聖書研究
出エジプト記5章18節

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【出エジプト記5章】
6節 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
18節 姦淫してはならない。

1.十戒について

1.1.日本人と契約

十戒に限らず神の戒めについて教会でしばしば言われることは、「キリスト教が契約宗教であり、西洋人は契約社会であるが日本人は契約に不慣れであることが、日本で福音がひろがらない理由の一つだ」ということです。
ですがこれは見解の相違でしかないでしょう。日本人はもともと約束を重んじる民族で、ただその形が西洋と異なるだけなのではないかと思います。

たとえば西洋の騎士と日本の武士ですが、西洋では騎士と君主の関係は契約です。だから契約が切れれば、昨日までの敵と契約を結び、昨日までの君主と敵対することも自由です。しかし日本では、鎌倉武士の「ご恩と奉公」以来、ひとたび結んだ主従は死ぬまで消えないのが本義です。戦国時代には、自分を用いてくれる主君を求めて諸国を渡り歩く者も出ましたが、たとえば義経と弁慶は契約書を交わしたでしょうか。現代でも、一宿一飯の恩義に報いる精神は日本人から完全に消えてはいないと思います。

むしろ、近代になって西洋流の契約という文化が入ってきてから、「口約束など軽んじてもいい、契約書がなければ約束など無効」という風潮が入ってきたのではないかと思うのです。さらに書面があっても、たとえば結婚というものが結婚届一枚の重さしかないから、離婚届一枚で解消できてしまう。夫婦の契りという目に見えない大切なものを、結婚届という目に見えるもので現してしまったがゆえに、「契り」というものが軽くなってしまったのではないでしょうか。

日本の商売にはツケという文化があります。買い手や客が「ツケておいて」というと、売り手や店が帳簿にツケておく、それだけで商売が成立するのです。契約書どころかサインもなしで、店は客を信用します。客も、あとで店が不正に過大な請求するんじゃないかなどとは疑いもしません。契約書などという目に見えるものでなく、目に見えない信頼関係です。

米沢藩には「棒杭の商い」というものがありました。内村鑑三の「代表的日本人」の中で、ケネディ大統領が「最も尊敬する日本人」にあげたという上杉鷹山を紹介している部分から引用します。

人里離れた道の傍らに、わらじや果物などを棒杭にぶら下げた、管理人のいない市場がある。人々はそこに記されている通りのお金を置いて品ものを持ち帰る。こういった市場で、盗みが起こるとは誰も思っていないのである。この様な商いが、現実として行われている。

今でも畑のまんなかや農協の駐車場などに、農作物の無人販売が見られます。ここには売り手と買い手の間に契約はありません。それどころか顔も見ていない。しかしこの商売は、契約による商売以上のものではないでしょうか。

「日本人には契約宗教はわからない」という前に、もっと日本人にわかる言葉、日本人にわかるやり方で福音を伝えられないでしょうか。わざわざ日本人にわかりにくい方法をとっているのではないでしょうか。
契約などといわずに信用と言えばよい。
神の恵みなどと言わずに、神から受けたご恩と言えばよい。(でないと人格性のない東洋流の「天」と区別がつかなくなり、ただの汎神論をイメージされるのではないでしょうか。)
もしかしたら、天皇の名のために戦地へ行ったという歴史が、お上のために命をかけることを愚かなことだと思わせるのかもしれません。何よりキリスト教界が、下の人権を強調するために上の権威を否定し続けてきました。しかし西洋人の理解がおよばないほどの主従関係を知っている(知っていた)日本人にこそ届く福音の伝え方があるのではと思っています。

