聖書研究
創世記2章4~25

menu

聖書研究

「助ける者」(エバ)が創造される以前の「人(アダム)」

創世記は私たちの常識からはかけはなれた時代の記録であるため、アダムの状況を考えるにも、先入観に注意する必要があるのではないだろうか。今回の箇所でまず私が思ったことは、「アダムは孤独だったのだろうか」ということだった。

他者との関わりの中に生きる私たちがもし一人にされたなら、孤独を感じるだろう。創造を扱う映画や漫画などでも、動物がペアや群れで存在するのを見たアダムが自分の孤独を思う描写をみかける。『聖書教育』誌の「子どもメッセージ」の記事でも「人はたったひとり。さみしかったでしょうね。」としている。

しかし、最初から一人だったアダムは孤独という感覚さえ知らなかったのではないだろうか。
霊的な存在としての「人」が「神自身」を相手とする人格的な交わりをしていた時代に、動物などを見てうらやましいなどと思うだろうか。
人が神に似せて創造されたとことは、神が愛そのものであるのに似て人も愛し合う相手を求めるものであると解することができる。そうすると人が、愛する人を持たないのは、不幸に思える。しかしこの時のアダムは、愛する人は持たなかったが、「愛そのものである神ご自身」と人格的な交わりを持っていたのである。アダムにとっては神ご自身がリアルに「愛し合う相手」だったのである。
むしろ「人間相手でさえ、かろうじて愛せるかどうか」という私たちなどよりはるかに、アダムは「愛の関係」において満たされていたのではないだろうか。

アダムは、自分が孤独であるということに気づいていなかったと、私は考える。

しかし、アダムが気づいていなかったということは、アダムにそれが必要なかったということではない。そして神は、アダムが求めてもいなかった、しかしアダムに必要だった「ふさわしい助ける者」を与えたのである。
アダムの「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」という喜びの叫びには、「自分にそれが必要だと気づいてもいなかったもの」が満たされたという大きな驚きを表しているようにも思える。私たちが祈る前から私たちの必要を御存知である神は、私たちが必要に気づいていないことさえ満たされる神である。しかもこの世界に人間が一人しかおらず、それで何の不思議もないと思われていたところで突如として伴侶をお与えになるという、強烈な介入をもって私たちの必要を満たしてくださる神である。

ところで、もしアダムが自分から、被造物である伴侶を求めたのなら、それは第一サムエル記8:4~7で神による直接統治よりも人間の王に治められることを望んだイスラエルと同じ過ちということになったのかもしれない。あるいは、創世記6:1~3で神は「神の子ら」が自分の目に美しい者を選んで妻にしたことを裁かれたが、それと同じ過ちということになったかもしれない。
神がアダムにエバを与えた次第は、「人にとってもっともふさわしい伴侶は、神みずからがそなえてくださる」ということを示していると読むこともできる。(これは筆者が結婚するときに、司式した牧師が解き明かしてくださった解釈である)

なお、「産めよ、増えよ」の命令は、まず創造の第4日に海と空の生き物に向かって命じられ、人に向かっては第6日に「男と女に創造された。」のあとで命じられている。この部分が時系列にそって書かれているとするなら、アダムが「自分(人間)も子孫を増やさなければならない」ということを知るのは、女が創造されたあとである。

なぜ「人が独りでいるのは良くない」のか

客観的に見て、アダムにとっては、人間にすぎないエバと愛を交わすよりも、神ご自身と愛を交わす方が幸せだったはずである。パウロも参考(2)にあげるとおり、独身の男女は主を第一にできるが、既婚の男女は伴侶の存在が大きくなってしまうことを指摘している。
聖書を字句どおりに読むなら、人間にとっては、神を第一とすることが真の幸福であるはず。とすれば、人格的な交わりの相手が神御自身のみという状況の方が、アダム個人にとってはよかったはず、とは言えないだろうか。
結婚を否定しようというのではなく、結婚の祝福にまさるものが神との関係の中にだけはあるのではないかということである。

だとすれば、なぜ神は「人が独りでいるのは良くない」とお考えになったのだろうか。

これは、「善悪の知識の木」をあえて置き、神に従うこともそむくことも自由に選択できるようにした上で神に従うことを求められたように、あえて人格的な交わりのできる相手を神ご自身以外にも与えた上で「神を第一としつつ、人同士も向かい合う」ということを求められたということではないだろうか。つまり、律法の究極である「第一に神を愛すること、第二に隣人を愛すること」(マルコ12章28~31)が、創造の業に示されているのではないだろうか。
「善悪の知識の木」などなく、園にサタンの侵入も許さないほうが、人にとっては安全で幸福だったはずだ。しかし神は、そんな箱庭で飼うために人を創造されたのではなかった。「人が誘惑もなく飼われているのはよくない」とお考えになったのと同じ理由で、神は「人が独りでいるのはよくない」とお考えになったのではないだろうか。
もちろん、「善悪の知識の木」が人への罠として置かれたのではないのと同様に、女も男への罠として置かれたのではない。むしろ女は、男を霊的に守るための「助け手」として創造されたと考えられる。→蛇足(1)。

