やさしい聖書のお話

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幸福について

今日のお話しから(2000年5月21日)

礼拝では今週から、イエス様が人々にどんなことを教えたかのお話しが続きます。今週は、イエス様の教える幸福とはどういうものかというお話しでした。私たち人間が考える幸福の基準と、神様が人間に与える幸福の基準は、どうも少し違うようです。

マタイ福音書の5章から7章は、「山上の説教」と呼ばれる長い長いイエス様の教えです。その教えの始まる前に、大勢の群集が教えを聞きに来たと書いてあります。
彼らは、夢も希望も持てず心に余裕のない、心の貧しい人々でした。喜びなどろくにない、悲しむ人々でした。祖国を占領しているローマ帝国に反抗もできず、柔和であることを強いられている人々でした。義(「救い」の同義語)を求めていても、偉い宗教家のようにすべての戒律を守れないから救われないと思っている人々でした。
「自分は不幸だ」と思っている人々ばかりが集まっていたのです。時代劇によく出てくる、悪政に苦しみあえぎながらかろうじてなんとかその日を生きている貧しい農民や漁民のような人たちです。
何も持っていない人たちです。が、たった一つだけ持っていたものがありました。「不幸な自分だけど、イエス様なら何とかしてくださるんじゃないか」という期待だけを持って、集まってきたのです。

イエス様はそんな群集を見て、原文では感嘆文で「なんと幸いなことか!心の貧しい人々は!」「なんと幸いなことか!悲しむ人々は!」「なんと幸いなことか!柔和さを強制されている人々は!」「なんと幸いなことか!飢え渇くほど義(=救い)を求めている人は!」と言いました。
「幸いだ」と訳されている言葉は「神に祝福されている。神から恵みを受けている」という意味の言葉です。私たち人間の目にはどう見てもしあわせとは思えない状態を、イエス様は感動しながら「なんと神に祝福された者か!」と言うのです。

心が満足していても、私たちの満足はいつ失われるかわからないようなものです。でももし心が貧しくてもイエス様に期待しているなら、その信仰で天国が約束されるのです。
喜んでいても、その喜びはいつか失うかもしれません。でももし悲しんでいてもイエス様に期待しているなら、神様がなぐさめを与えてくださるのです。
楽に生きていても、いつ状況が変るかわかりません。でももし柔和であることを強いられていてもイエス様に期待しているなら、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言ってくださるイエス様がともにいてくださり、王であるイエス様とともに地上を相続するのです。
罪人と言われるほどの悪者ではないと思っていても、すべての人には罪があって天国に入れません。でももし「自分は罪深くて、救いなんて遠くの話だ」と思っていても、イエス様に期待しているなら、イエス様が十字架上で罪を肩代わりしてくださるから、飢え渇くほど救いを求めていた人は満たされるのです。

イエス様に期待するということは、イエス様には私のことをなんとかできる、と信じることです。イエス様を信じる信仰によって、わたしたちは永遠に変らず失われることもない本当の幸福を得ることができるのです。その幸福は、死んだ後に天国に行ってやっと手に入れられるのではありません。イエス様を信じたその瞬間から、幸福は始まります。

イエス様が別なときに「信仰を持っている人は、さらに与えられていよいよ豊かな信仰を持つ」といわれたとおり、イエス様を信じて幸いを得た人は、さらに幸いを与えられていきます。

「なんと幸いなことか!憐れみ深い人々は。その人たちはあわれみを受ける」と言われました。「憐れみ」とは「一緒に苦しむ。隣人のあやまちをゆるす」という意味です。他人の苦しみを背負ってあげられるなら、イエス様があなたの苦しみを背負ってくださるのです。人のあやまちをゆるす人は、イエス様のとりなしによって神様からあやまちをゆるしていただけるのです。
「なんと幸いなことか!心の清い人々は。その人たちは神を見る」と言われました。神様を見ることができるほど心の清い人なんてどこにもいません。罪ある人間は、あまりに聖なる神様を見れば死んでしまうのです。でもイエス様を信じるなら罪を帳消しにされ、清くしていただけます。「私なんかがゆるしてもらえるわけがない」などということもありません。イエス様がゆるすことのできない罪などないのです。
「なんと幸いなことか!平和を実現する人々は!その人は神の子と呼ばれる」と言われました。人は平和を作り出す努力を続けなければ争いをはじめてしまうようで、平和というのは求めるだけで実現するというものではないようです。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とも教えました。私たちは日常の人間関係の中に平和を作り出していかなければなりません。そしてそうするなら、私たちはイエス様と同じ「神の子」と呼ばれる資格を与えられるというのです。

イエス様が教える幸福の最後は、「なんと幸いなことか!義(=救い)のために迫害される人々は。天国はその人たちのためにあるのだ」というものです。
では迫害や殉教を恐れない強い信仰者だけが天国に入れるのでしょうか。このイエス様の説教を聞いているのは、名もない弱い人々です。殉教した弟子たちも、漁師や税務署員などの普通の人たちです。今この時代でも、聖書を持っているだけで逮捕され、イエス様による救いを信じるだけで死刑にされる国は珍しくありません。毎年何人も(おさない子供たちまで)、死刑にされています。
彼らは最初から強かった人ではありません。ごく普通の弱い人たちです。いえ、弱い人たちでした。イエス様を信じる信仰によって強くされたのです。
イエス様の言葉は続きます「迫害されている最中でさえ、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」私たちもイエス様を信じるなら強くされ、神様から大きな報酬を受けるのです。

【今日のお話しの聖書箇所】

マタイによる福音書5章1~12

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「今日のお話しから」は、幼稚園礼拝で聖書のお話をした際に、保護者向けに作成したレジュメです。

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作成:2000年5月21日

布忠.com