聖書を遊ぶ
アブラハムの妻サラ

menu

このページは、聖書に書いていないことを筆者の想像で書いています。このため、聖書に反しない範囲で書いてはいますが、「解釈」としては正統なものではないことを、あらかじめご承知ください(聖書に反すると思われた場合には、メールでご指摘ください)。
なお、従来の解釈に異を唱えている部分もありますが、それらの解釈を支持する方自身を否定するものではありません。


聖書を読んでいくと、第一巻の創世記の途中で、奇妙なおばあさんに出会います。サラというこの女性は、イスラエルの祖アブラハムの妻でした。
彼女のどこが奇妙か。サラの身に起きたことを、その当時の彼女の年齢を意識しながら読むと、「一体、なぜ?」という思いに悩まされることになります。

「キリストが処女マリアから産まれた」などというと「そんなことはありえない」という反応が一番正直なんじゃないかと思います。が、91歳の老婆の出産も似たようなものです。(「91歳なんてまだ若い」という声もあるかもしれませんが、出産に適した年齢を基準として、ここでは老婆と呼ばせていただきます)
いえ、マリアのほうが生殖機能があるだけ有利かもしれません。サラも夫も高齢。自分はとっくに閉経しているし、「もはや楽しみがあるはずもなし」と、夫婦にだけゆるされる性の喜びがすでに遠い過去のことだと自分で言っているのです。

ところが、文字通り奇跡的な排卵があり、しかもちょうどその時に(おそらく何十年ぶりかで)夫婦は喜びの交わりをかわし、若い夫婦でも確率に左右されるというのに見事に受精。さらに、90歳の老婆の肉体が、昼は灼熱夜は酷寒という荒野で十月十日(とつきとおか)の妊婦生活をすごし、出産(医療設備の整った現代の先進国における、若くて体力のある母親にとってさえ安全とは言えない)を、荒野のまんなかのテントの中で経験したのです。

こんなことが90歳の老婆におこったのです。いやたしかに、ヤハウェはすばらしいと言わないわけにはいかないでしょう。


さて、ここから私の「遊び」が始まります。いえ、私自身は遊びのつもりはありません。聖書には書いていないが、きっとこうだったのだろうという自説です。

確かに、生命を創造するヤハウェに、人に肉体を与えるヤハウェに、老婆に出産させるくらいのことは可能です。しかし可能だからといって、実際にそうしたとは限らない。
だいたい、エバの罪のためとはいえ、出産が苦痛をともなうようにしたのはヤハウェ自身です。それが老婆にどれだけ危険なことか、一番知っているのがヤハウェなのです。それに、老婆に排卵させ、受精させ、長い妊婦生活を送らせ、出産という危険を乗り越えさせるよりも、ヤハウェにだけ可能なもっと合理的な方法があるじゃないですか。

ヤハウェはサラを若返らせたに違いない!

そう考えると、ほかのことも説明がつくのです。なぜファラオやアビメレクが、サラを召抱えようとしたのか。彼女が若返っていたからではないか。
年齢を重ねてもなお、人間的に輝くような魅力をただよわせていらっしゃるご婦人もおられます。しかしサラについては、ファラオもアビメレクも、人妻を召抱えたことに対するヤハウェの判決を受けそうになったときに「まだ何もしてないのに罰を受けなければならないのか」と言っているのです。性的な目的もあって召抱えたのは確かでしょう。

さらに、下世話なことですが、若返った妻が相手のほうが、夫アブラハムも子作りにはげみやすくなったことでしょう。

上へ 次へ

更新:2003年2月17日

布忠.com