やさしい聖書のお話

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百人隊長の信仰をほめる

今日のお話しから(2000年1月16日)

イエス様の時代、ユダヤ人(=イスラエル人)はローマ帝国に支配されていて、イエス様がいたガリラヤという地方にもローマ軍が駐留していました。そのローマ軍の百人隊長(歩兵100人の指揮官)が今日のお話しの主人公でした。
(この隊長は今日のお話しでは仮に「ロレンツォ隊長」と呼びましたが、本名は不明です)

外国人

イスラエル人は、自分たちは神に選ばれた民だから神がこの国を統治する、と考えていましたから、ローマ人だろうとなんだろうと、本当の神様を知らない外国人に支配されるのは、がまんできません。それに、本当の神様から離れて外国の宗教に染まったために国が滅びたという歴史があるので、本当の神様を知らない外国人とはつきあいたくない、とも思っていました。
反対に、本当の神様を信じている外国人なら、イスラエル人は喜んで受け入れていました。外国人でも改宗すればイスラエル民族に入ることができたし、おおやけに改宗していなくても本当の神様への信仰があるなら「神を敬う人々」と呼ばれてイスラエル人に迎えられていました。
そして、今日のお話しに出てくる百人隊長も、外国人でしたが「神を敬う人々」の一人でした。

百人隊長

ある百人隊長が重用していた部下が、病気で死にかけていました。その時隊長は、「イエス様なら、私の大事な部下を助けることができるはず」と考えました。
そして、町の長老にイエス様を迎えに行ってくれるように頼んだのです。大事な部下のためなのになぜ自分で行かなかったのかというと、「自分は支配者であるローマ人だ。支配される側のユダヤ人を迎えになど、行けるものか」という優越意識からではなく、「自分は外国人であるから、イエス様を直接迎えに行くのは失礼」という謙遜からだったのです。
この長老たちも、「なんでわしらが、外国人の使い走りを」などとは考えず、イエス様のところに行くと「あの隊長はすばらしい人で、願いをかなえていただくのにふさわしい人です。外国人ですが、わたしたちユダヤ人を愛して、自分の財産でわたしたちの町に会堂を建ててくれたのです」と熱心にお願いしました。この会堂というのは、ユダヤ人が礼拝をする場所です。(支配の邪魔にならない限り)支配地域の文化や宗教に寛容だったローマ帝国とはいえ、ローマ人自身は皇帝を神として礼拝していました。被支配地域の宗教施設を私費で建ててやるなど、異例のことだったでしょうし、少なくとも帝国の軍人がすることではありません。
イエス様は、長老たちのとりなしを聞いてすぐに隊長の家に向かいました。隊長が本当の神様を信じていること、そして部下のためなら被支配民に頭を下げられるほど愛のある人であることが、長老たちの話しでわかったからです。

権威ある言葉

ところが、イエス様が長老たちと一緒に隊長の家の近くまで来ると、隊長は友達に伝言を頼んで、イエス様にこう申し出たのです。「主よ、ご足労には及びません。私自身でお迎えに参上するのはふさわしくないと思って、さきほどは長老に使者をお願いしました。しかしよく考えてみたら、せっかく来ていただいても、家にお入れする資格さえ私にはないのです。ただひと言おっしゃってください。それによって、わたしのしもべを癒してください」
隊長は「イエス様は聖なるおかたで、罪深い自分が招いてよいかたではない」と考え、しかも「来ていただかなくても、イエス様はひとことの言葉でわたしの部下を治すことが確かにできる」と確信しているのです。イエス様はこれを聞いて、その謙遜な姿勢、そしてその信仰に、「なんという立派な信仰だろうか、わたしの言葉だけで病気が治ると信じられるとは。イスラエルの中でさえこの外国人のような信仰は見たことがない」と言って、感心し驚いたのです。そして隊長の信仰の通り、イエス様は隊長の家に入らず本人にも会わずに、その部下の病気を治しました。

イエス様は多くの病人を治しましたが、それはイエス様が「治れ」と命令すると、病気がイエス様の言葉に従ったのです。イエス様の言葉には、命じれば嵐もそれに服従して静まりました。イエス様は神様と一つですから、その言葉は、世界を創造した「光あれ」などの言葉と同じ権威があるのです。
でもイスラエルの人々は、イエス様が病気を服従させていると理解できませんでした。イエス様のことばの権威を知らないまま、「イエス様の上着にでもさわれば病気が治る」と信じていたのです。
隊長は軍組織の中で生きてきて、"従わせる力を持った権威ある言葉"というものを、よく知っていました。上官から命じられれば隊長自身が従うように、隊長が配下の兵隊に「行け」と言えば行き、「来い」と言えば来て、「これをしろ」と言えばそのとおりに従う。隊長の命令が、配下の兵隊に対して権威があるからです。同じように、イエス様が病気に「出ていけ」と言えば出ていく、イエス様が病人に「治れ」と言えば治る、それほどの権威がイエス様にあることを隊長は受け入れたのです。

新約聖書には百人隊長が6人ほど登場しますが、彼ら軍人は権威というものに敏感だったからでしょうか、そのうち4人までもイエス様を信じるのです。

イエス様を信じるということ

現代では、権威という概念は何か古臭いものに感じられるかもしれません。父親の権威、教師の権威、国家の権威などというと、それは子どもの人権、生徒の人権、国民の人権に対立するものに思えるかもしれません。でも信仰という分野は主権在民ではなく、主なる神に主権があるのです。ヨハネ福音書17章2に「あなた(父なる神)は子(イエス様)にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」とあります。イエス様を信じることは、イエス様の権威に従うことなのです。

【今日のお話しの聖書箇所】

ルカによる福音書7章1~10

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からおうかがいするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしのしもべをいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

「今日のお話しから」は、幼稚園礼拝で聖書のお話をした際に、保護者向けに作成したレジュメです。

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作成:2000年1月16日

布忠.com