やさしい聖書のお話

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ゲツセマネの祈り

今日のお話しから(2000年3月19日)

今日はイエス・キリストがイスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられた夜のお話しでした。こののちキリストは、不当な裁判で有罪とされ、十字架で死刑にされます。

ゲツセマネの園で祈るイエス

エルサレムの都は山の上にありましたが、そこから1kmほどのところ、キドロンの谷東側のオリーブ山に、ゲツセマネの園がありました。イスラエルの"園"は日本の庭園とは少し違って、庭のようでもあり、果樹園や野菜畑があったり、一隅にお墓があったりもします。ゲツセマネの園はエルサレムからは坂を少し下ってまた少しのぼった程度の近さで、木が多く人は少なく、静かに祈るのに適しています。イエス様はエルサレムにいるときは時々このゲツセマネの園で祈っていました。
最後の晩餐のあとイエス様は、弟子たちとともにオリーブ山に来ると、三人だけをつれてゲツセマネに入っていきました。そして三人に「私は死にそうなほど悲しい。あなたたちはここで起きていなさい」と言うと、一人で園の奥に行って祈り始めたのです。
イエス様は何が、死ぬほど悲しかったのでしょうか。

十字架で死ぬということ

イエス様は、これから起きることがすべてわかっていました。旧約聖書で預言されていた通り、そしてイエス様自身が弟子たちに予告していた通り、イエス様はこれからイスラエルの長老や指導者たちにつかまり、十字架で死刑にされるのです。ではイエス様は、死ぬのが怖かったのでしょうか。
聖書には、死は罪の結果として受けるものであると書いてあります。「人は皆、罪を犯して、神の栄光を受けられなくなっていますが、神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪をあがなう(帳消しにする)そなえ物となさいました」とも書いてあります。
人は、罪があるままでは、神様のもとへ行くことができません。人の罪を消せるのは、罪がまったくないイエス・キリストによるあがないだけなのです。神の子イエス・キリストがこの世に来たのは、すべての人の罪を肩代わりするため、罪人(つみびと)として死ぬためだったのです。すべての人を愛している神は、罪から人を救うために、罪のないキリストにすべての人の罪を背負わせて、信じる者の罪を帳消しにするためのそなえ物つまりいけにえにしたのです。
死は罪の結果ですから、まったく罪のないイエス様は、本当なら死ぬ必要のない方です。最近の悲しい事件で子供が被害者になると「何の罪もないのに犠牲者に」ということが言われますが、イエス様こそ本当の意味で、何の罪もないのにすべての人のために犠牲になるのです。

神に捨てられる

イエス様は死んだあと三日目に自分がよみがえることを知っていましたから、死ぬのが怖くて悲しかったのではありません。
十字架での死刑は、みんなの見世物になり嘲笑されながら、何時間も苦しみながらだんだん死んでいくというものです。しかも、罪がないので死ぬ必要がない、不死身でいられるイエス様が、すべての人の罪の身代わりとなって死ななければならないのです。
神の子イエス様には、罪のために死ぬことの悲しさがわかっていました。罪人として死ぬのは、天の父なる神様に呪われ捨てられることです。神様につくられたすべての命にとって、神様に捨てられることほど悲しむべきことはありません。
でもそうしなければ、神様が愛しているすべての人が、神様から離れたまま罪の中にいなければならないのです。

イエス様の祈り

弟子たちから離れたイエス様は、神様にこう祈りました「父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」
杯というのは、これから受けようとしている苦難のことです。できることなら、十字架の上で神様に捨てられるなどということは避けたい。しかし自分がみんなの罪を背負わなければ、だれも神様のもとに行くことはできない。そこでイエス様は、自分の願いよりも神様のお心のとおりになるようにと祈ったのです。おなじような言葉で三度も祈りました。そして神様から勇気をいただいて、イエス様は十字架に向かう決意をしたのです。

逮捕される

そこへ、12弟子の一人イスカリオテのユダに先導されて大勢の人が、まるで強盗でもつかまえるかのように剣や棒を持ってイエス様を捕まえに来ました。しかし祈ることで自分の行く道を見据えたイエス様は、裏切ったユダをも「友よ」と呼び、十字架に向かって進んで行ったのです。

【今日のお話しの聖書箇所】

マタイによる福音書26章35~56

ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

「今日のお話しから」は、幼稚園礼拝で聖書のお話をした際に、保護者向けに作成したレジュメです。

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作成:2000年3月19日

布忠.com