聖書研究
マルコによる福音書2章1~12

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2004年10月10日の礼拝メッセージ

礼拝メッセージは、床に乗せて運ばれた中風患者が癒された記事からだった。好きな箇所からのメッセージを聞くのはうれしい。

今日のメッセージでは、イエスが「彼らの信仰を見て」の「彼ら」とは、中風の者を運んだ4人と中風患者の5人ということだったけど、自分の読み方とはちょっと違った。
まず、「人々」が中風の者を四人の人に運ばせたというのだから、中風患者の周りには4人以外にも「イエス様なら!」という人がいたと思う。あの家の屋上には、だからもっと人がいただろうとも思う。
そして中風患者自身は、イエスの「彼ら」には入ってないように、口語訳の文脈からは感じる。口語訳の文章は主語がはっきりしないのだけど、文脈からは「彼ら」とは「中風の者を四人の人に運ばせた『人々』」のように受け取れる。だとするとイエスは、中風患者自身ではなくその周囲にいた人たちの信仰を見て、中風患者の罪を赦し体を癒したという記事ということになる。

私自身、昔どうしても祈れない状態になったことがあった。それまでは、祈りが聞かれたなかったときに「御心じゃなかったか、時ではなかったのだろう」と自分を納得させられる(あきらめられる)程度の祈り方しかしていなかったのだと思う。それが突然「この祈りだけはどうしても神様が聞いてくれなければ困る」という事態になったとき、「祈っても聞かれなかったどうしよう」という恐れから、祈ることができなくなってしまった。
そのときに思い出したのが、このマルコ2章だった。

もしかしたら中風の者は、ベテスダの池にいた人のように、もうあきらめてしまっていたかもしれない。それとも、自分の病気は罪のためと考えて、あのローマ人の隊長のように「自分はイエス様のそばに行く資格はない」と考えていたかもしれない。(だからイエス様は「子よ、あなたの罪は赦された」と最初に声をかけたのではないだろうか)
けれど周囲の「彼ら」には「イエス様なら!」という思いがあって、そしてイエスはそんな「彼ら」の信仰のゆえに中風の者に目をとめられた。本人の信仰ではなく周囲のとりなしのゆえに、そうされた(ように坂井には読める)。

こういう読み方は、「(本人の)信仰によって義とされる」という聖書の基本姿勢とは相容れないようにも思う。
けどその一方で、ローマの百人隊長のしもべも、ヤイロの娘も、ツロの女の娘も、本人の信仰ではなくその周囲にいた人の信仰のゆえにイエス様は憐れんでくださった。エジプトで苦しんでいたイスラエルも、祈ることもできずただうめいていたのに、主は彼らの先祖との400年以上も前の契約のゆえに彼らを救い出した。
ペテロの姑が熱病だったとき、(本人がどうこうではなく)周囲の人々が「さっそくそのことをイエスに知らせた」ことで、イエスは彼女を癒している。中風患者の記事とかなり似ている。

前述の祈れなくなった時の私は、まさにこのマルコ2章を思い出してすぐに教会に電話して、電話越しに伝道師に祈ってもらい、祈祷会でも祈ってもらった。そして、自分自身は祈れなかったのに、祈ってくれる兄弟姉妹の信仰によって主は私を憐れんでくださった。
このとき初めて、「祈りに支えられる」ということがはじめてわかったように思う。

今日のメッセージを聞きながら、あのときのことを思い出した。そして、今は少しは信仰も成長しているつもりだから、今度は自分が祈り手となっていかなければと。
ただ、私は「祈っています」と言われるのが大嫌いで、だから自分も使わないようにしている。来週、日本キリスト教協議会の働きで行われる「キリスト教教育週間」の今年のテーマは「祈っているよ」なのだそうだけど、どうにも好きではない言葉。なんでかというと、「祈ってます」といってくれる人を疑うわけではないのだけど、どうしてもその場だけの挨拶というか社交辞令のように聞こえてしまうから。
弱ってるときほど、密室での100万言の祈りの上での「祈ってます」よりも、その場で10秒でいいから一緒に祈ってくれるほうがいい。寄せ書きに「祈ってます」と書かれるよりも、一行でいいから祈りの言葉を書いてほしい。欲張りなのかなぁ。