助ける者

女が男を助ける者として創造されたことは、「女は男の助手的な存在」などということを意味しない。むしろ「助ける者」には、「助けられる者」を超える力が必要となる。でなければどうして人が神に助けを求めることができるだろうか。参考(3)に例をあげるとおり、エバに使われている「助け」(エーゼル)は、他の箇所では神からの助けや強力な援軍を指して使われているのである。
これも「女が男を霊的にも守るため」と解釈する理由である。

人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

聖書は、参考(5)に例をあげるとおり、「裸」を「恥」と結びつけている 。『聖書教育』誌でもこの箇所を、「ありのままで互いの弱さを受け止め、担いあう姿が祝福として描かれています。」と解釈している。

しかしここでも先入観に注意したい。裸であることを「弱さ」と考えるようになったのは、エデン追放後のことなのである。

創世記2:25の時点で裸のままだったのは、参考(4)にあげているとおり、神が人を創造されたあとで「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(1:31)と言われたままの状態たったということである。裸を恥と思うようになったのは、二人が神にそむいた瞬間からのことだ。
であれば「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」という一句から学ぶべきことは、「相手も弱い者だから」ではなく、「本来的に美しい『神の作品』であり、『高価で尊く』、全世界よりも貴重なものだから」として他者と向き合うべきであるということにならないだろうか。

日本には「情け人のためならず」という言葉がある。「いずれ自分にかえってくるから」として人に仕えるものだ。悪く言えば打算的ともとれるが、良く言えば「自分も相手も尊いもの」とする精神である。
近年では、「自分探し」と称して、自分より弱い者や困っている者を探して助けることで、「自分はいい人で、自分のしていることは正しいことだ」と確認するためにボランティアする若者もいるという。
もちろん、個人の尊重という名のもとに「尊重されるべきは自分」としか考えなくなりつつある風潮の中ではマシと言える。しかしこれでは、自分が強い者である、健常者であるという上からの目線で「奉仕してやる」という関係性にしかならないのではないだろうか。むしろ、相手を高価で尊い貴重な神の作品と考える視点から「奉仕させてもらう」という関係性こそが、ヨハネ福音書9:3で言う「神の業がこの人に現れるため」の関係性ではないか。
一方的に相手の足を「あなたは汚れているから洗ってやる」という優越性ではなく、互いに足を洗い合う関係性(ヨハネ福音書13:14)のうちに、主に仕えるように仕えるのである。観念や倫理からではなく、「人からされたくないことは人にしない」という相互保証でもなく、どのように創造されたかという根本において「尊重すべき隣人」として向かい合うことを、この箇所から読み取れるのではないだろうか。

参考と蛇足

参考(1) 今回のテーマ

『聖書教育』2005年10・11・12月号概論より
人は、神からどのように受け止められているかに気づき、人と向かい合うことによって自分自身を発見することができます。そして、そのような者たちが、互いの命を大切にし、愛し合うようにと招かれていることを学びます。

参考(2) パウロの結婚観

コリントの信徒への手紙一7:32~34
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。

(ただしパウロは、教会で責任ある立場の者は既婚者であるべきとも勧めている。(テモテへの手紙一3:2「監督は、…一人の妻の夫であり、…」)

参考(3)創世記2:18の「助け」(エーゼル)の、他の箇所での用例

「神の助け」としての用例

詩編89:19-20
主は我らの盾
イスラエルの聖なる方は我らの王。
あなたの慈しみに生きる人々に
かつて、あなたは幻によってお告げになりました。
「わたしは一人の勇士に助けを約束する。」

申命記33:7
御手をもって彼のために戦い苦しめる者からの助けとなってください。

「期待することができる(はずの)強力な援軍」としての用例

ダニエル書11:33-34
民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。こうして倒れるこの人々を助ける者は少なく、

参考(4)隣人を尊ぶべきことの聖書的根拠のいくつか。

創世記1:28~31(抜粋)
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

エフェソの信徒への手紙2:10(口語訳)
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

イザヤ書43:4(新改訳)
わたしの目には、あなたは高価尊い。わたしはあなたを愛している。

マタイ24:14(平行箇所→マルコ8:36、ルカ9:25)
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

参考(5)「裸」と「恥」の関連性

マタイ25:34~40(抜粋)
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

ヨハネ黙示録3:14~18(抜粋)
アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。「…あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」

ヨハネ黙示録16:15
見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。

洪水後のノアと息子たちの記事(創世記9:21~27)も参照。

蛇足(1)ふさわしい「助ける者」

「愚かな女(エバ)のせいで男(アダム)も罪を犯した」などという男尊女卑的な解釈をするなら、男の責任がかえって大きくなるだけである。女が男より愚かだというなら、自分より愚かな者の過ちを正さなかった男の責任がより問われてしかるべきであろう。

