聖書研究
ペトロの手紙一3章1~7

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(埼玉和光教会(日本キリスト教団)の「聖書の学びと祈り会」(2003年11月26日)より。(学び会の内容からさらに展開。))

今日の箇所は「妻たちへの勧告」と「夫たちへの勧告」で、2章後半の「しもべたちへの勧告」にまして、読み方が難しいところだ。うっかり上っ面だけ読めば「女はおとなしくしてろ」ということになりかねない(実際、キリスト教圏での女性蔑視は「聖書にそう書いてある」と、適当でない解釈をしてきたことが大きい)

まず引っかかるのが、妻たちへの勧告の中で、アブラハムに従順だったサラを手本とせよという部分。サラって、そんなだったっけ?確かにアブラハムに逆らったりはしてないけど、アブラハムを引きずりまわしてたような。
ヘブライ人への手紙の、信仰者列伝では、サラをどう書いていたかな。と思ってみてみたら、信仰によって子供を授かったなんて書いてある。サラは不信仰だったのにヤハウェの計画によって子供を授かったんじゃなかったか?わからん。

今日の司会のM氏によれば、妻への勧めは「神に望みを置く」「夫に服従する」「善を行い、何事も恐れない」の三本柱になっている。ここでいう「善」とは、神の御心を行うということだ。
そう聞いて、得心したことがある。マタイ福音書12章の終わりにある、「神の御心を行うものは誰でも、私の母、兄弟、また姉妹なのである」というキリストの言葉だ。救われた男女はヤハウェを父と呼ぶ特権を与えらているのだから、神の御子イエス・キリストの兄弟姉妹になる、というのはわかる。けれどイエスの母になるというのがどうにもわからなかった。
それが今日の箇所で、妻たる者は善(神の御心)を行うことで、サラ(信仰の父と呼ばれるアブラハムの妻だから、信仰の母と呼んでいいだろう)のようになるのだということがわかった。これでやっと、イエスの母になるというマタイ福音書の言葉が得心した。

妻たちへの勧告にあって、夫たちへの勧告にないものの一つが、無言の行いによって夫を信仰に導くことができるという宣言。未信者の妻と結婚している男性信者もいるだろうに。
これは偏見と言われるかもしれないけど、感覚的に、「信者の女性と未信者の男性」と「未信者の女性と信者の男性」では、前者のほうが、相手を信仰に導くケースの方が多いように思う。後者のケースでは、男性が信仰を離れてしまうケースの方が多いような。必ずしもそうだというのではなくて、坂井の知人にも結婚後に奥さんが信者になった例はある。けれど、統計的に調べたわけじゃないが、そういう傾向があるような気がする。だとすると、良くも悪くも、男性は女性に引っ張られるということだろうか。
ここで思い出すのが、蛇(サタン)がアダムではなくエバをそそのかしたということ。サタンは、そういう「傾向」を承知の上で、女さえどうにかできれば男なんてどうとでもなるという戦略で、エバに的を絞ったのではないか?
それでペトロは、「妻よ、あなたがしっかりしなければ、夫もしっかりできないのだから、夫のためにもあなたがしっかりしていなさい」と言っているのではないだろうか。

しかしもう一つ引っかかるのが、妻たちへの勧告の冒頭と、夫たちへの勧告の冒頭にある「同じように」という言葉だ。2章後半からの構成として、「しもべたちへの勧告」があって、「同じように」とした上で「妻たちへの勧告」があって、さらに「同じように」とした上で「夫たちへの勧告」がある。
この「同じように」は、「AND」の意味を持つのではないだろうか。つまり「しもべたる者たちよ、このようであれ」「それに加えて、妻たる者たちよ、さらにこのようであれ」「それに加えて、夫たる者たちよ、さらにこのようであれ」ということではないだろうか。それで、しもべへの勧告が1ページの約半分、妻たちへの勧告がさらにその約半分、夫たちへの勧告がさらその何分の一かになっているのではないだろうか。
だとすると、「無言の行いによって夫を信仰に導きうる」というのは夫にも言われているということになる。また、妻たちに「外面を飾る前に内面を飾れ」と言われていることは、学歴や肩書きや収入という外面を飾ろうとする男たちにも言われているのではないだろうか。

夫たちへの勧告が、これまた難しい。「女は弱い者だ」と「妻を共に恵みにあずかる者と思え」と「妻を尊敬せよ」と、まったく矛盾する勧告になっているのだ。普通、相手が自分よりすぐれていると思うから尊敬するのであって、対等とか自分より劣る者を尊敬はしない。けれど、自分より弱い、と同時に自分と対等な者を尊敬しろという。「尊敬できる相手だから尊敬する」のではなく「尊敬するべき相手だから尊敬する」ということだろうか。「愛せる相手だから愛する」のではなく「(敵であっても)愛するべき相手だから愛する」ようにと命じられているが。実践は難しい。
もっとも私の場合、本当に尊敬できる妻を与えられているので感謝なことだけど。

で、妻を尊敬せよと。そうすれば「祈りが妨げられることはない」とペトロは言う。ふと気づいたのだけど「妨げる」という字は「女の方」と書く。妻を尊敬し、ともに神の恵みにあずかる者になっていないと、多かれ少なかれ妻の方に注意がいってしまう=神の方から注意がそれる=祈りが妨げられる、ということか?(こういう読み方は「嫁という字は女を家に押し込める男尊女卑につながる」なんてことにつながりそうで、あまりするべきではないかもだけど)
夫が妻の方を向くのではなく、夫婦で神の方を向くのが一番よい。「星の王子様」で有名なサン・テグジュペリも、「愛とは男女が見つめあうことではなく、男女が同じ方向を見つめることである」と言ったそうだ。

出席者のK氏が予習してきたところによれば、ここでいう夫とは「(1)信仰に無関心な夫」「(2)信仰に反対する夫」「(3)信仰に入っているようで実は…、な夫」の3タイプがあるとのこと。うーん、自分は(3)になっていないだろうか。

三浦牧師の総括の中で、ペトロ書を読むときには、エルサレムを中心にユダヤ人に伝道したペトロは、異邦人相手に伝道したパウロよりも、保守的にならざるを得なかったということに注意が必要だとあった。ペトロ自身が保守的な考え方から抜け出すことができなかったということか、ペトロ自身はそうでなくてもユダヤ人相手だから保守的に教えざるをえなかったのか、いずれにせよ「女というものは」的な傾向があることは否めない。いや、パウロでさえそうなのだから、ましてやペトロは、と時代や背景を考えて読んだ上で、現代に適用しなければならない。
私なんかは、奥さんが私のことを「うちの主人が」と言っているのを聞くと、プレッシャーに近いほど「しっかりしなきゃ」と思うし、私が「家内」と呼ぶときには、家庭のことのプロであるという尊敬と感謝がいつもある。けれど一般的には「主人」「家内」というのは差別語なんだろうね。差別語っていうのは、その言葉ではなく、その言葉の使い方の問題だと思うのだけど。

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作成:2003年11月26日

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