2004年10月17日の礼拝メッセージ

先週のメッセージでは「周囲の人々のとりなしのゆえに、主が目をとめられる」と解釈できるような記録と「(本人の)信仰によって義とされる」という聖句との整合に頭を悩ましたけど、今週のメッセージではモロに信仰義認がテーマとなった。先週とはメッセンジャーが違うのだけど。

信仰というのは非常にプライベートなものだと思う。しかし主は、アブラハムのゆえに、数百万のイスラエルを救った。ヤコブのゆえに、ラバンの家を祝福した。ヨセフのゆえにポティファルの家を祝福し、さらには全エジプトを飢饉から救った。ラバンは異教の神像を拝んでいたし、ポティファルはエジプトの多神教を信仰していたはずだし、ファラオにいたっては自身が太陽神ラーの名を称号に持つくらいの現人神だというのに。

信仰義認は重要だと思うのだけど、一人のキリスト者(旧約時代は「ヤハウェ者」というべきか?)のゆえに祝福(神の顧み)が拡大していった記録はいくらでもあるわけで。ん~、どうなんだろ。

2004年10月24日のこと

礼拝後のお茶の時間に、先々週10月10日のメッセンジャーと話してみた。
メッセンジャー自身、問題の箇所について「イエスは『人々』の信仰を見て『中風の者』を癒された」と読んでいたのが、今回メッセージの準備をしている際に「中風の者も含めた『彼ら』」という可能性に思い至ったとのこと。
言われてみれば、とも思ったので、整理する。

口語訳の文章を読むと、この場面でイエスの前に来た登場人物は「人々」「四人の人」「中風の者」だ。中風の者を運んだ「四人」は、「人々」に含めていいと思う。問題は「イエスは彼らの信仰を見て」の「彼ら」に、「中風の者」が含まれるかどうかだ。含まれないとしたら、とりなしの大切さを伝える箇所ということになる(ただし信仰義認とからめるとややこしくなる)。含まれるとしたら、「子よ」というスペシャルな呼びかけと「あなたの罪はゆるされた」というスペシャルな宣言に強いスポットライトが当たる。

場面を思い浮かべてみよう。「彼ら」に中風患者が含まれなかったらどうだろう。

人々
評判のイエスって先生(ラビ)が来たぞ。お前さんも中風には長年苦しんできたが、あの先生ならきっと癒せるぞ。
中風患者
どんな医者の治療も、どんな先生の祈りも、俺の足を治すことはできなかった。俺は一生、中風と付き合っていかなきゃいけないのさ。
人々
何言ってんだよ。あの先生が治せなかった病人はいないんだぜ。あの人は確かに、神の人だ。
中風患者
これは俺の罪か、俺の先祖の罪で、神様から罰を受けてるんだ。神の人だと言うなら、なおさら行けないよ。
人々
行かない理由ばかり考えやがって、お前がそういうつもりなら、こっちにも考えがある。おいみんな、こいつをベッドごと運び出せ。俺は、あの方ならこいつを治せるって信じるぜ。

じゃあ、「彼ら」に中風患者も含まれていたとしたらどうだろう。

中風患者
なあ、噂のイエスって先生が近くに来てるっていうじゃないか、頼むよ、俺を先生のところに連れてってくれよ。
人々A
連れてけって言ったって、おぶってもかついでもお前の足は痛みが半端じゃないだろ。無理だよ。
中風患者
でもよ、これが最後のチャンスかもしれないんだ。医者じゃ俺の足は治せなかったけど、あの先生なら治せる。今を逃がしたら俺は一生このままだ。
人々B
おぶってけないならさ、ベッドごと運んじまえばいいじゃん。らい病さえ治す先生だ、中風なんて簡単に治せるって信じるぜ。だとしたらこいつのために骨折りするのもこれで最後じゃんか。
人々A
それもそうか、おいみんな、手伝ってくれ。

…どっちもありそうだなぁ。

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作成:2004年10月24日

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