2.第七戒について

さて、そろそろ第七戒に入りましょう。

2.1.ウェストミンスター小教理問答

ウェストミンスター小教理問答にこうあります。

問72 第七戒では、何が禁じられていますか。
答: 第七戒が禁じている事は、すべてのみだらな思い、言葉、行動です。

まず「思い」を、そして「言葉」を、最後に「行動」を禁じているとしています。
私たちはまず思いにおいて罪を犯します。「妻があるとしても、異性にひかれてしまうのは仕方ない」などと言い訳しながら。だからこそイエス様は、まず思いの段階で罪を離れるようにと戒められました。
次に私たちは、言葉で罪を犯します。このときたいてい「実際に行動しなければ、妻を裏切ったことにはならない」などと言い訳しています。しかし言葉で異性と必要以上の親密さを持つなら、実際に「行い」の罪を犯すまではあっというまかもしれません。

「すべてのみだらな」とありましたが、「姦淫」という言葉を辞書で調べると「みだらな行い」という説明が出てきます。「みだら」は「みだる」つまり「みだれる」から来ている言葉です。夫婦関係以外の性的な行いばかりでなく、健全な夫婦関係を保つ努力を怠ること、たとえば対等性を失うことなど、人と人の関係を乱すものは姦淫なのかもしれません。
ちなみに第三戒に出てくる「みだりに」も同じく「みだる」から来ている言葉です。人と神との関係をみだすことも姦淫なのです。

2.2.カトリック

ウェストミンスター小教理問答の問72を、カトリックの祈祷文と照らしてみましょう。「回心の祈り」という、ミサで必ず祈られる祈祷文です。

全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。

とりなしを頼む対象がいかにもカトリックですが、「思い、ことば、行い、怠り」による罪と、先ほどのウェストミンスターに比べて「怠り」というのが追加されています。
先に挙げた「思い、言葉、行い」による罪は結局のところ、祝福された婚姻の関係を保つための努力を怠っているといえるわけです。サタンの誘惑を警戒する努力を怠っているのです。「怠り」を罪に数えているカトリックは人間をわかっているなと思います。(ペトロ以来とすれば)だてに約2000年も人間を見つめ続けてきていないなと。

カトリックにふれたついでに、「カトリック要理」というのがあるのでちょっと開いてみます。プロテスタントの第七戒はカトリックでは第六戒にあたるのですが、その中に「人は独身者、既婚者のそれぞれの身分に応じて貞潔を守らなければなりません。」とあります。
この独身者というところが、自分の独身時代をかえりみたとき果たして私はこの箇所を担当する資格があるだろうかと。
ただ、言い訳を試みるなら、私は姦淫の罪というものを知らなかったと思います。十戒のほかの戒め、たとえば殺すなとか、うそをつくなとか、神様以外のものを礼拝するなということは、教会学校でも教わりました。けれど姦淫については、教わった記憶がありません。第七戒だけ扱わないということはないでしょうが、少なくとも子供にわかるようにはかたられなかったのでしょう。だから小学生の私は、社会通念上というか、一般的にいって、成人雑誌はあまり堂々と見ていいものではないらしいというくらいの後ろめたさはありましたが、聖書に結びつけて神様が明確に禁止しているという、罪の意識はありませんでした。じゃあ教会学校でどう教えたらいいのか、まったくわかりませんが。

2.3.もっとも危険な罪

それにしても姦淫の罪は、人間にとって、というか女性のことはわかりませんが男にとっては、もっとも陥りやすい罪だと思います。
先ほど、独身の頃にという話をしましたけれど、今も言葉による罪は意識して避けているつもりですが、思いによる罪まで退けられているかは怪しいところです。

なぜ陥りやすいかというと、いろいろ理由は想像されるのですが、ひとつには「言い訳しやすい」ということがあるのではないかと思います。先の表現で言えば「思いだけ、言葉だけで、罪の行いを実行してはいない」と言い訳しているうちに行いにいたってしまう。「結婚していても異性にひかれてしまうのは仕方がない」と言い訳しながら、思いによる罪を犯す。「実際に姦淫を行わなければ、罪ではないだろう。それにある程度は社交辞令だ」などと言い訳しながら、言葉の罪を犯す。けれど不必要に異性と近づくような言葉を交わしていたら、行いの罪まではすぐです。
あるいは「ポルノ」を「アダルト」と言い換え、「売春」を「援助交際」と言い換える。言い換えるというのはもとの言葉に後ろめたさがあるからに違いないのですが。

