聖書を遊ぶ 第3回
漢字で遊ぶ
このページはあくまでも、駄洒落とこじつけで「こんな読み方をするのもおもしろいですよ」と書いているものです。なお、筆者はいわゆるゲマトリアには、賛成も反対もしていませんので、あらかじめご承知ください。
現在まで聖書の原本は発見されていませんが、最古であろうとされる写本を底本として、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語から、日本語聖書が翻訳されました。
今回はその翻訳について遊んで見ます。テーマは「聖書と漢字」です。
「祝」と「呪」
アブラハムの子イサクには、双子の息子がいました。兄がエサウ、弟がヤコブです。もちろん普通に考えれば、兄のエサウが家を継ぐはずでした。
ところでエサウが相続するのは、父の財産だけではありません。創造者ヤハウェがアブラハムに約束した祝福をイサクは相続していて、イサクの後継者はその祝福も相続するのです。
ところがある日。狩人のエサウが死ぬほど空腹で帰ってきたとき、家事手伝いのヤコブは「長男の権利と引き換えなら、今作っている料理をあげるよ」と持ちかけたのです。エサウは「飢え死にしては、長男の権利など何になる」と、交換してしまいました。
そして後日。ヤコブと母リベカの策略によって、父イサクはエサウに与えるはずの祝福をヤコブに与えてしまったのです(つまりすべてをヤコブに相続させてしまったのです)。
エサウにはもう祝福は残っていませんでした。それどころか、祝福とは反対に、呪いが与えられたのです。
聖書は、エサウが「長男の権利」(ヘブライ語で「べラーカー」)を軽んじたから、祝福(ヘブライ語で「ベコーラー」)を失ったのだ、と言っていますが、もうちょっと見てみましょう。
エサウは、神ヤハウェの祝福を相続する「長子の権利」よりも、口を満たすことを選択してしまいました。
兄であるエサウが、自分の前にネ(=神)を置いていれば祝福だったのに、兄の前に口を置いてしまったために、呪いになってしまったのです。
(遊びですよ、念のため)
(祝福の「祝」の字の部首「ネ」(しめすへん)は、もともと「示」という形で、祭壇を表す象形文字から転じて神を表します(祈る、社殿、礼拝、など。)
・・・という思いつきをある牧師に話してみたら、そういう例は他にもあると教えていただきました。以来、ちょこちょこと収集してきたものを以下にあげます。
「船」
(坂井栄一牧師より情報提供)
ノアの箱船には動物たちが、清い動物は7ペア、清くない動物は1ペアずつ載せられました。では人間は何人乗っていたでしょう。
ノアと妻、ノアの3人の息子とそれぞれの妻、計8人でした。箱船の人口は、八人だったのです。
それで、丸木舟、渡し舟など小型のフネを表す舟に八の口で、大型のフネを表す船という字になるのです。船という字の起源は、ノアの箱船だったのです。
「義」
(坂井栄一牧師より情報提供)
アブラハム100歳のとき、待望の嫡子イサクが生まれました。ところが創造者ヤハウェは、自分でアブラハムに子供を与えておきながら、アブラハムに「イサクをいけにえとしてささげろ」などと命じたのです。でも、アブラハムがイサクを縛って祭壇に横たえ、まさに命を奪おうとした瞬間、ヤハウェはアブラハムの信仰を認め、彼を制止したのです。
この一事によって、聖書は「アブラハムは信仰によって、義と認められた」と評しています。
我の上に羊(=いけにえ)を置いて、高いところにいる創造者の前にささげると、義つまりヤハウェの前に正しい者と認められるのです。
洗礼者ヨハネがイエスを「神の子羊」と呼んだとおり、イエスは人の罪を清算するために、十字架という祭壇でヤハウェにささげられました。イエスを「我のためのいけにえの羊」として、この羊をいけにえとして殺したのは我だと認めるなら、ヤハウェはこれをその人の罪を清算するためのいけにえとして受け入れ、その人を義と認めるのです。
「砕く」
(カーティス・ヴァン=フーラ牧師の説教から。2001年4月)
「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」創世記3章15のこの言葉は、キリスト(彼)とサタン(お前)の戦いについての予告であると解釈されます。福音書の記録では、キリストのかかとはクギで十字架に打ちつけられて砕かれましたが、ヨハネ黙示録ではキリストの最終的な勝利が予告されています。それが聖書のストーリーです。
ところで、「主はわたしの岩、砦、逃れ場。わたしの神、大岩、避けどころ。わたしの盾、救いの角、砦の塔。」という詩をはじめとして、キリストは聖書ではしばしば、防護壁的な岩にたとえられています。またマルコ15章25によると、「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」と記録されています。
というわけで、砕くという字の石はキリストを表し、卆のほうは、キリストが十字架でかかとを砕かれたのが、午前九時だったことを表しているのです。
「福」
(メールマガジン「クリスチャン・ライフ」発行者より提供。2001年5月)
この字はネ、一、口、田からなります。神がアダム(一人の人)と、エデンの園(田)にいることを表しています。
田がエデンというのはこじつけに思われますか?アダムはエデンの楽園で毎日あそんで暮らしていたわけではありません。エデンを管理するという仕事が与えられていたのです。人が、神からつかわされているそれぞれの持ち場で責任を果たすことが、福なのです。
「王」と「主」
(メールマガジン「クリスチャン・ライフ」発行者より提供。2001年5月)
キリスト教の神は、唯一神です。しかし同時に、創造主であるヤハウェという神、救い主であるキリストという神、弁護者である聖霊という神がいます。三であると同時に1である、これをキリスト教用語で三位一体(さんみいったい)といいます。