そもそもなぜサタンは、アダムではなくエバを標的にしたのか。もしアダムがエバにまさるというなら、サタンはエバを攻略したあと、エバにまさるアダムを攻撃しなければならなくなり、二度手間である。それなら先にアダムを攻略したほうが早い。
結果からみるなら、つまり「サタンはエバを陥落させたあと、アダムにはみずから手をくだす必要さえなかった」という事実を見るなら、サタンは「女さえ陥落させれば、男などどうにでもなる」と考えたとしか思えない。つまり、男よりも女の方がサタンにとって手ごわい相手であり、女を落とせば一石二鳥で男も落とせるという判断だったのではないか。

パウロが「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(第一テトス2:14)と書いていることは事実であるが、なぜアダムはだまされなかったのかというと、サタンから相手にもされなかったからである。
そうすると、パウロが「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」(第一コリント11:9)と書いているのも、「男が女をサタンから守るために造られたのではなく、女が男をサタンから守るために造られた」と解釈できる。結果的にエバは失敗したとはいえ、こう考えたほうが、男にふさわしい「助ける者」として神が女を創造した意味が見えてくるのではないだろか。

ところで蛇足だが、イスラム社会の『男尊女卑』は「男がいかにして女を守るか」を突き詰めたものと言えなくもない。
たとえばイスラムの一夫多妻は西欧社会の非難するところであるが、これももとは女性を保護するためのものである。聖戦思想ゆえに戦争が絶えず、したがって独身女性に対して独身男性の絶対数が少なくなったり、あるいは戦争寡婦が多くなったりする社会において、経済的社会的に力のある男性が複数の女性を妻にすることをゆるしたものである。
(しかも、西欧社会の男性が思うほど、一夫多妻は女性蔑視ではない。一夫多妻における夫は通い婚的であり、妻たちは一夫一婦で結婚している女性よりも自立している。また一夫多妻はイスラムだけの文化ではない。たとえばチャドでは「結婚している女性のうち、一夫多妻状態にある者の割合」は、ムスリムの35.6%をカトリックの46.8%が上回っている(その他のアニミズムでは51.4%)。以上、参考文献1より2009年10月8日追記。)
あるいは、「水着まがいの服装で女が街を歩けるが(=男が情欲を持って女を見ることが自由)、性的暴行が日常茶飯の米国」と、「女が肌を露出することを禁じられており(=男が情欲を持って女を見ることの制限)男が女に触れただけでも罰されるイスラム」というように比較するなら、どちらが女を大切する社会と言えるだろうか。
(ただし現代では、単なる男性優位、女性蔑視となっていることを否定できない。)

同様に日本も現代では単なる女性蔑視となっている面が多々あるが、女神である天照大神を最高神としているほか、「海の神は女神だから」ということで船に女を乗せないとか、妻を「カミさん」(上に立つ者)と呼ぶなど、女性性を男性性よりも優位と感じる文化といえる。(蛇足の蛇足:天照大神に関しては、女神が最高神とされたのは後代であるとする説もある。)
そもそも農耕中心の文化では、豊穣に通じることから女性性が神格化される傾向にあるといわれる。そうであるなら、「福音の宣教」によって偶像(豊穣神)を除くことだけが日本の男尊女卑を解決できるのであって、福音を伝えることよりも「女性蔑視反対」と攻撃することを優先していていては解決されないことになる。

一方キリスト教は、神の言葉である聖書をふりかざしての男尊女卑の伝統を持ち、またそれに対抗するように「『父なる神』という呼び方は女性蔑視」などの議論が続いている。(「キリストの福音」ではなく、宗教としての「キリスト教」のことである。)
そんなキリスト教が、「女性性を尊ぶゆえの日本の男尊女卑」「女性を守るためのイスラムの男尊女卑」を変えられるだろうか。個別的具体的なケースにおいては女性の保護について緊急を要する場合が多いのは事実であるが、理念において、「キリスト教の教えは立派だけど、キリスト教徒のやってること(やってきたこと)はどうなんだ」と言われないためにどうするべきなのであろうか。

蛇足(2) 「イシュ」

創世記2:23に次のようにあるとおり、「イシュ」はヘブライ語で「男」を指す。
「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

サウル王の息子の一人「イシュ・ボシェト」は「恥の人(男)」の意味。
「イスカリオテ」は「イシュ・ケリヨテ」つまり「ケリヨテ出身の男」の意味ではないかという説も提案されている。

一報、アブラハムの息子「イシュマエル」は「イシュ」で区切るのではなく、「神(エル)は聞かれる(シェマ)」から。
ダビデの三勇士の頭「イシュバアル」(第二サムエル23:8)も、「イシュ」では区切らない。ヨーシェーブで「民は帰る」を意味する。(口語訳では「ヨセブ・バッセベテ」と表記)

参考文献

文明の接近 「イスラームvs西洋」の虚構
エマニュエル・トッド、ユセフ・クルバージュ著。石崎晴己訳
藤原書店
2008年2月29日 初版
ISBN978-4-89434-610-9
上へ

作成:2005年12月18日
更新:2014年2月14日

布忠.com