2.4.守れない戒律ではない

しかし、陥りやすいとはいえ、どうしても誘惑に抵抗できないものでしょうか。
そもそも十戒は、そんなに難しいことを要求しているでしょうか。普通に生活していて、「殺すな」という戒めを守るのと犯すのとどちらが難しいでしょうか。盗むときに「これは悪いことだけど」と思わないことがあるでしょうか。隣人をむさぼるときに、自分の心根のいやしさにせめられないでしょうか。

第一コリント10:13に「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。主は私たちに十戒を与えると同時に、罪の誘惑に耐えられるよう、私たちの心にリミッターをしかけてくださっているのだと思います。であれば私たちは、姦淫の罪を犯させようとする誘惑にも勝てるはずです。

何よりも私たちには、主イエス様がおられます。まったき神であると同時にまったき人、まったき男性であったイエス様には、性的な誘惑もあったはずです。
もしイエス様に性欲がなかったというなら、私はイエス様に文句を言ってもいいと思います。「生身の男にとってこの敵がどれほど勝利しにくい相手か知りもしないで、『みだらな思いで見るだけで罪だ』などとよくも言ってくれたものだ」と。
しかし実際には、イエス様はすべてを御存知で、しかもすべての誘惑にすでに勝利しておられるのです。ヘブライ書4:15にこうあります。

この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。

性の誘惑が私たちにとってもっとも弱点であるなら、この誘惑をこそイエス様が知っていてくださるのです。イエス様もわたしたちと同じように、性的な誘惑にあわれたのです。だからイエス様は、私たちの弱さを思いやることができるのです。そしてイエス様は、誘惑にあわれたけれども、罪は犯されなかった。私たちが誘惑されるほかのすべての罪と同じです。イエス様は、私たちが戦っている戦いを、すでに戦ってくださった。そしてすでに勝利してくださった。私たちが弱くても主は強いという事実こそ、私たちがサタンの誘惑に抵抗するときの最も頼りになる武器です。「主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」なのです。

3.神との関係を乱す

3.1.十戒の構成

十戒について、第一戒から第四戒は人の神に対する関係を規定していて、第五戒から第十戒は人の人に対する関係を規定している、という分類があるそうです。
けれど第五戒は、父なる神を敬うことと無関係ではないでしょう。第六戒について、神は死んだと宣言した哲学者がいたことを思います。第八戒、私たちは神からなにものも盗んだことはないでしょうか。第九戒、私たちは神に対して偽証をしていないでしょうか。第十戒、私たちは神に対してむさぼってはいないでしょうか。
そして第七戒、私たちは神との関係を乱れさせていないでしょうか。

3.2.聖書教育から

聖書教育では、男性による買春を上げ、男性と女性が対等でないことが最大の問題であるとしています。そのために18節を「婚姻を破る」と訳し変える危険を犯しているほどです。(何が危険かについては蛇足(1))
しかしこれは、姦淫の問題ではなく姦淫以前の問題だと思います。弱肉強食の進化論を教えることで、現代文明は強いものが弱いものを支配することを認めているのです。昔はやった歌に「弱い者たちが、夕暮れ、さらに弱い者を叩く」という歌詞がありましたが、男性の女性に対する差別も、上司の部下に対するパワーハラスメントや、少年によるホームレス狩りや、大国による小国への圧迫などと同じ文脈で扱われるべきものだと思います。いじめ、ひったくり、監禁事件なども同様。強者優位の社会であるなら、男性が腕力で劣る女性を性欲と支配欲の下に置こうとするのは自然だし、金のある先進国の男が貧しいアジアの女性を買うのも自然、欲望の向く先がより弱い低年齢層を対象とするのも自然でしょう。
私は、扶桑社版の歴史教科書に対するキリスト教界の反発に対して、かなり醒めたところがあります。「この世の支配者に都合がよい弱肉強食を主張する進化論を教え、神の創造のわざを否定する教科書」に対しては沈黙しておきながら、なぜいまさら扶桑社版の歴史教科書にだけ反対するのかがわからないからです。

