聖書研究
ペトロの手紙一3章8~12

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[埼玉和光教会(日本キリスト教団)の「聖書の学びと祈り会」(2003年12月3日)より。(学び会の内容からさらに展開。)]


今日の箇所は、新共同訳で「正しいことのために苦しむ」と見出しをつけられた段落の前半で、善について。

謙虚で、侮辱せず、悪に悪を報いないということについて。最近「日韓2000年の真実」(名越二荒之介)を読んでいるのだけどその中に、「反日が多い韓国でも東郷元帥は尊敬するという人が多い」という記述があった。東郷元帥率いる連合艦隊がバルチック艦隊を破ったとき、東郷をネルソン提督や李舜臣将軍になぞらえて賞賛する声があがったのだが、そのとき東郷元帥が「自分は李舜臣将軍には遠く及ばない」と答えたことが、東郷元帥を尊敬できるという理由なのだそうだ。
李将軍は、秀吉軍に押されまくっているのに平和ボケしきっている国の中でろくな支援もないまま、戦わなければならなかった。それに比べれば、国民の広範な応援のもとで戦えた自分がどれほどのものだろうか、というのが東郷発言の真意と伝えられているが、日露戦争当時の日韓の国力をくらべれば、東郷元帥は「あんなボロボロの国の将軍と比較するとは無礼な」と侮辱する事もできたはずだ。けれど元帥は、謙虚に、侮辱もせず、崩壊しつつある国の英雄に最大限の賛辞を贈った。その結果、現在の反日嫌韓の情勢下で、「東郷は認めてもいい」と言わせることにつながっている。
今日の聖書箇所は、司会のSさんによれば「神の前で謙虚に」ということだそうだが、人と人、国と国でも、謙虚に、侮辱せず、悪で悪に報いないことがどれだけ大切だろうかと思う。
(蛇足だが、日本を破った敵将であっても戦いが終われば「敵ながらあっぱれ」と賞賛を惜しまないのが日本人の伝統だ。東郷元帥を李将軍になぞらえたこと自体が日本の国民性だろう。秀吉の朝鮮征伐は、朝鮮から見れば侵略かもしれない。それにしても、負けたのならともかく新羅(と唐の連合軍)は日本に勝ったのに、いまだに秀吉のことを言うのは韓国人の国民性か)

Uさんは、悪をもって悪に報いず、祝福という「神様からいただいた武器」で報いるのだ、と解釈された。けどこの「祝福」ってのがいつもよくわからない。
「祝福を受け継ぐ」は、アブラハム契約の成就を指すのだろう。ヤハウェはアブラハムに、おまえの子孫によって諸民族が祝福に入ると約束した。キリストの初臨によってこの約束が成就し、「諸民族」である私たち日本人も祝福を受け継ぐ者となった。
ではその「祝福」とは?Sさんは「神が、キリストによって『よし』とされること」と解釈された。けど「祝福を受け継ぐ」とか「祝福に入る」とかをあわせて考えようとすると、どうもイメージできない。

先週も思ったことだけど、冒頭の「心を一つにして」も、サン・テグジュペリの「愛とは見つめあうことではなく、同じ方を見つめること」を思い出させる。兄弟姉妹が心を一つにするとして、その一つにした心をどこに置くかといえばもちろん主というわけだ。

「平和を願う」というのは、キリストの「平和を実現する者」(口語訳では作り出す)が幸いだという宣言からは一歩後退しているような印象を受ける。キリストは、平和は積極的に実現させなければならない(その実現手段が常に問題になるわけだけど)と言ったのに、ペトロは、平和は願って追い求めればよいという。
しかしこれは詩篇34からの引用だから、「願って追い求めればよい」をキリストが「実現せよ」と改めたとも言える。けど、だとしたら引用が間違っているような。。。

今日の箇所一番の難点が「舌を制し」ってことだな。これが難しい。私にとっては「情欲をいだいて女を見る者はすでに姦淫している」という戒めの次くらいに難しい。言葉で、あるいはメールやチャットで、どれだけ人を傷つけ、そして自己嫌悪になったことだろう。もう自分でなんとかするのは無理な気がする。陶器師なる主よ、自制心の足りないしもべを哀れんで、作り変えてください。
Kさんが紹介してくださったのだけど、カトリックには「思い、行い、口、怠りによる罪をお赦しください」という祈祷文があって、「今日は省略」ということはなく必ず祈られるそうだ。さすが歴史がある分、人間をわかってるよなカトリックは。

今日の箇所を、現実に対して適用するのはとても難しい。たとえば米ブッシュ大統領を「神の名をみだりに口にしつつ、悪(911テロ)に対して悪(武力侵攻)で報いている」と批判するのは簡単だけど、彼を裁くことは正しいのか。あるいは、死刑というのは「悪(犯罪)に悪(国民の付託による殺人)で報いる」ことかもしれないが、坂井は死刑廃止論には今のところ賛成できない。

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作成:2003年12月3日

布忠.com