを言えば、私も「一人を好む人」かもしれない。しかし「一人ではだめ」ということは聖書に書かれている。

集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ10章25)

「二人または三人が集まれば主の臨在があるので集まったほうがよい」のではなく、「集まるべき」なのである。その理由は「ますます励まし合う」ためである。
励ましあうことは、独りではできない。「互いに愛し合いなさい」も独りではできない。だから一人でいてはいけないのである。

他にも、二人または三人の証人によってものごとが立証されること、主ご自身が弟子たちを派遣するときも二人ずつであったことから、私たちが信仰を証しすることも独りではできない(するべきではない)ことであると言える。

参考と蛇足

参考(1) 今回のテーマ

『聖書教育』2007年10・11・12月号概論

【今月のテーマと流れ】
教会形成にかかわる実際的なことがらは、これまでも学んできましたが、11月はさらに根源にさかのぼって教会とは何かを学びましょう。教会は聖霊によって生まれました(使徒2:1~4)。ですから聖霊を語ることはそのまま教会を語ることになります。教会を理解すると、聖霊の働きがわかってくるのです。
【概論】
教会とは、神への礼拝を捧げる神の民、会衆です。共に神への感謝を言い表すことによって、教会は教会となります。ですから、会衆としての教会は、そこに集う一人一人が心を合わせて祈ることの大切さを体験していきます。何より、罪の赦しを祈りあうことが常に求められています。

参考(2) 心を一つに

出エジプト記24:3
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
使徒言行録4:24
これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った
ローマの信徒への手紙15:6
心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。

参考(3) 「つなぐ」と「解く」

「解く/つなぐ」は、ラビたちが律法に関して用いていた法律用語であり、「律法が禁じていない/禁じている」ということを表す。つまり「許す/許さない」を表すものであって、「赦す/赦さない」と解釈されるものではない。

たとえばマタイ12章で主が麦畑を通るときに弟子たちが歩きながら穂を摘んだ場面である。
ここでファリサイ派は、「穂を摘んだこと」を責めてはない。それは盗みではなく、旅人が飢えをしのぐためにそうすることは、律法で許されている(解かれている)からである。ファリサイ派が責めているのは「安息日に穂を摘んだこと」であって、その理由は安息日の労働が律法によって禁じられている(つながれている)ためである。

参考(4) 主の発言の時系列性

たとえばルカ福音書は、冒頭で記者自身が、資料を収集して編纂したことを証言している。ただしその編纂の仕方や方針は明確にされてはいない。おおまかには、クリスマスで始まり、十字架を経て復活の記事へと続いていることでは時系列にそっているが、全編が時間を追って資料を並べたものであるかはわからない。
これは四福音書ともについていえることであり、だから福音書ごとに、できごとの起きた順番が入れ替わったりもしている。全体像としては時間を追いながら、ある程度はテーマごとに資料をまとめていると見るべきであろう。その例がマタイ福音書のいわゆる「山上の垂訓」の箇所であり、そのまま読めば「山にのぼり、教え、山をおりた」となるが、実際には、たびたび山上で語られた教えがまとめられたものであろう。

今回、18章が主の発言順に記録されているという前提で論じたが、実際に発言順の記録となっているかは保証されていない。
ただしこれは、聖書が神の霊の働きによって書かれたということを否定するものではない。発言順に記録されているのではないとしてもそれは、機会をとらえては語られた主の言葉が、福音書記者の上に働いた聖霊の導きによって現在のような配列に編集されたということになる。

参考(6) 参考文献

『イエスはヘブライ語を話したか』
ダヴィッド・ビヴィン/ロイ・ブリザード〔著〕、河合一充〔訳〕、ミルトス社刊、ISBN4-89586-137-6
(「解く」「つなぐ」の解釈はこの本の「第二部 誤解されたイエスの語録」を参考にした。)

『新聖書注解 新約1』
いのちのことば社
p148

蛇足(1) 現代における安息日規定

エルサレム教会は、キリスト者は安息日規定や割礼規定からも解かれていると決定した。ただし使徒言行録の記述を見る限り、これは「安息日規定につながれていない」ということだけを言っており、神への愛によって自主的に律法を守ることを禁じるものではない。
欧米には、ユダヤ人キリスト者が旧約の律法を遵守しているからということで、キリストの救いに対する彼らの信仰を疑う声もあると聞く。しかしエルサレム教会の決定は、「もはや律法につながれてはいない」という裁定であって、神への愛のゆえに律法を大切にすることを禁じてはいない。

何より私たち自身、日曜日に教会に集まるのは律法の安息日規定によるものではなく、主への愛によって自主的に教会に集まっているはずである。
「日曜日は安息日だから」という表現を聞くことがあるが、安息日が日曜日(週の初めの日)に変更されたなどという記述は聖書のどこにもなく、初代教会が安息日を守りつつ日曜日にイエスをキリストとして礼拝していたことも知られているとおりである。私たちが「日曜日は安息日」というのは、律法につながれているからではなく自主的な選択として、主の復活の日に世の業を安息して集まっているのであって、「主の安息日」ではない。

それ以前に、エルサレム教会の決定は「異邦人の兄弟」に向けてのものである。
「すべてのクリスチャンは旧約律法から解放されていなければならない。ユダヤ人キリスト者も同様」というような考え方は、置換神学的による誤りである。福音はユダヤ人から取り上げられて非ユダヤ人クリスチャンに渡されたとでも考えるならともかく、実際には、神がイスラエルに与えた特別の使命は取り消されていない。そんな記述は聖書にはなく、パウロなどはむしろイスラエル人について「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」と断言している。(ローマ11章29)彼らがつまづいているとしても、それは異邦人の救いが完成するまでの一時的なことであり、その時には彼らは回復されるのである。
イスラエルが選ばれたのが、天地の主の基準において評価されるところがあったからだというなら、マイナス評価によって取り消されることもあるかもしれない。しかし何のいさおもないままに神から一方的に選ばれたのだから、つまづいたくらいで選びが取り消されるはずがない。もし彼らがそのまま打ち捨てられるとしたら、ましてや私たち異邦人キリスト者という接木はもっとあっさり打ち捨てられるだろう。
イスラエルは選ばれ、つまづいたが再び回復される。しかも彼らが回復されるとは、祭司の民族として回復されることである。メシアニック・ジューとはつまり「大祭司イエス・キリストを知って回復された祭司民族」なのである。彼らに向かって異邦人クリスチャンが「いつまで律法につながれているんだ」などというのは、滑稽なだけであろう。


テキスト
日本バプテスト連盟「聖書教育」2007年10,11,12月号
テキストのテーマ
ゆるしを求めて祈り合う
初稿
千葉バプテスト教会「静聴の時」担当。2007年11月18日。(ただしこのページの内容は、「静聴の時」を担当した際の内容をもとにさらに展開したもの。なお、『聖書教育』では平仮名で「ゆるし」と表記しているが、このページでは「赦し」と「許し」を明確に区別するため、引用者の判断で適宜、漢字に置き換えた。)
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作成:2007年11月18日
更新:2014年02月10日

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