イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子【おさなご】たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
ルカ福音書18章15節〜17節(新改訳)
「神の国」というのは天国を指しますが、死んだ後の話しだけではありません。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とも言われました(ルカ福音書17:21)。神の国というのは「神が治める国」ということです。神様を信じる心、神様を信じた生き方が、すでに神の国に入った状態なのです。
つまりイエス様は「子供のようでなければ、神様を信じることはできない」と言っているのです。では「子供のように」とはどういうことでしょうか。
私たちが「子供のように」という場合、そこに「純真・無邪気・素直」などのイメージをこめることが多いのではないでしょうか。しかし、本当に子供とはそういう存在でしょうか。
子供は純真でしょうか。いえいえ、なかなか計算高いものです。どうやったらほめられるか、叱られるか。どうやったら喜ばせるか、悲しませるか。どうやったらお菓子をもらえるか、お目玉をくらうか。ちゃんと考えています。むしろ、それが社会性の発達そのものだと言えます。
子供は無邪気でしょうか。邪気が服を着て歩いているようだと思った瞬間はありませんか。なぜ子育てノイローゼなどというものがこの世にあるのでしょうか。
子供は素直でしょうか。「うちの子は言うことを聞かない」と嘆いたことのない親が、どれだけいるというのでしょう。ただし、自分の欲望に対しては実に素直です。欲しければ友達や兄弟、あるいは公園で会った知らない子のおもちゃでも奪う。食べたければ、あとでご飯が食べられなくて叱られるとしても、今お菓子が食べたい。大人が寝ていたくても自分が遊びたければ、未明から騒ぎ出す。静かにしてほしいTPOにこそ奇声を上げる、走り回る。「あとでね」「また今度ね」「順番にね」が通用しない。
聖書は子供についてどう書いているでしょうか。
裏返せば、子供とは賢くない者、知恵のない者ということになります。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに表してくださいました。(マタイ福音書11:25)
私が子供であったときには、子供として話し、子供として考え、子供として論じましたが、おとなになったときには、子供のことをやめました。(コリント人への第一の手紙13:11)
未発達で幼稚ということでしょうか。
兄弟たち。物の考え方において子供であってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(コリント人への第一の手紙14:20)
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル人への手紙5:12-13)
何かを十分にできないものとして、子供を引き合いにだしています。
これらはどうもあまりよい意味で「子供」とは言っていないようですね。いったいイエス様は、どういう意味で「子供のように」と言ったのでしょうか。
もう一度、聖書を読んでみましょう。イエス様は「子供のように純真でなければ」などと言っているでしょうか。いえ、ただ「子供のように神の国を受け入れる者でなければ」と言っているだけです。先ほど、子供は自分の欲望に素直だと言いましたが、イエス様はそのことを言っているのです。好きなものがあれば、とにかくほしい。行きたいところがあれば、とにかくいきたい。これだと思ったときに、他のものをすべて放り出してでも、それを求めて手を伸ばす。日ごろからそんなことをやっていれば、近所付き合いを断られたりもするでしょう。でも「神の国」を求めるときだけは、そのように求めなければ、決して手に入れることはできないよとイエス様は言っているのです。
たとえそれが正しいことだとわかっていても、あるいは自分の利益になると思っていても、いろいろなこと(人間関係や前後の見境や自分の損得やその他もろもろ)を考えて行動しない、ということはよくあるのではないでしょうか。当然です。それが大人の分別というものです。でも「神の国」を求めるときには、そんなじゃだめだ、とイエス様は言うのです。
大人は「だけど」を考えてしまいます。「イエス様が好き。だけど、人間付き合いも大事」「神様を信じる。だけど、日常のことも大事」「教会に行きたい。だけど今週はほかにもやりたいことがある」「天国に入りたい。だけど今はそれどころじゃない」などなど。
でも子供は「だから」で考えます。「イエス様が好き。だからイエス様のところに行きたい」「神様を信じる。だから神様に喜ばれたい」「教会に行きたい。だから他のことは後回し」「天国に入りたい。だからイエス様に『おいで』って言われるようになりたい」
そんな子供のようでなければ、たとえ大人たちや弟子たちが止めようとしてもイエス様のところに走っていく子供のようでなければ、神の国に入ることはできないのだよ、とイエス様は教えているのです。