もうひとつ、日本には、夫の女遊びを妻が黙認する風習がありました。十分な経済力がある場合に限られるかもしれませんが、妻との夫婦関係を果たしている限り、むしろ妾の一人も囲えないようでは甲斐性がないくらいのことを妻の側が平然という文化です。そこには姦淫とか、婚姻を破るという意識はない。もちろん、本妻をないがしろにするようなことがあれば、それは婚姻を破ることになりますが。
たとえるなら、アブラハムとサラとハガルの関係です。アブラハムの本妻はサラであり、ハガルは子を授かるための妻の代理です。側室ですらない。ハガルがその地位にいる間は、アブラハムとサラの婚姻は破られていませんでした。しかしハガルが本妻サラを押しのけようとした時はじめて、婚姻が破られる可能性があらわれ、それにサラは抵抗したのです。
そもそもユダヤ教は一夫多妻を(奨励しないまでも)許容する宗教です。ヤコブには2人の妻と2人の妾がいましたし、ソロモンに至っては妻と妾あわせて1000人です。一夫多妻は現代のユダヤ教でも許容されているそうです。(ただしそれぞれの妻と正式に婚姻することが必要で、正式に婚姻していないのなら姦淫の罪に定められる。)
それぞれ、その時代の文化です。現代の私たちの文化や倫理を基準に裁いても意味がありません。できることはただ、現代において現代の倫理や人権意識を基準に裁くことだけです。

また、「欧米はレディーファーストの文化なのに日本は」などという比較がされることもありますが、大事にするしかたの違いだけだと私は思います。
米軍のアフガン侵略以前、イスラム法のもとで女性たちが差別され肌を出す服さえゆるされないと黒柳徹子も言っていました。では、肌を出すことを許さず男性が未婚女性に触れただけで違法となるイスラムよりも、水着まがいの服を着て女性が街を歩けるかわりにニュースにもならないほどレイプ事件が日常茶飯事のアメリカのほうが、より女性を大事にしていると言えるのでしょうっか。
人は、大切な宝ほど、一目にふれないところに置いて守ろうとします。大事な宝石を、誰でも持って行ける戸口に置きっぱなしにする者はいません。家の奥にしまっておくのが普通になってからは、女が家から出ようとすることを必要以上に制限するようにもなりましたが、そもそも農耕社会は豊穣を象徴する女性を大事にする社会です。それが高じると、たとえば豊穣の女神が嫉妬するからなどといって祭りに女性が関わることを禁じるようなことにもなりましたが、それさえも女性の地位が高かったことを意味すると言えなくもない。
逆に欧米人は、レディーファーストなどという一方で、人に罪が入ったのをエバのせいにし、創造の順序をもとに女は男に劣るというなど、聖書を使って女性差別をする文化です。女性差別が洋の東西を問わずあるとしても、神の言葉を悪用しているほうがよほど悪質なのではないでしょうか。この点で、マタイ5章28(みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。)および5章32(不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。)が、どちらも「男性または夫に対する戒め」として語られていることは重要です。

そもそも女は男を助けるために創造されました。女が助けなければ男はどうしようもないくらいなものだったと言えないでしょうか。助けられる者よりも助ける者のほうが力がなくてはなりません。おぼれている人より泳ぎが下手なライフセーバーはいません。人が神に助けを求めるのは、神が人より力があるからです。
エデンの物語にしても、サタンは、エバさえ誘惑すればアダムなどどうとでもなるという戦略だったとも読めます。アダムは誘惑に屈しなかったのではなく、サタンから相手にもされなかったのです。

