聖書研究
ペトロの手紙一2章18~25

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(埼玉和光教会(日本キリスト教団)の「聖書の学びと祈り会」(2003年11月19日)より。(学び会の内容からさらに展開。))

今日の箇所はまた難解で、召使いたちへの勧めとして、主人がいい人のときは当然ながら、悪い主人であっても誠実に仕えなさいという内容。[神がそうお望みなのだとわきまえて]、と。

個人的には、23節の[正しくお裁きになる方]というところがまず印象に残った。
北朝鮮が拉致を認め、8人だかはすでに死亡と伝えてきた時。正直、「俺には『汝の敵を愛せ』なんてムリだ」と思った。北朝鮮に対する怒り。長年にわたって無策だった日本政府への怒り。拉致は日本のでっちあげだと主張してきた某社会主義政党と、そう生徒に教えている朝鮮人学校への怒り。そして自分を含めて、何もできなかった同胞への怒り。
「クリスチャンですから敵を愛します。怒りません」なんて言ってる奴は北に行って殺されて来いと思った(そもそも聖書には「怒ってはならない」なんてことは書いてない。「怒りつづけてはならない」とは書いてあるが。怒ること自体が罪なら、ヤハウェにも罪があることになってしまう)。けどこの怒りをどこに持っていけばいいんだ?
そのとき私が怒りを持っていった先は、聖書のどこだったか忘れたが「復讐は神の業であるから、神にまかせて、おまえは復讐を考えるな」というような言葉だった。そして今日のこの聖書。ヤハウェは正しくお裁きになるかただ。だからこそ敵を愛することも可能になるのであって、「やられ損」なら愛することなんかできないし、敵のために祈ることもできない。敵を愛するってのは、敵のためにとりなすってことでもある。ヤハウェが正しく裁くからこそ、敵を愛して、迫害するもののために祈ることもできるようになるんだ。

無論のことだけど、[正しくお裁きになる方]というのは恐ろしい言葉でもある。神の審判の前から私自身も逃れることはできない。言い訳もきかない。でもだから、御子キリストを賜ったほどに世を愛されたヤハウェの愛というものがある。日本人を連れ去り死なせた(殺した)北朝鮮政府を、神は正しくお裁きになる。そして私の罪も正しくお裁きになる。けれど私の罪はキリストによって肩代わりされ、私は神の特赦を受けた。だから北朝鮮もキリストによる肩代わりを受けて神の特赦を受けるようにと祈ることができるようになる。なんて論理なんだろう、やっぱり聖書はすごい。

さて20節の、善をおこなって苦しみを受け、それを耐え忍ぶというのは、主人を持つ召使いの場合だけではない。私は艱難後掲挙説が正しいのだろうと考えているけれど、終末の預言にある、福音のゆえに苦しみを受け、それを耐え忍ぶという構造とどうしてもダブってくる。「忍」という字は、刃の下に心を置くが、キリスト者に置き換えるなら、迫害の下に信仰を置くということだ。私に耐え忍ぶことができるか?

21節は、なぜ神は沈黙しているのかという話しだ。遠藤周作の「沈黙」はキリスト者の永遠のテーマだろう。
フィリップ・ヤンシーの「痛む時、神はどこにいるのか」だったと思うが、ヨブのように散々に痛めつけられた人へのインタビューが記されていた。その中の一人は「自分が痛む時、神もまた痛んでおられる」というようなことをヤンシーに答えていた。
そもそも、不当な苦しみというなら、キリストの受難こそその最たるものだった。イザヤ書53章だ。誰よりも「不当だ」と叫ぶ権利があったキリストが、黙々と引かれていった。その時、つまりキリストが痛んだ時、ヤハウェ自身も痛んだはずだ。しかしそれはヤハウェ自身の御心にかなうものだった。 そのキリストに倣え、とペトロは書いているのではないか。不当な苦しみを受けてみろ、その時にキリストの受難の意味がわかるだろう、と。耐え忍んでみろ、その時にキリストが耐え忍ばれたことがわかるだろう、と。そのためにこの箇所は書かれたのではないのか、すべてはキリストの受難がわかるために。なんという論理か。やっぱり聖書はすごい。けど、私に耐え忍ぶことができるか?

ところで[神がそうお望みなのだとわきまえて]というのは、日本基督教団では「これは新共同訳が『訳しすぎ』ている箇所のひとつだから、読むときには注意深くある必要がある」という趣旨の警告が出ているそうだ。ちなみに英訳では「神を思いながら」という程度のニュアンスなのだという。三浦牧師から、この箇所の翻訳に当たった委員から直接聞いたという裏話も紹介された。
難しい話しだ。新共同訳の巻頭にも「そもそも完璧な翻訳があるかと言われれば、否。ましてこれは神の言葉を扱う作業なのだ」というようなことが書いてあった。
では、聖書は神に霊感されていても、翻訳版は霊感されていないのか?委員たちも祈りながら作業にあたっており、翻訳作業は聖霊の導きの中でおこなわれたのだから、日本語訳聖書も神に霊感されていると私は思う。けれど異文化から異文化への翻訳に完璧はありえない。まして聖霊の導きがあろうとも作業は人の手によるものだ。
今は、新共同訳という聖書が与えられていることに感謝し、翻訳に当たった委員を神が豊かにかえりみてくださるようにと祈り、そして次の翻訳の時にはさらによいものになるようにと期待することにしたい。

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作成:2003年11月19日

布忠.com