ペトロの手紙一2章1〜10節
聖書研究
パウロが異邦人への使徒と呼ばれるのに対し、ペトロは「ユダヤ人への使徒」と呼ばれるが、この手紙は「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」=異教社会に暮らす異邦人キリスト者を励ますためにペトロが送った書簡である。
新共同訳では今日の聖書箇所は「生きた石、聖なる国民」との小見出しがつけられている。さらに細かく見るなら、2章1-3は霊の成長について、2章4-10は神の民とされた異邦人についてである。
2章4-8はイエスが「生きた石」であるということを中心に展開されている。ラビ文学では「石」は、アブラハム、ダビデ、そしてメシアを指すという。著者のシモン・ペトロにとってはさらに、「私をペトロ(岩)と呼んだ主イエスご自身こそ真に『生きた石』であり、そんな主に倣って私たちも『生きた石として用いられ』るようにするのだ」という思いがあっただろう。
(石が組み合わされて霊的な家(神殿)に造り上げられるという点について、出エジプト記20章25「もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。」と、1コリント7章20「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。」を関連づけることは可能だろうか。蛇足になるが、日本と西洋の城壁の違いとしてよくあげられることは、西洋では石を切って積むが、日本の城壁は石をほぼそのままで積み上げていることである。)
次に2章「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」について考察する。
「選ばれた民」
イスラエルが神から一方的に選ばれたように、私たちも神から一方的に選ばれている。『聖書教育』少年・少女課の資料にもあるとおり、弟子になった経緯が記録されている者たちはみな主イエスから「わたしに従いなさい」とスカウトされてから従っている。むしろ、自分から立候補しようとした者は、ほとんどが立ち去っている。(マタイ8章19-22、同19章16-22。マルコ5章1-20は例外的だが、従うことは許されなかった)
「王の系統を引く祭司」「聖なる国民」
出エジプト記19章6「あなたたち(イスラエル)は、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」に由来する。今日の聖書箇所の中心となっているようなので、少し掘り下げる。
族長時代、アブラハムたち族長は、神の民のリーダー(王)であると同時に、犠牲をささげる祭司でもあった。
王国時代、王の職分と祭司の職分は分離された。このため、サウル王が犠牲をささげたことは悪とされた(1サムエル記13章)。中間時代のハスモン朝では、ハスモン家が王の職分と祭司の職分を兼ねたため、ファリサイ派の反対を受けたという。
しかし、王であると同時に大祭司であるイエスにおいてすでに、王の職分と祭司の職分はふたたび統合された。初臨のイエスは「ユダヤ人の王」として処刑されたが、それは自身という犠牲を祭壇でささげる祭司でもあった。現在は父の右の玉座(王の職分)にあり、父に私たちを執り成しておられる(祭司の職分)。
なお、邦訳では、ギリシャ語の「バシレイオン」を名詞として「王であり祭司である」のニュアンスに訳しているが、形容詞とした場合は「神を王とする王宮で働く祭司」のニュアンスになる。英訳聖書でも「the King's priests(王の牧師。TEV)」「a royal priesthood(王室の司祭職。NKJV)」としている。
聖書記者に働いた「神の霊の導き」(2テモテ3章16)が、翻訳委員の上にも働いたことを疑うものではないが、出エジプト記19章6を考えても、私たち異邦人がイスラエルと同じように「選ばれた民、神に仕える祭司、聖なる国民、神のものとなった民」にされた、と訳すほうがより原意をわかりやすく伝えられたのではと思われる。
2章10の
かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている
は、ホセア書2章25の次の言葉に基づくもの。
わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向って
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。
今日の箇所に関して、イスラエルが相続するものに、恵みによって異邦人教会も与るようになった、ということは重要である。
かつての置換神学(神とイスラエルの契約はイスラエルの不信仰によって無効となり、この契約はイスラエルに代わって教会に与えられたとする)によって、キリスト者は、神みずから「わたしの民」と呼ばれたユダヤ人を迫害し弾圧してきた。
しかし私たち異邦人キリスト者は、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いたのに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」のあがないにより、「恵みにより、信仰によって救われ」て、「約束されたものの相続者」に加えていただいた。
にもかかわらず、しかも神ご自身はイスラエルを滅ぼすことを繰り返し思いとどまられたのに、人にすぎない私たちキリスト者が「神の民」ユダヤ人の敵となって、迫害し弾圧し殺したのである。
この点、カトリックは先代教皇ヨハネ・パウロ2世の頃からユダヤ人との和解を模索しはじめている。プロテスタント系はどうか?