たとえるなら、夫が前線で妻は城なのだと思います。仮に前線が破られても、城が落ちなければ敗北ではなく、また前線を立て直してサタンと戦うことができます。しかしもし城が落とされたなら、前線はそれ以上戦えません。役割分担という言葉を使うと「それが差別のもとなのだ」と言われそうですが、信頼関係を持ってそれぞれのつとめを果たすことが肝要で、この信頼関係を乱すものがすべて姦淫なのかもしれません。
私は意識して、外では妻を「家内」あるいは「嫁」と呼んでいます。彼女が差別されていると感じているかどうか話し合ったことはないのですが、私としては、この呼び方の重さを認識して使っているつもりです。少なくとも、私自身が取って代われるような対等な存在とは思っていません。彼女が私にとって城であるとまでは、今回の準備をするまで思っていませんでしたが、彼女の信仰と執り成しによって主が私を守ってくださっていることはいつも感じています。


蛇足(1) 直訳より意訳

「聖書教育」誌で、十戒の各条文に対し「直訳風私訳」を試みているのは興味深いチャレンジです。しかし慎重でありたいとも思います。みずからの意図のために聖書の言葉を改変するのは、たとえそれがよい目的のためであっても非常に注意を要するからです。
エホバの証人が使う新世界訳に対して「新約のキュリオスまでエホバと訳し変えている」と言いながら、私たちの聖書も旧約での主の御名(いわゆる神聖四文字)を「主」と訳し変えています。文語訳の世代のキリスト者が「われエホバ…」と暗唱しているの聞くたびに、口語訳以後の世代である私は「主の御名」をあがめることができなくなっているのだなと思わされます。

また、「直訳風私訳」というのも気になります。というのも、直訳というのはかえって意味が通じなくなる場合が多いのに、直訳という言葉自体に「よりオリジナルに近い」というイメージを持たせる力があるからです。しかし「直訳」は、背景の文化や歴史がわかっていて読むのでなければ、意味がないばかりかミスリードになりかねません。
たとえば、どこか乾燥した土地の民族が、雨の日に「今日は良い天気」という表現をするかもしれません。しかしそれを日本語に直訳した場合、ほとんどの日本人読者は「その日は晴れだったのだな」と受け取るでしょう。直訳を提示するということは、もとの文章の意図を読者が判断しなければならなくなるということであり、容易に読者をミスリードすることができるものです。しかも「私訳」と言っている内容は、訳ではなく解釈です。

古い邦訳では、「愛」を「ご大切」と訳したとか。あるいは、かつて「I Love You」という英文を「あなたのためなら死んでもいいわ」と訳した人がいたそうです。
これらのほうが「私はあなたを愛する」よりもよっぽど原意が通じるような気もします。意訳の方が直訳より常にすぐれているとは言いませんが。

2008年1月1日追記:
申命記5章18節(新共同訳で「姦淫してはならない。」)を、聖書教育の「直訳風私訳」では「そしてあなたが婚姻を破るはずがない。」としています。
ヘブライ語ではこの節は2つの単語であり、ヘブライ語に英語を逐語的に対訳させた「Interlinear Hebrew-English Old Testament」(John R.Kohlenberger III)によるとそれぞれの単語には「and-not」「you-shall-commit-adultery」と当てられています。これを和訳するなら(直訳をさらに直訳するというのも誤差が大きくなるだけのように思いますが)「あなたは姦通を犯すであろう、ということは否定される」つまり「あなたは姦通しない」としかならないでしょう。「婚姻を破るはずがない」とした「直訳風私訳」とは、直訳という言葉の影響力を使ってみずからの解釈をすり込もうとするものではないでしょうか。

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作成:2005年8月21日
更新:2008年2月16日

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