王という字が三と1からできているのは、三位一体者こそがこの世の正統な主権者であることを示しているのです。
キリスト教の三位一体とは、単純にばらばらな3者が一心同体ということではありません。あくまでも唯一者なのです。ということで1を強調すると、主になります。だから「主なる神」というのです。
「羊」
(メールマガジン「クリスチャン・ライフ」発行者より提供。2001年5月)
この字の中には、三位一体を表す王があります。十字架もあります。王である神キリストが、十字架という祭壇でいけにえにされている様子なのです。(ネのもとのかたちである、祭壇をあらわす示へんも、少し形を変えて入っているようにも見えます)
だからイエス・キリストは「神の子羊」と呼ばれるのです。そして前述のとおり、我の上にこの羊をかかげ「イエスは私の罪を清算するためのいけにえだった」と受け入れることが義なのです。
「世」
(メールマガジン「クリスチャン・ライフ」発行者より提供。2001年5月)
この字の中には、三本の十字架が立っています。しかも、右の十字架は中央の十字架と同じ地平に立っていますが、左の十字架はそれより低い地平に立っているのです。
神キリストであるイエスが十字架刑に処せられたとき、二人の強盗もイエスの左右で十字架にかけられました。このとき、強盗の一人はイエスに「お前がキリストなら、自分を十字架から救い、俺も救って見せろ」と毒づいたのですが、もうひとりの強盗はイエスをキリストであると信じ、イエスから「あなたはわたしとともに天国にいる」という約束をもらったのです。
なぜそのエピソードが世という字になったのかというと、世界中の人間は、イエスを神キリストであると信じて受け入れ天国に入るか、イエスを拒絶して"永遠の炎"(地獄)に行くかの、どちらかだからです。それを決めるのは、世界中のひと一人一人です。
「協」
(メールマガジン「クリスチャン・ライフ」発行者より提供。2001年5月)
愛そのものである神にとって、人間とのかかわりの究極目標は、一人でも多くが天国に入ること。ただ正義そのものでもあるヤハウェは、罪があるままの人間を天国に入れることはできません。そこで、キリストが人間の罪を肩代わりして罰を受けることで、キリストを受け入れた人が天国に入れるように道を作りました。そして聖霊が、キリストを受け入れるようにと人をうながすのです。
ヤハウェ、キリスト、聖霊が力をあわせて、十字架という手段で人を救う。それを表すのが協という字なのです。
「仕」
京都のユテコさんからの投稿です。2005年5月。
この字は、人を表すイ(にんべん)と、_(大地)の上に立つ十字架からできています。
これを教えてくれたユテコさんは、フィリピの信徒への手紙2章5〜9節を添えてくださいました。以下に引用します。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
神が人となって、ゴルゴタの地に立てられた十字架に至るまでに、「仕える者」となったキリストを、この字は表しているのです。あわせて、マタイによる福音書20章26〜28も引用します。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
こうしてみると、「士」や「土」を含む漢字にいろいろ発見できそうですね。
「罪」
「たっちゃん」さんからの投稿。2009年1月27日追加。
「罪」という字を分解すると、「四」と「非」です。
「四」は世界を表します。
「非」は不正、認めない、を表します。また「非」の形は、「扉」や「排」にも見るように、左右に分けることを意味します。
すると、「罪」という字は「世界を認めない」、「世界を分ける、隔離する」ということになります。
つまり、「神さまの造った世界を否定する」、「神(の世界)と人(の世界)をわけ隔てる」という意味になります。
罪とは、そのようなものだということを字さえも教えています。
管理人より:「四」が世界を表すというのは、四方ということですね。投稿者はこれを、アメリカの宣教師から聞いたそうです。日本人など普通に漢字を使う文化の人よりも、表意文字というものへの興味関心が強いのかもしれません。
「神」
「たっちゃん」さんからの投稿。2009年2月1日追加。
「神」という漢字は、「ネ」と「申」に分解できます。
「ネ」は、祭壇を示す「示」で、それ自体「神」を意味します。
「申」は、天から地に向かって走る稲妻の様子を表します。
「神」という字は、天から地上に来られた神の子イエス・キリストのようです。また、「申す」という言葉は、「言う・告げる」の謙譲語・丁寧語です。
さらに、「・・・という名である」の尊敬語です。
天地万物をお造りになられた神は、私たちに呼びかけてくださり、お語りになられる方です。
そして、私たちに「私は、『私はある。』という者である」と、その名を告げられました。(こじつけのような気もしないではありませんが、神の聖さ、偉大さを思わずにはいられません。)
管理人より:「ネ」が神を表し、「申」が稲妻を表すというのは、「神」という漢字の由来として正しいのです。まさに「神であるキリストが人となって世に降られたイエス」ですね。
「恵」
「たっちゃん」さんからの投稿。2009年4月20日追加。
また漢字について聞いたので投稿します。
今度は「恵」という字です。「恵」という字は、「十」と「思」からできています。
「十字架」の救いを「思う」ことは、まさしく神さまの「恵み」です。
管理人より:「思う」といえば、コヘレト書3章11には神が「永遠を思う心を人に与えられる」とあります。この永遠についてはヘブライ書13章20で、十字架の主イエスこそ「永遠の契約の血による羊の大牧者」と呼ばれています。「十」+「思」=「恵」というのは、「まさに」という感があります。