聖書研究
ペトロの手紙一2章11~17

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(埼玉和光教会(日本キリスト教団)の「聖書の学びと祈り会」(2003年11月12日)より。(学び会の内容からさらに展開。))

テーマは、前半が立派な行いに生きるということ、後半が為政者に服従するということ。

大宣教命令を始め、聖書では福音を述べ伝えることが命じられている。ところがここでは、「述べ」伝えることではなく、立派な行いという「証し」で伝えることが書かれている。前者を言葉による伝道とすれば、後者は生き様による伝道ということだ。

少し前に墓穴を掘ったのだけど、宗教の勧誘が来て「先祖を供養しないからあなたは不幸なのよ」と言われたという女性からメールがあった。宗教は人を幸せにするものじゃないのか、人を脅迫するものなのか、と。
その時にこう答えた。まともな宗教というのは、言葉で布教しなかったとしても、信者がその宗教を信じることで輝いていれば、周囲に「ああ、あの人のようになりたい」と思わせることで広まることができるのですよ、と。脅迫の言葉で布教する宗教は、入信してからもたとえば「これだけ献金しなければ天国に行けない」「これだけ勧誘しなければ天国に行けない」などと脅迫され続け、でも「信じるのをやめたらもっと不幸になる」とも脅迫されるからやめることもできないのですよ、と。
墓穴というのは、こんな回答をした瞬間に、「じゃあ坂井は周囲から『あの人のようになりたい』と思ってもらえるほど輝いているのか」って自問せざるをえなくなるってこと。もっと言えば、うちのチビたちに「とーちゃんみたいになりたいから、とーちゃんが信じているイエス様を信じる」と思ってもらえるか。まあ私がダメでも「かーちゃんみたいに…」と思ってくれれば。

伝道のためだけでなく、立派な行いによって、自分のクリスチャンとしての行動の幅も広げることができる。私なんかは小学生のとき、教会があるからといって日曜参観を欠席しておきながら、礼拝中に漫画よんでるのをお袋に見つかって、どえらく叱られた。そんなじゃダメだろう。
たとえば、「あいつは仕事に誠実な奴だ。やっぱりクリスチャンってのは違うな」なあんて思ってもらえたとしたら、たとえば日曜日に部署の誰かが出勤しなければとなったときに「あいつはクリスチャンだから、日曜日は配慮してやろう」なんてことになるかもしれない。これが普段から「でもクリ」(あれでもクリスチャンかよ)だと、「日曜出勤がいやなのはみんな同じなんだ、礼拝だかなんだか知らないがこんなときだけ口実にしてるなよ」なんてことになるかも。

後半の、為政者に服従するということでは、「悪い為政者だったら」という問題がともなうだろう。
為政者に服従することは、為政者のためにとりなしを祈ることとセットだと思う。為政者が善を行うようにと、あきらめずに祈りつづける。イエスのたとえばなしに登場する裁判官は、「神を神と思わず、人を人とも思わない」と自分で言うほどだったが、やもめが自分を守る裁判をしてくれとあまりにしつこく訴えると、「うるさくてたまらないから、あのやもめのためになる裁判をしてやるか」と折れる。これは「不法な裁判官でさえ訴え続けるなら動いてくれるとすれば、まして父なる神は助けを求める人のために動かないだろうか」というたとえだけど。やもめがあきらめていたら、何も変わらなかった。あきらめなかったから、変わった。選挙があったばかりだからいうわけじゃないけど、いや、あったばかりだから言うのかな、せっかく普通選挙という権利があるのだから「どうせ何も変わらないさ」とあきらめて棄権するより「もしかしたら何か変わるかも」と思うべきだよ、やっぱり。

出席者のU氏が「為政者がキリスト教を禁止したら、それにも服従しなければならないのだろうか」と発言した。難しいところだ。三浦牧師の話では、ヒトラーはこの個所を引用して、教会に服従を命じたそうだ。そのとき一部の教会は、ローマ書のどこだかにもとづいて、為政者に服従するのは「良心に反しない限り」という条件つきだとしたそうだ。

ところで現在の日本のキリスト教界は、地上の権威を否定しなければならないかのようだ。
天皇も国旗も国歌もダメ。いや、昭和天皇がお倒れになったときに平癒のために祈ったというカトリックは違うかもしれないが、プロテスタントでは「終戦時に天皇は死刑にされるべきだった」なんて言う人もいたりするし、私の所属する日本同盟キリスト教団などは「あいつらは宗教戦争をしかけてるつもりか」と言われるほどだ。
私は「人の世の権威さえ認められない者が、どうやって人間以上の存在の権威を認められるだろうか」と思う。「地上の秩序に従えない者が、今まで経験したこともない天上の秩序に従えるだろうか」と思う。人間が観察箱の中のアリにいくら「私に不服従なら滅ぼす」と言い聞かせたところで、アリは人間に服従などしないだろう。神と人間の差は、人間とアリの差より小さいだろうか。
まして今の日本は、建前であっても、選挙によって為政者を変えることが可能になっている。キリスト者が一致して運動すれば、キリスト教政党を作って活動して行くことも不可能ではないはずだ。日本がキリスト教にもとづいた国になることを願いながら「政教分離」と主張するのは、ダブルスタンダードというものではないだろうか。

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作成:2003年11月12日

布忠.com