- ネタ
- 『聖書教育』第38課(2005年10〜12月号)
- 初稿
- 千葉バプテスト教会「静聴の時」(教会学校の成人クラス)担当。2005年12月18日。
- (ただしこのページの内容は、「静聴の時」を担当した際の内容をもとにさらに展開したものです。)
参考と蛇足
参考(1) 今回のテーマ
- 『聖書教育』2005年10・11・12月号概論
参考(2)万民祭司
『聖書教育』の視点としては、「新しい神の民・教会」として次のように述べている。
「王の系統を引く祭司」とは、王なる主イエスがそうであったように、神と人との執り成しの働きを担う民であるということです。ルターはこれを万人祭司(Believer / All Believers)と呼びました。
ルターがドイツ語で何と呼んだかは未確認。英語としては、上記の聖書教育のとおり「believer」であるが、これは「信者、信奉者」の意味である。
興味深いことに、福音を受け入れたユダヤ人もみずからを「Believer」と呼んでいる。(Messianic Jewあるいは単にMessianicとも。わたしたちクリスチャンが彼らを迫害してきた事実のゆえに、彼らはクリスチャンとは名乗らない。)
参考(3)バプテスト教会の会衆主義
次の7項目が、バプテスト教会の特色とされている。
(1)聖書中心
(2)キリスト中心
(3)信仰者のバプテスマ
(4)浸礼の重視
(5)民主的な教会運営
(6)各個教会主義
(7)政教分離の原則
以下は、日本バプテスト連盟の教会に連なるようになってまだ浅く、バプテストの教理に不案内な者が書くものであることをあらかじめ了承いただきたい。(以下で疑問形にしているものは、論争を仕掛ける意図ではなく単にバプテストの考え方を知らないことによる疑問である)
(1)は、2テモテ3章16が根拠であろう。
(2)は、エフェソ4章5「主は一人」などが根拠とされるであろう。
(3)は、マタイ28章19、ローマ10章10、使徒10章45〜47であろう。
(4)は、エフェソ書の「バプテスマは一つ」であろう。「バプテスマ」の原意は「沈める」であり、主イエス自身も浸礼を受けられた。
ここまでは、門外漢にもわりとわかりやすいところだが、ここからが難しい。
(5)は、これはエフェソ4章の「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師にされたのです。」を否定するのか、しないのか。まさか聖書の御言葉を否定はしないだろうが、だとすればどういうことか。
そもそも、人間が作った民主制を完全無欠のシステムと考えるものなのだろうか。
ナチスは民主的に政権を取ったものである。
日本の対外戦争も、軍部を支持したのは大多数の国民だった。
今も米国では民主制で選ばれた指導者のもとで戦争を続けている。
(6)は、教会が教会を支配したり、教団が教会を統制したりということを抑止するものであろう。しかし一致という点でどうなのか。
(7)は、これもバプテストの歴史からのものであろう。バプテストで言う政教分離の「政」とは、政教一致であた英国における「政」である。つまり「政治が教会に介入すること」に反対するというよりも、「教会が政治に介入して他教会を圧迫すること」への反対であろう。これは、米国における政教分離が「キリスト教の特定の宗派を優遇することの禁止」であることとあわせて考えることもできる。
日本の多くの教会が主張するような「政府が(キリスト教以外の)宗教(靖国神社など)に加担することによって、教会が圧迫される」という事態は、聖書的にはむしろ再臨の予兆としてむしろ歓迎されるべきものではないだろうか。(それ以前に、これは「我々バプテストの特色」であるのだから、そこから「汝ら日本国は政教分離せよ」という論理にはなりえないと思うのだが。)